第3話 たくましいって何?

 午後九時を回ったコーヒー店はがらがらだった。アルコールを提供する店以外はもはやこの店しか開いていないというのに、店内の客は向日葵、椿、里香子の三人しかいない。しかも向日葵たち三人もコーヒーしか頼まないので、カウンターに立っているだけでサービスらしいサービスもできない店員が気まずそうに見える。こういう時日本もレジだろうが何だろうが店員を椅子に座らせてやればいいのにと思う。


 対面のソファ席、奥の席に椿と向日葵が、向かいの窓側の席に里香子が座る。


 里香子が化粧室で濡らしてきてくれたハンカチを椿に差し出した。椿が「ありがとうございます」と軽く頭を下げてから受け取り、自分の頬にあてた。豪に殴られて腫れた頬だ。出血は全部口の中からだったようで、先ほど店員におひやをもらってうがいをしたため今は落ち着いている。


 向日葵は里香子を眺めて溜息をついた。


 里香子は美しい女性だ。裾だけ軽くパーマをかけた肩を超えるぐらいまでのブラウンの髪、色こそ薄めだがきりっとした形の眉に黒いカラーコンタクトで大きくなった瞳、サンセットオレンジのリップ――働く女性として完璧なスタイルである。しかしこれは彼女の不断の努力によって維持されているものであり、まだホルモン治療を始めていない彼女の顎は夜九時現在ぽつぽつと黒いものが伸びてきていた。薄いニットのトップスはハイネックで、濃い紫色のショールをまとっているが、これも筋張った首やがっしりした肩を隠すためのものだ。


 天は二物を与えず。文武両道、気前が良く豪胆な性格と高身長に恵まれ、当時同学年の女子に絶大な人気を誇っていたらしい勝又力也先輩は、ただひとつだけ神様に望む性別だけが与えられなかった。

 大学に通うため上京し在学四年間新宿二丁目で自分らしく生きた『彼』を御殿場の親族は拒んだ。彼女が勝又という特徴的な姓を名乗りながら沼津でひとり暮らしをしているのはそういうわけだ。

 彼女はいわゆるセクシャルマイノリティと呼ばれる人々が生きやすい沼津を望んで会社を立ち上げた。彼ら彼女らが生きやすい沼津はきっと誰にとっても生きやすい沼津だ。今日集まった仲間たちはそんな里香子を尊重し、尊敬し、同調している――はずだと思いたいが、一部は単に高校時代当時男子バレーボール部キャプテンだった『彼』の面影に甘えているだけかもしれない。


 ちなみに彼女は現在二十七歳、向日葵からしたら四学年上だ。

 向日葵には大樹だいきという二つ年上の兄がいて、彼も同じ高校の男子バレーボール部に所属していた。『力也』が三年の時大樹が一年、大樹が三年の時一緒に活動していた女子バレーボール部に向日葵が一年生として入ってきた、というつながりである。したがって向日葵と里香子が高校で同時に過ごしたことはないが、この大樹という男が里香子を上回る猿山の大将で、バレーボール部のOBOGを学年問わず掻き集めるパワーを持っているのだ。仕事が忙しくて今日のような金曜の飲み会には参加できないのが残念だとよく言われる。


「ごめんなさい、もう豪は出禁にするわね」


 里香子も大きな溜息をついた。


「ちょっと甘やかしすぎたわ。あの子ももともとはダンバレのキャプテンだった子でね、ちょっとオラついてて男友達はいるんだけど女子の間ではあんまり人望がないの」


 対する椿は豪とはまるっきり真逆のタイプで、穏やかかつ丁寧で、もっと突っ込んで言えばたおやかとも言える物腰と美貌をもち、女子の間では絶大な人気を誇っていたが、男子の友達は少ない。


「豪がひまのことずっと好きだったのは知ってたんだけどさ、ひまが椿くんを連れてきてくれた時、そっちタイプかー、ってなったわよね。そりゃ豪になびかないわけよ」

「どっちタイプでっしゃろ……」

「いや、わたし別に椿くんの見てくれが好きで結婚したわけじゃないんですけど……わたし、男バレの人、っていうか、社長、お兄ちゃん、豪、みたいな系列の男子わりと気が合いますし……」

「わかる、わかるわ、私たちそういう系列の男子だったわ」


 里香子が両手で自分の顔を覆う。その爪には仕事に差しさわりのないペールピンクのマニキュアが施されている。指先まで完璧に綺麗だが、筋張った手はおそらく椿より大きい。大きなバレーボールを片手で持っていた手だ。


「あの、向日葵さんたちの高校て、結構元気な学校だったんです? 僕、まだこの辺の学校がようわかりませんよって」


 椿がおそるおそる言う。遠回しに不良高校だったとでも言いたいのだろう。向日葵は「勘弁してくれ」と言った。


「うち一応この辺では名の知れた進学校だからね?」

「そうやけど、殴ったり殴られたりするのを見てるとな……大樹さんも強そうやしな」

「まあ大樹は喧嘩強いと思うけど、専守防衛よ。うち、各中学から優等生を掻き集めたがり勉高校だと思われてんのか、たまにナメられるのよ。そういうのから非力な同朋を守る屈強な男子が現れるの」


 代表例としてよく挙げられるのは大樹だが、『力也』と豪もそのタイプで、今でもみんなの兄貴として慕われているわけだ。


「実際は運動部で内申点を稼いだ鋼の肉体を持つ男が多かったし、武道系の部活めちゃめちゃ強かったんだけどね」

「そういうとこなんや……」


 地方の公立高校はだいたいそうだと思われる。しかし麗しの古都京都で歴史のある中高一貫私立校に通った椿にイメージできるだろうか。向日葵も何度か説明した気がするが、里香子という第三者に説明されたことでもっと実感をもってくれることを祈る。


 高校時代が懐かしい。


 確かに、あの頃の豪は頼もしかった。体育館にポールを立てる時は率先してやってくれたし、夜遅くなった時はバス停までついてきてくれた。しかし向日葵はそういう豪の行為を責任感や友情からくるものだと信じていた。あの美しい思い出の裏に下心があったなど、裏切られた気分だ。だが同級生たちに言わせれば豪にあれほど想われておきながら応じなかった向日葵も小悪魔系の女だと思われていたらしい。ショックが大きい。高校時代の知り合いと結婚しなくて正解だ。


 高校三年間は本当に楽しかった。豪のせいで思い出のかけらが少々剥がれ落ちたが、それを差し引いてもまだきらきらしている。これからも今日のように集まって思い出話をすることはあるだろうし、最悪豪のせいで部活の仲間と縁を切るはめになってもクラスの仲間や委員会の仲間がいる。


「ええなあ。みんなたくましいんやなあ」


 遠回しに蛮族だと言われた気がしたので、平らで雅な京都盆地の中とは違い田舎の山の中なので、と嫌味っぽく言いそうになったが、やめた。自分の頬を押さえて遠くを眺めている椿の横顔を見ていると、本当に純粋に豪や里香子の体力や腕力を評価している気がしてきたのだ。そういうたくましさは確かに椿にはない。


 椿は京都の由緒正しい裕福な家庭に生まれた。家督を継ぐためだけに幼い頃から教育という名の洗脳を施され檻の中で飼うように管理され続けてきた。その上体もあまり丈夫ではなく、幼少期は喘息でよく寝ついていたという。したがって大樹や向日葵のように野山に解き放たれてボールと戯れたことはない。


「ひとと比べちゃだめよ」


 何と言って慰めようかと向日葵が頭をひねっているうちに、里香子が口を開いた。


「ひまが豪より椿くんのほうが好み。以上。その他で比べるべきことなんてないわ」

「そうですか」

「私が嫌なのは今椿くんが口にしたたくましさというものを男ジェンダーとすり替えることよ。たくましいって何? 椿くんは何をもってしてたくましいと言うのかな? 豪みたいなのをたくましいという時、具体的に豪の何がたくましいんだと思う? ひとを殴る行動力? 惚れた女の夫をつかまえてどうこうしてやろうという胆力? まさか筋肉量じゃあないわよね」


 里香子の問いかけに椿がうつむく。

 向日葵は里香子のこういう頭のいいところが大好きだ。すがりついて感謝の言葉を述べたいところだ。


「少し自分で考えてみなさい。どうしても答えが出なかったらひまや大樹に相談してみて。私でもいいわ」


 そしてバッグから自分のスマホを取り出し、「私とも連絡先交換しとこうか?」と言う。里香子のその表情はちょっといたずらそうだったが、椿はほんのり笑顔を取り戻して「ありがとうございます、おたのもうします」と言ってコートの胸元から自分のスマホを出してきた。向日葵は心から安堵した。椿のフレンドリストにまたひとり新たな人間が増える。困った時に頼れる相手はひとりでも多いほうがいい。


「あんまり考えすぎても健康によくないけどね。無意識にそんな言葉がぽろっと出るようじゃダメ」

「はい、すみません……」

「とにかく、今回は豪がわけわからんこと言って暴走して殴られたってことで被害者ぶってちょうだい。その気になったら被害届出せるわよ、止めないわ」

「いや、最初の一回なんでええですわ」

「二回目はないということで」

「はい、二回目はありません」


 向日葵はちょっと笑った。


 店員が「ラストオーダーです」と話しかけてきた。三人は慌てて立ち上がった。




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