第4話 おばあちゃんが椿はきちんとしたしつけを受けたと思う時
師走は忙しい。師匠が走っているかどうかは知らないが、向日葵はずっと駆けずり回っている。一年の締めだからだ。締めは締めないと締まらない。直接会って一年のまとめの挨拶をすべきである。正直なところそういう口実をつけて会いたいだけではないかと思うが、この広い世界で友達こそ家族に次ぐ財産だと思っている向日葵は気づかないふりをしている。
本日土曜日の会合は中学時代の女友達とのランチ会だ。地元に残って就職した友達が四人集まったのである。うち三人――向日葵を含む――は既婚者で、さらに二人は子持ちだ。この二人は土曜休みで自宅にいる夫に子供を預けて出てきてくれた。つまり夫にワンオペをさせているということであり、彼女たちは夕飯の前に帰宅することを望んでいた。飲み会にはならないのであった。それでも盛り上がって解散は午後三時である。
満ち足りない気持ちを抱えたまま帰宅すると、椿が母屋の仏間のこたつに入った状態で渋い顔をしながら雑誌のようなものを眺めていた。
「何見てるの?」
向日葵が覗き込んだところ、彼はなんとも言えない複雑な表情で答えた。
「タウンワーク」
求人情報のフリーマガジンだ。
求人情報である。
求人情報とは。
「えっ、椿くん働くの!?」
驚きのあまり声が裏返ってしまった。
椿が小さく頷く。
「ちょいとまとまったお金が欲しいなぁと思いまして」
「何に使うの?」
椿のそばに膝をついて詰め寄る。椿が顔を背ける。
「いや……ちょっと……」
「言いにくいこと? わたしに言えないこと? わたしにナイショで高いもの買おうっての!?」
「そんな怖い剣幕で言わんでもええやん」
「生活費ならわたしがお母さんに払ってるからいらないでしょ?」
「そうやね、ひいさんに払ってもろうてるんやったね……」
椿の声が小さくなっていく。それでもいつにない焦燥感に駆られた向日葵は気づかずに突っ込む。
「実家から持ってきたお金もあるって言ってたじゃん。足りなくなった? おこづかい渡そうか?」
「実家から持ってきたお金の出どころは親やもん……親の汚い金で大切なもの買いたくない」
「大学の時には湯水のごとくわたしに貢いでいたあの金は汚い金だったのか」
「いや犯罪で作った金やないからひいさんのためにハーゲンダッツ買うてくるくらいならええんですけど、百パー自力でやりたいこともあるやろ」
「すっきりしない!」
彼の着物の襟をつかむ。彼が「んぐっ」とうめく。
「はっきり言え!」
「がっかりしいひん?」
「無許可で働きに出られるほうががっかりする!」
「ほな言うけど――」
次の時、向日葵は心底ショックを受けた。
「昨日のあの男、ひいさんが指輪したはらへんて言うとったな」
豪の顔が頭に浮かんだ。
殺意がほとばしった。
殺す。
「ひいさん、今めちゃめちゃ怖い顔したはるけど」
「いや……、いやいや、いやいやいやいや……」
「やっぱりがっかりしたんや」
「してませ……してま……いや、わたしゃ豪にがっかりしてるよ……」
着物の襟をつかんだ手を緩める。その手に椿がそっと自分の手を添える。
「結婚指輪くらい買うてやらなあかんな。自分が情けないわ」
向日葵は泣きそうになった。椿をそんなふうに思い詰めさせたくないからあえて口に出さずにおいたのだ。今ようやく椿がこの家に馴染んでいろんなことが落ち着いてきたところで、まだプレッシャーをかけたくなかったのである。
椿に負担をかけさせたくない。苦労をさせたくない。一切風雨にさらさず――というのはさすがに大袈裟で友達との集まりくらいには出かけてほしいが、金銭などという俗世のものに触れてほしくなかった。
「うだうだ言うてたら、お
向日葵は一度自分の手を椿の手からすり抜けさせてから改めて椿の手を握り締めた。
「だいじょうぶだよ椿くん、わたしそんなものいらない。そんな物なくたってわたしっち戸籍上夫婦になったら。精神的にも法律的にも結びついたのに物質的にとか世間的にとかそういうものでまで結びつく必要ある?」
「けど、なんや、男のくせに奥さんに養われてどうなん、とかいろいろ考えてしもて……」
豪について、次に会ったら本気で刺そうと思った。
「男だからとか女だからとかじゃなくて、わたしが外に勤め出てるのは業務内容が趣味みたいなもんだからだし。うちは農家で冬は農閑期だから畑仕事をしてないのは当然のことだし、時期が来たら椿くんの手も借りると思うし。だから、やりたいことがあるわけでもないのに今無理して職探ししなくてもいいんです」
「でも……」
「やだやだやだやだ!」
椿の手の下からタウンワークを引っこ抜いた。
「だいたい年末年始の短期のバイトってほとんどサービス業でしょ? わたし椿くんがひとに頭下げてるとこ見たくない!」
「えっ、逆に頭下げなくていい仕事て何? そんなこと言うてたら僕一生働けへん」
椿が向日葵の手からタウンワークを取り戻した。
「椿くんは高貴な身分なんだから堂々としててよーっ」
「いや僕ここに婿に来て実家の格とかもう関係あらへん」
「やだーっ、やだやだーっ」
「あっはっはっは」
はっと我に返って笑い声のほうに顔を向けた。
椿の向かい、こたつで祖母の
「あのねひま、どんなに高貴な身分でもまったく頭を下げないということはにゃあだよ。そんなこと言ってたら皇族の皆さまが頭を下げることなんてないことになるでよ、でもあの方々は敬意を払うべき人間には庶民が相手でも頭を下げられるだよ」
第三者である祖母に声をかけられて、向日葵は少し冷静さを取り戻した。
「ほんとだ、そういえばそうだ」
祖母が穏やかに語る。
「頭を下げることと高貴であることは反比例しない。頭を下げるというのは卑屈になることではなく、敬意の有無を表明すること。そういう意味では育ちが悪くて謝れない人間ほど頭を下げない。本当に育ちがいい人は、適切な時に適切な相手に頭を下げる」
そして椿に対してにこりと微笑む。
「椿はちゃんとうちの茶屋に来るお客さんに丁寧な対応をするだよ。この子は客商売のできない子じゃない」
向日葵の家は緑茶や茶器を販売する茶屋を経営している。表通りに面していないこともあって一見客は少ないが、リピーターによるご愛顧で百年以上営業を続けている大事な店だ。今までは祖母が一人でのんびり切り盛りしていた。最近になって椿が少しずつ店頭に出るようになったのは一応把握していたが、その点について祖母からどう評価しているのかは聞いたことがなかった。
「椿くん、店でお客様対応してくれてるの?」
椿が「普段わがまま言うてるからやね、ごめんなさいね」と微笑んだ。これは怒っている笑みだ。
祖母が話を続ける。
「育ちの良さというのは細かい所作に表われるからね。わからない人にはわからないようなところにも手を抜かない。そういうところに気品が出るさね」
みかんの皮を剥きながら「たとえばね」と例示する。
「障子がちょっと開いてたとするら。で、自分は荷物を持っているとする。そういう時、大樹とかあんたは足突っ込んで足で障子を開けようとすんの。でも椿は一回床に荷物を置いて両手で開けるワケ。そういうとこよ」
向日葵は「ごめんなさい……」と震えた。
「気づかへんかった。当たり前のことですやん」
「当たり前……わたしとお兄ちゃんはいったい……」
「そういうのがちゃんとしたしつけを受けたってことなのよ。あと姿勢の良さ、箸の持ち方、ペンの持ち方。おじぎをする時お尻を突き出さず腰を曲げて上半身を傾ける。お金の有無とか着ているものの良し悪しじゃないだよね」
みかんの房を分ける。
「逆に椿は接客業が向いているかもしれないね。お客さんに第一印象で、こいつは、と思われることはないからさ。誰に対しても礼を尽くして接する、そうすれば一見客に嫌われることはまずないさ」
「なるほど……」
「いや、客層にもよるかな。世の中にはそういう良さの正体を理解できない人もいるからね。理想は百貨店や高級ホテルに勤めることなんだろうけど西武沼津潰れちゃったし淡島ホテルはひどいありさまだし。ちょっといいとこのレストランとかどう? ちょっとした記念日に使うようなお店さ」
「ふうん、悪ないな……」
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