第6話 西浦は燃えているか?

 沼津市南部では寿太郎じゅたろうという品種のみかんを栽培している。温州みかんの一種で糖度が高い、自慢の一品である。


 主に西浦にしうらという地域で作られているが、この西浦がまた市街地から遠い。まず、国道414号線、通称八間はちけん道路をひたすら南下する。伊豆の国市との分岐点にある狩野川の溜池口野くちのの放水路を右折し、駿河湾の雄大な太平洋が見えてくるとそこがかの有名なラブライブサンシャインのモデル地域内浦うちうらである。この内浦をさらに超えて南進、海と山のはざまの絶景を臨むと右手にJAなんすんの西浦支店が見えてくる。


 当然ながら公共交通機関はあてにならない。


 向日葵、向日葵の父広樹、そして椿の三人は、広樹の運転で西浦を目指していた。


「すごーい! 南国やー!」


 父の愛車、黒いミニバンの二列目シートから外の景色を眺めていた椿が、斜面にオレンジ色の実をつけたみかんの木が並んでいるのを見て、無邪気にそう叫んだ。


「見渡す限りの柑橘! カリフォルニア!」

「日本だわ。オレンジじゃねーんだわみかんだわ」


 父がウインカーを出しながら「そう珍しいもんでもにゃあだら」と強い静岡訛りでいう。人生五十二年で一度たりとも沼津市以外に居住したことのない男の発言だ。


「お前関西人だら、和歌山にも生えてんだろみかんの木」

「和歌山親戚いいひんので行ったことあらへん」

「なんだ、日本全国に九条家ネットワークが広がってるんかと思ってた」

「東京にはいます、ご一新の時に主上おかみと一緒に東京行った人らが」


 向日葵に「ごいっしんって何?」と尋ねてくる。向日葵が「明治維新」と答えると、頭の回転が速い父は「遷都の話かよ」と理解した。


「都にしか住まないって言え」

「こういうとこに親族いいひんから実家の人らは世間を知らんのやな」

「お父さんもだんだん京都人のものの言い方を理解してきたぞ」


 一方向日葵ははしゃぐ気にはなれなかった。助手席でフロントガラスに見える海を見ながら、さっきからずっと溜息をついていた。


 椿が心配で心配でたまらなかった向日葵は、自分もみかん畑についていきたい、連れていってほしいと父にせがんだ。椿はひとりで大丈夫だと言ったが、父に車を出してもらうのが決まっている時点でひとりもなにもないし、農作業は人手があればあるほどいい。結局、今朝、出発直前に三人でお手伝いに行くことが決定した。世間は日曜日だが精が出る。向日葵の平日の仕事は半分趣味だし自分も里香子も向日葵の本業はあくまで農業だと割り切っているのでいいのだ。


 昨日は許可してしまったが、本当によかったのだろうか。体力のない虚弱体質を海風の吹きつける屋外労働に従事させ、京都生まれ京都育ちの貴族を遠慮というものがわからない田舎の中高年の農民の間に晒す。苛酷な労働ではないのか。確かに我が家も農家だが、お茶農家の仕事が本格化するのは夏も近づく八十八夜、春から徐々に農作業に慣れさせていく計画だったのに狂った。


「あーるー晴れたーひーるーさがりーいーちーばーへと続く道……」


 うめくように歌うと、椿が「え……僕ドナドナされるん……」と呟いた。


「わたしが大事に育ててきた椿くんがみかん畑で売買される……」

「人身売買やったんか……」

「いや、さすがにそこまでブラックな環境ではにゃあだら……」


 運転席にいる父の横顔を見た。


「今日行くみかん畑、何てとこ?」


 父が「マルワ農園」と答える。


「聞いたことない」

「渡辺さんちの農園」


 ワタナベも静岡県東部では掃いて捨てるほどいる姓である。


「JAの紹介だけど、お前らと年の近い人間がいるらしい。平日は町で働いてて、土日だけ畑の手伝いに来る、甥っ子、っつってたかな。直系の息子じゃないんだけど、その子が跡を継ぐんだって」


 父はからっとした声で言った。さも善行を積んだとでも言いたげだ。


「年が近い人間がいたほうが安心だら、知らないじじばばに囲まれるだけじゃさ。若いもんは若いもん同士おしゃべりしたらいいら」


 向日葵は複雑な心境だ。椿は父が考えているのより百万倍人見知りなのだ。かえって初対面の一過的な人間関係のほうが軽くいなせるタイプで、細く長くお友達をやっていくとなるとかなりの気力が要る。

 しかし向日葵は椿の母親ではない。否、母親であってもさすがにそこまで過保護に人間関係を把握してああでもないこうでもないと口を出すのはおかしい。

 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、椿に同世代の友達が増えるのなら大いに結構ではないか。一人くらいは本音で話せるほど親しい友人ができるかもしれない。椿の友達というと大学時代にできた向日葵とも共通の友達だけである上、一番近くて現在千葉県在住である。何かあった時に駆けつけてもらえる距離に誰かがいてくれれば向日葵も安心だ。




 一時間後、向日葵は自分の判断をこの上なく後悔することになる。




 目的地の農園にたどりついた。


 椿は惚けた顔で一面のみかん畑とその向こう側に見える海を眺めていた。向日葵はそんな椿を可愛いと思いながら見つめていた。しかも本日の彼はオレンジ色のつなぎ、カーキ色のブルゾン、赤い差し色の青いキャップである。こんな椿を拝める日が来ようとは、やはり了承してよかった。


 ちなみに向日葵は高校時代の体操着である。グリーンのジャージに白いトレーナーで、トレーナーの胸には大きく池谷と書いてある。そしてその上に兄のおさがりの黒地に白い塗料で龍の描かれた厚手のパーカーだ。椿にはいいものを着せると駄々をこねたが、自分のことになるとどうせ農作業でキメキメの服装など不要の構えである。


「童謡のみかんの歌って静岡の歌なんだって。みかんの花が咲いている、ってやつ。ひょっとしたら三ケ日みっかび――浜松のほうのみかん畑かもしれないけど、なんか、よくない?」


 父が、渡辺の奥方、野良着の上に汚れたブルゾンを羽織って手拭いと帽子をかぶった女性と話をしている。向日葵と椿も先ほど彼女に挨拶したが、そのうち二人で向日葵は知らない親戚の話で盛り上がってしまったので置いてきぼりだ。


「ええな。すごくええと思う。リゾートバイトや」


 そう言って一日中みかんをもぎ続けるのに音を上げないといいのだが――


 と思ったところだった。


 公道のほうから車が一台入ってきた。シルバーのコンパクトカーだ。中に乗っているのは運転席の一人だけのようである。


 嫌な予感がした。


 駐車スペースに車が止まった。そして中からひとりの男性が出てきた。背の高い男だ。がっちりした体格をグレーのウインドブレーカーで包んでいる。


 彼がこちらを向いた。


 目が合った。


 空気が張り詰めた。


 何も知らぬ渡辺夫人が、笑顔で大きく手を振った。


「豪ー! こっちこっちー! 今日のお手伝いに来てくれた池谷さんと、その娘さん夫婦ー!」


 男が――芹沢豪が、両手を挙げた。


「これ、うちの甥っ子の豪。旦那の妹さんの息子ね。普段は県の土木事務所に勤めてるんだけど、休みの日に来てくれてね。最終的には、旦那が死んだらこの子に土地を譲ることになってんの」

「へえ……」


 渡辺夫人と池谷父の無邪気で能天気な笑顔がまぶしい。


「伯母ちゃん……実は……知り合いなんだわ……」

「あっ、そういえばあんたっち同じ高校なんだったっけね。ひょっとして同い年だったりする?」

「……うん……」

「じゃあ話は早――くなさそうな空気?」


 しばらくの間、全員が無言で立ち尽くした。





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