第2話 彼女の強さ、優しさ、温かさ。そういうのに、甘えて生きている
「妻がお世話になっております。今日はもう家でゆっくりしたいと言うてますので連れて帰ります。これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかへんし、そちらさんもお仕事のお帰りでっしゃろ。お疲れ様です」
椿が流れるように滑らかな動きで向日葵に手を伸ばす。
「ほら、あかんやん。酔ったはるんやろ。コンビニで水買うて帰ろ」
そんな椿の手を、豪が叩く勢いで振り払った。
「ひまに気軽に触んじゃねーよ」
椿が微笑んで答えた。
「どっちがです?」
火花が散るのが見えてくるかのようだ。アルコールの影響で上がったはずの体温が下降していく感じがする。
「お前仕事何してんの?」
「おうちのお店を手伝わせていただいてます」
「ふうん。俺は県職員」
それはこの田舎において最高位の職と言っても過言ではないエリート層の職業だが、百万都市京都からやって来た椿にそんな威嚇は通用しない――はずだった。
「ひまっち店ってあれだろ、
椿の表情から、す、と感情が消えた。
豪がずっと握ったままの向日葵の手首を振ってみせる。
「こいつ結婚指輪してないんだけどなんでだ? お前指輪ひとつ買ってやれないわけ?」
「そう言わはりましても――」
「誰がどこ
「あんさんひいさんと同い年ちゃいますの? 僕ら同じ大卒なんとちゃいますか。中学とか高校とか、よそ者の僕の前では言わんといてくれはりませんか」
「癪に障る訛りだな」
豪を全力で弾き飛ばす。豪がよろけた隙に豪の腕をくぐり抜ける。そして椿を庇うように椿の前に仁王立ちする。
「椿くんをバカにすんなら許さない」
豪が「ひま?」と苦笑する。
「俺が述べてんのは事実じゃない?」
「重箱の隅をつついてる。椿くんの魅力はそんなどうでもいいところにあるわけじゃない。豪がほじくり返そうとしてるようなことにわたしは価値を感じない」
「じゃあ聞くけど、その男の何が魅力なの?」
向日葵は即答した。
「存在のすべてが可愛いよ。いきがってマウント取って偉そうにふんぞり返ってるテメエなんかとは違ってな」
その台詞が豪の怒りに火をつけたらしい。
「男のくせに可愛いか」
向日葵は、おや、と眉間にしわを寄せた。確かに挑発するようなことを言ったつもりはあるが、まさかそっちに反応するとは思っていなかったのだ。
「どけ」
豪に低く鋭い声で言われた。向日葵は少しひるんだ。唾を飲む。
しかしそれでも椿を守るためだ。向日葵は動かなかった。豪は椿に何をするかわからない。華奢で百七十センチほどの椿と球技や筋トレで鍛え上げられた身長百八十センチ超の豪ではやはり椿のほうが分が悪い。野蛮な取っ組み合いでは椿に勝ち目はないのだ。
残念ながら、もちろん、椿より背が低い向日葵でも物理的に豪に勝てない。
向日葵の肩を飛び越して、豪の左手が椿のコートの胸倉をつかんだ。
そして、右手を振りかぶった。
向日葵が動く前に、豪の拳が椿の左頬にめり込んだ。
椿の細い体が商店街のタイルの床の上に転がった。
「椿くん!」
急いで振り返り、タイルの上に膝をつく。椿を抱き起こす。そして不安に駆られるまま彼を抱き締める。
椿の唇の端から赤い血がにじみ出ている。
怒りで脳味噌が沸騰しそうだ。
そんな向日葵と椿を見下ろした状態で、豪が言う。
「お前、可愛いってさ」
「豪!」
「ひまの母性みたいなやつに甘えて生きてんのな。ひまの強さ、優しさ、あったかさ。そういうのをベビちゃんみたいに享受して生きてんのな」
珍しく椿も怒りをあらわにして豪をにらみつけた。
そんな椿の頭を向日葵は抱え込んだ。
「だいじょうぶだからね」
強く、強く、抱き締める。
「椿くんはそれでいいんだからね」
「……ひいさん、でもな、僕も――」
次の時だ。
豪の後ろから腕が伸びてきて、豪のコートの襟首をつかんだ。
驚いた顔をした豪が振り返ったその瞬間、今度は豪の頬に拳が叩き込まれた。
里香子だった。
里香子も男子バレーボール部アタッカーだった人だ。しかも今は十センチのヒールを履いている。百八十センチの豪よりもさらに背が高いのである。そんな里香子に見下ろされて、豪は呆然と座り込むしかなかった。
「あんた出禁ね。二度とひまに近づかないで」
男子の絶対の縦社会の中で生きてきた豪と里香子の力関係は明白だ。豪は逆らえない。自分の頬を押さえたまま、「はい」と小さく呟いた。その豪の頷きを確認してから、里香子がぱっと華やかに微笑んだ。
「はいはい、みんなごめんね、せっかくの楽しい空気に水を差しちゃって」
唖然とした顔で一部始終を見守っていたメンバーに向かって笑顔を振りまきつつ、ぱんぱんと音を鳴らして手を叩く。
「今日は解散ってことにしよっか! ごめんごめん、みんなそれぞれおうちに向かってくれる?」
おびえた男たちが「力也さんが言うなら……」と呟き、ささやき合う。
豪が里香子のタイトスカートから出る足にすがりつこうとした。それは「きめぇんだよサルが」と冷たく吐き捨てられ、あしらわれた。
「帰れっつったら帰れ」
「ごめんなさい……」
里香子が椿と向日葵に駆け寄る。
「ごめんね、変なことになっちゃって。私の監督不届きね」
「そんなことないです、社長は何にも」
「二人はちょっと私とお茶してから帰ろう。コーヒーおごるわ、慰謝料には足りないと思うけど」
「はい……」
椿と向日葵は支え合い、寄り添い合いながら立ち上がった。
「この時間じゃ開いてるカフェないかな? 田舎ってやぁね」
「あっ社長、あそこ開いてると思います、ほら、まだ外にテラス席出してる」
「ほんとだ、行きましょ」
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