第5話 いざゆかん、ワークマンへ
「――と、言いましたが!」
祖母がちょっと厳しい目をする。
「おばあちゃんは椿が勤め出るの反対です」
突然の手の平返しに椿も向日葵も「えっ」と呟いた。
祖母が溜息をついた。
「年末年始だら? うちいてほしいね。あんまこういうこと言うと、これだから田舎のばあさんは、と言われるかもしれないから言わないでおこうかと思ってたけど、他の誰でもなく椿が後から気にすると思うからあえて今言わせてもらうね。うちいなさい」
「なんでですか」
「そりゃうちが本家だからさ」
向日葵はきょとんとしたが、椿は納得したのか手を叩いた。
「親戚の皆さんにお年賀のご挨拶をせなあかん」
「そうだら? あんたは本家の跡取りの婿なんだから、正月に顔を見せませんじゃあ本家の名がすたるら」
「おおお……久しぶりに我が家が田舎の古い家であることを感じた……」
「古臭くて嫌な話かもしれないけど、戦前生まれのじいさんばあさんが一掃されるまでは気をつけてもらいたいもんだね」
「あかん。それは確かに僕後から気にするわ。うちも古い家やったからそういうご挨拶だけはきちんとせなあきまへんと言われて育ったんですわ」
「だら」
向日葵もこの家を継ぐ以上は一応心に留めておいた方がいいだろう。祖母の言うとおり、一番気にするのは親戚付き合いを重視する椿だ。彼の顔を立てるためにも自分は家にいて訪ねてくる親戚を迎え入れられる状況にしなければならない。
「だから
「そうだったのか……」
「あんたっちはまだ若くて子供がいないから、遊ぶ金欲しさによそに働き出た、と言えなくもない。それに、この先長い人生、永遠にいつまでも今の状況でいられるとは限らないから、いつかはそういうことも考えないといけないかもしれない。けど――」
祖母が手を伸ばした。そして、椿の手元のタウンワークを閉じた。
「養うだの養われるだの言ってるんだったら考えるのはやめなさい。あんたは店の留守番も家事もがんばってくれてる。店も家もみんなの共有財産。換金してくるのは
椿は一度首を横に振ってから、「だめやないです」と答えた。
「はい、このお話はお終い。桂子ちゃんには後で私がお説教しておくからね」
一瞬、話がまとまった気がした。
向日葵はほっと胸を撫で下ろしたし、椿も軽く頷いて沈黙しようとした。
「いや指輪の話解決してへん」
「忘れてなかったか……」
「忘れられへんわひいさんの手ぇ見るたび思い出すわ」
椿が「丸め込まれへんで」と言ってタウンワークを握り締める。その握り方には怨念のようなものがこもっている。意地の世界だ。富士山並みに高い椿のプライドが傷ついたのだ。
「自分で稼いだ、まとまったお金が欲し――」
「金!?」
勢いよくふすまが開いた。
ふすまのほう、廊下のほうに目を向けると、そこにがっしりとした体躯に作業着姿、はっきりした二重まぶたに日に焼けた肌の大男が立っていた。池谷家の大黒柱、向日葵の父親の広樹である。
「椿がお金欲しいって!?」
向日葵は今からこの後に続く父のむちゃくちゃを想像してげんなりしてしまった。父はいつもこうだ。空気が読めないふりをして強引に自分に都合よく話を進めようとする。さて、今日はどんな無茶ぶりをしてくる気だろう。厄介な人に絡まれてしまった。
「仕事斡旋してやろうか」
名家の子息として育ち、企業経営も親族でがちがちに固めるのを当たり前に思っているらしい椿が、舅の縁故、というややこしい状況に気づくことなく表情を明るくした。
「仕事って言ってもバイトだけど。お手伝いに行ってくれれば日当を貰えるぞっていう話なんだけど。お前のお望みどおり、お試しの短期で、お前に無理のない範囲で」
向日葵は「そんな都合いい話ある?」といぶかしんだが、次に父の口から出た言葉で即座に理解した。
「屋外だけどどうせ日が暮れたら終わる仕事だし」
農作業だ。百五十年の長きにわたって農協と手と手を取り合って生きてきた家系の男が、婿に農業バイトをさせようとしている。
しかし、
「まあ……それならいいかな……」
向日葵もお茶農家の娘なのだった。
この季節、つまり冬の農作業といえば、この辺ではみかんかいちごの収穫である。文字どおりの土いじりではない。田舎ならではの面倒臭い人間付き合いときつい肉体労働はあるだろうが、客も来ず、休憩時間も適当で、ノルマはあるかもしれないが売上ではなく収穫量だし日当で働くバイトに求められるとは思わない。
椿が「えっ、決定権ひいさんにあるの」と呟いた。
「ちょっと……まず業務内容を……僕もいろいろ考えたいことが……」
父が座り込み、椿の肩を抱く。
「なに、簡単な話だ。みかんをもぐだけの仕事だ。っつうか、みかんをもぐおばちゃんたちのおしゃべりを聞く仕事だ」
予想どおりだ。
「若者に飢えた熟女たちのぴーちくぱーちくに相槌打ってりゃいいだけのお仕事よ。酒を飲まなきゃいけないホストに比べたら百分の一楽よ」
「ほんま?」
今度は祖母が顔をしかめる。
「あんたまたそういうこと言って。普通のバイトなら一日でばっくれられるけど農協つながりのバイトは一日でばっくれたら池谷さんちの婿殿はって言われるよ」
「いや普通のバイトは一日でばっくれんなよ。みかんは日当だから逆に無理なら一日で辞められるじゃん」
彼女の息子である父はいたずらそうに微笑んだ。
「それにさ、ここはばあちゃんのお力でしょ。お袋様のご威光で、うちの婿に悪さすんじゃない、って言えばいいだけの話なんじゃねぇの」
祖母は向日葵の知る中でもっとも肝の据わった人間だ。彼女のパワーを信じている向日葵は、「そうだね、それなら安心だ」と頷いた。椿は「ほんまか?」と疑っているがそれこそ農家の婿は口を挟める立場ではない。
「ジャージある? みかんの収穫は土いじりじゃねぇけど農作業だからな」
「椿くんがジャージかあ」
椿のジャージ姿を妄想する。大学四年間で彼が運動をしていたところを見たことがないので、向日葵が彼のジャージ姿を拝むのは付き合い始めて初である。普段はきちんとした着物を着込んでいるから、一周回ってコスプレのようだ。いつも清潔な彼とは結びつかない土ぼこりで汚れた姿が浮かんだ。みかんの収穫ならシトラスの香りがするかもしれない。胸の奥がきゅんと鳴った。
「ジャージ持ってないです」
「んじゃ今から買い行くぞ」
そう言って立ち上がろうとする父の作業ジャンパーの裾をつかんだ。
「ジャージならムラサキスポーツとかアルペンとかにして」
「何言ってんだ、どうせ汚れんだ、ワンシーズンで捨てても悔いのないものでいいだろ」
「絶対いや。椿くんには高いもの着せておきたいの。わたしのプライドが許さないの」
「プライドで腹は膨れねぇんだわ、腹を膨らませるのは汚れた作業着で収穫する大地の実りなんだわ」
椿が「いや、僕が着るもの……」とおそるおそる何かを言おうとしたのを遮って、祖母が言った。
「作業着ならワークマンだら」
向日葵の頭の中に、つなぎ姿の椿が浮かんだ。
かわいい。
「ワークマン! 行こう!」
「なに張り切ってるん?」
この夜、向日葵はつなぎを着た椿を思う存分写真撮影して大いに楽しんだ。
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