第9話 仏壇にケーキを供え仏間でチキンを食べるイブ

 天気予報が怪しい挙動を見せた。今度の金曜から土曜にかけて天気が崩れるというのだ。

 今度の金曜日とは十二月二十四日で、今度の土曜とは十二月二十五日である。

 世間はその二日間をクリスマスイブおよびクリスマスと言う。


 この季節に、天候が崩れる。クリスマスの日に雲が広がる。

 つまり、ホワイトクリスマスになるかもしれない。


 二十四日の朝、向日葵は朝食を食べながら流していたニュースの天気予報を見つめてにやにやしていた。

 本当は降られると困る。明日市内の公園で大きなローカルイベントがあり、今夜もその準備と前夜祭が予定されているのだ。向日葵は仕事としてそのイベントに参加しなければならなかった。

 一方で、太平洋沿いに住む静岡県民にとって雪は特別な存在だ。御殿場や日本アルプスのほうはわからないが、少なくとも沼津市民にとって雪は数年に一度見られるかどうかの天変地異なのだ。

 見たい。


「降らないかなー雪」


 母の桂子が食事のテーブルを拭きながら「冗談じゃないわよ」と言う。噂の、さらさらの黒髪で色白で秋田出身の美魔女である。父親そっくりの顔をした向日葵は何度彼女に似たかったと思ったことか。


「今日から大事な、大事な大事な旅行なのよ? うち冬タイヤなんてないのに雪道走るなんてことになったら!」

「旅行に行くのはお父さんとお母さんだけじゃん、雪道運転するのわたしじゃなくてお父さんだもん」

「そう、そうなのよ。いいでしょう。旅先で事件事故がないように祈っててね」


 我が母ながら能天気な人だ。口ではなんやかんや言っていても基本的には夫婦水入らずの旅行を前にして浮かれている。


 お茶農家は冬季休業である。春から夏にかけて週八日の勢いで働く代わりにこの季節はのんびりしている。桂子は毎日必要最低限の家事だけやったら後は趣味の料理やジム通いに精を出して遊び暮らしていた。


 広樹と桂子は仲がいい。結婚してだいたい二十七年だそうだが、今でも――否、もしかしたら子供たちがみんな成人した今だからこそかもしれないが――時々二人で外食やショッピングに出掛ける。今回もクリスマスデートなどとのたまいこんなピンポイントの日程で箱根旅行を計画している。朝食を片づけたら出発だ。壁際に並ぶ大小のボストンバッグふたつが光り輝いて見える。


 確かに箱根なら雪が積もるかもしれない。国道一号線を一時間もしないような距離なのに、こちらとあちらでは気候がまったく違う。

 沼津は今は、晴れている。しかし今夜からは天気が崩れるはずだ。基本的には雨だろう。だが雨は夜更けすぎに雪へと変わると信じたい。


「いいじゃん、雪の箱根」


 何も考えていない父は食器棚に食器をしまいながらそんなことを言い出した。


「降り積もった雪を眺めながらの露天風呂。そして雪見酒。カーッ! 日本人に生まれてよかったな」

「まあ、そう言われれば、そうかもだけど。でもホテルに着いてからにしてほしいなあ、昼間は星の王子様ミュージアムと高級フレンチが……」

「昼のうちに降り始めないと夜積もらねえら」


 朝食のデザートとしてみかんを食べている祖母が大きな溜息をつく。


「いいわねー若者は。ばあちゃんはもうおじいちゃんが死んじまったので独り身ですよ。今夜は仏壇にケーキ上げて仏間でチキン食べようかな」


 若者は笑ってはいけないシルバージョークである。


「デイサービスにでも通うか? 新たな出会いがあるかもしれねえ」

「じいちゃんに操を立ててこのまま一緒の墓に入りたいなあ。まあ男漁りとはまた別にお友達作りで男女問わず出会いを求めてもいいのかもしれないけんね」

「私からしたら、内臓年齢五十代の人が老人向け施設に通って何するの? っていう感じだけど……食事も歩行も何の問題もないのに……」

「カラオケ大会とか? ばあちゃんOfficial髭男dismとかKing Gnuとか好き」

「そういうカラオケなら椿と行けよ」


 向日葵の隣で黙っておとなしく天気予報を見ていた椿が露骨に嫌そうな顔をした。振らないでほしいらしい。そういえば彼はカラオケに行っても頑として歌わないタイプだ。なんとか歌わせてみたいという嗜虐的な気持ちと無理強いはよくないという倫理観のはざまで向日葵はいつも葛藤する。


「じゃ、お袋はいつもどおり店開けたり閉めたりして好きに過ごして。仏壇に一個六百円くらいするお高いケーキ供えてミュージックステーションのスペシャルでも流しながら食べて」

「はーい。今日はピスタチオのムース買っちゃおうかなあ」

「ひまと椿は? 二人もデートとかするの?」


 自然な流れで話題が回ってきた。父はこういうところがうまい。


「ひいさんはお仕事と言うてはります」


 椿が言った。あからさまに拗ねている。


「ごめんってば……毎週第四土曜日だけはだめなんだってあらかじめ言っておいたじゃん……今年は年末で最後のイベントだから前夜祭も盛大にやりたいし……」


 両親が大袈裟な声で非難してくる。


「えーっ、やだーっ、ひまちゃん冷たいー! 新婚で最初のクリスマス仕事で潰すとかあるー?」

「働くの? クリスマスなのに? しかも土曜日なのに? ありえねえ。お父さんはお前をそんなカチカチした子に育てた覚えはありません」

「おい、親。親はクリスマスも働く子供を誇りに思ってくれ」


 祖母が椿に「ばあちゃんと仏間でケーキ食べる?」と言ってくる。椿が「そうしようかな」と呟く。


「まあ別にええんですけど。ひいさん大学の時からクリスマスはバイトで忙しかったですし。僕は毎年クリスマスはひとりでしたし。例年どおりです」

「客商売で稼ぎ時だったんだよゆるしてくれ」


 向日葵はぶすっとした顔の椿を横から抱き締めた。そして、クリスマス当日のイベント後はなんとかしようと決意した。


 一応向日葵もイベントごとは好きだ。しかしクリスマス、バレンタインデー、ホワイトデー、誕生日――そういった恋人同士が好むイベントにはさほど重きを置かずに生きてきた。世間の人たちがこだわっているほどその日当日にやらねばならないと思っていないのだ。世間が浮かれている時は稼ぎ時で、人の流れが落ち着く平日に出掛けるのが農家、もっといえば自営業の本来あるべき姿だ。誕生日もクリスマスもやれる時にやれるタイミングでやれれば満足だった。

 一方椿のほうはそういう形式にこだわりたいタイプである。逆に、行事といい指輪といい、椿はそういう形の部分できずなを深めないと恋人同士の何たるかを確認できないのか、という不安もあるがそれは今回はおいておく。


 向日葵も椿と過ごしたい。両親の言うとおり結婚して初めてのクリスマスだ。彼がこんなに向日葵との時間を求めているというのに答えてやらで何とする。クリスマスイブの本日は祖母と仏間でお高いケーキを食べてもらうことになってしまうが、せめて明日はどうにかしたい。


 する。


「よし!」


 向日葵は立ち上がった。


「明日は椿くんも一緒に仕事に行こう!」


 家族四人分の視線が向日葵に集中した。


「明日のイベント。椿くんも参加しよう」


 椿が唇を尖らせた。


「僕も行ってええの?」

「というか、もっと早く気づけばよかった! 椿くんを連れていって、椿くんをお客さんに紹介したり椿くんにイベントの感想を言ってもらったりすればいいんだ! もっと早くそうすればよかったよ!」


 椿に向かって微笑んだ。


「行こう、『週末の沼津』」



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