太平洋は今日も晴れ ~ホワイトクリスマスなんて都市伝説です~

日崎アユム/丹羽夏子

前編 Before Christmas

第1話 人妻になってから言われましても……

 今日は向日葵ひまわりが一ヵ月前から楽しみにしていた飲み会だ。


 名目としては、向日葵の所属する会社の忘年会である。しかし向日葵の会社は社長の勝又かつまた里香子りかこが若くして立ち上げた企業で、創業してからたったの二年、しかも七人の従業員は全員同じ高校の卒業生だ。事業内容は一応プロモーション企業ということになっていて、沼津市の移住促進や観光案内などを手伝う広告会社のような存在だが、まだまだ手探りである。現状は沼津のためならどんなことでも請け負う何でも屋で、最近はプラザヴェルデ――駅の北口にあるイベントホール――にラブライブサンシャインのキャラクターのプレートを立てるだけの肉体労働までしていた。仕事というよりバイト代の出るサークル活動だ。


 そんなわけで、今日の忘年会も、社長の子分たち、やはり同じ高校を母校とするバレーボール部のOB、OGばかりが総勢十六名も集まった。内輪の仲良しグループ、しかも全員飲んで騒ぎたい盛りの二十代である。地元の飲食店に貢献するということで、沼津駅から徒歩数分、駅前で一番商店が多い商店街である仲見世通りの創作料理の居酒屋を予約したが、とんでもない宴会になることを予想して里香子はあらかじめ貸切を頼んでいた。向日葵は社長のそういう判断力、行動力、統率力を信頼している。向日葵が幹事でも同じことをしただろう。要所要所で二人は似ていて気が合う。


 会社を午後六時に閉めてから、六時半、予約した店の前で集合する。そこから二時間きっかりどんちゃん騒ぎをする。ちなみに二時間きっかりにしたのはJR御殿場線という一時間に二本あるかどうかの不採算路線の時刻表の都合だ。御殿場線は本数が少ないのでちょっとでもタイミングを逃すとこの寒空の下数十分待ちの憂き目に遭う。沼津からタクシーで帰れるほどのセレブではない沼津の北方の民――御殿場、裾野の市民たち――は一次会で悲しい別れを告げこの路線で山に帰る。沼津市民、ネットカフェやビジネスホテルや友達の家で一夜を明かす決断をした者、始発まで飲み続ける覚悟を決めた者だけが二次会行きの切符を握っている。


 お酒とどんちゃん騒ぎが好きな向日葵は二次会に進んでもよかったが、今日はおとなしく一次会で帰ることにしていた。

 迎えを夫の椿つばきに頼んだからだ。

 いくら家族とはいえひとに車を出させるのに深夜十一時とか十二時とかに呼びつけるわけにはいかない。まして椿は体が丈夫ではなく、意図して早寝早起きをさせないと体調を崩しかねない。向日葵は彼を普段どおり十時までに寝かしつけたかった。

 それに――否、もっとも大事な理由として――このメンバーが全員揃っている時に椿を呼び出したかった。


 椿がここに来ることに意味がある。


 一応会社の同僚にだけはすでに紹介済みだが、今日集まったメンバー全員に椿の顔を見せたい。椿がこの世に存在しないのなら向日葵は沼津駅から徒歩圏内の同僚の家に泊まりに行ってもいいのだ。とにかく、何らかの口実をつけて椿をひとに見せたいのだ。


 この世で一番大事な伴侶、何者にも替えがたい、可愛くていとしい夫。向日葵はそんな椿を世界中に向けて披露したいのである。


 里香子が会計を済ませている間に向日葵が会費を徴収した。向日葵にお札を渡した人間からひとり、またひとりと店を出ていった。


 ひとりの青年が逆流して店に入ってきた。


「もう終わった!?」


 彼の姿を見て、向日葵は顔をしかめた。

 軽く撫でつけた黒い髪、まだ新しい吊るしのスーツの上にしっかりした革のコート、がっしりした体格で背の高い青年だ。


 里香子が振り返った。


「あら、ごう。あんた今来たの。忙しいって聞いてたから二次会からでどう? って言ったじゃない?」


 彼――芹沢せりざわ豪が、不愉快そうな顔に大きな声で言った。


「だってひま一次会だけで帰んだろ!?」


 向日葵は一度唇を引き結んでから答えた。


「そうだけど……」

「ひまが来ない二次会なんて行く意味ねぇだろうが!」

「他にも友達いっぱいいんだろ、友達捨てんな友達を」


 豪の右手が向日葵の左手首をつかみ、彼の左手が向日葵の腰を抱く。そしてそのまま強引に店の外に出る。里香子が「こらっ、待ちなさい!」と手を伸ばすが届かない。


「ちょっ、やだ、やめてよっ! 触んないで!」


 必死に抵抗したが、身長で二十センチちょっと、体重でたぶん二十キロくらい違う豪に敵うわけがない。商店街のアーケードの明るい灯りの下、気の置けない仲間たち数名が見ている状況でも、それなりの恐怖は感じる。高校時代から慣れ親しんだ同級生であっても、向日葵は一応女性で豪は一応男性なのだ。


 何も知らない阿呆どもが口笛を吹いた。


「おっ、豪ちゃんとうとう実力行使に出たか」

「いいぞ、やれやれ!」


 女子三名ほどが「愚か者!」と怒鳴って向日葵を助けようとする。


「警察呼ぶよ!」

「ひまだから許されると思ってんでしょ!」

「もういい加減にしな!」

「ひまはもう人妻なんだからね!」

「ぜぇってぇ認めねぇ!」


 豪の怒鳴り声が、午後八時を回り八割以上の商店がシャッターを下ろして自分たち以外に歩く人の姿のない商店街に響き渡った。


「俺に面を通さずにひまの夫を名乗るなんてぜぇってぇ、ぜってぇぜってぇ許さねぇ! 今日こそツラ拝んで一発殴ってやっからな!」


 向日葵は豪に抱えられたまま「うう」とうめいた。


「公家だか武家だかなんだか知らねぇがひまと先に出会ったのは俺だ! 高一からずーっと大事にしてきたひまを俺から奪おうなんざ百億年早ぇんだよ!」

「百億年じゃあ地球誕生してから滅亡するまで入ってるし……」


 向日葵の冬のボーナスで買ったお高いベージュのコートのポケットから音がした。スマホの着信音だ。向日葵はそのままの体勢で空いている右手をポケットに突っ込み、なんとか片手でスマホを操作して電話に出た。

 聞こえてきたのは渦中の人椿の声である。


『富士急の駐車場ついたで。仲見世の一番奥やろ?』


 何にも知らない能天気な京都弁に心が癒され涙があふれる。


「つ、つばきくん、たすけて……たいへんなことになってる……」

『……ん?』

「男の人に絡まれているので……とてもとても助けてほしい……」

『は?』


 豪が向日葵の手からスマホを奪い取った。顔に近づけ、眉間にしわを寄せたまま言い放つ。


「早く来いよ。こちとらテメエのツラ拝むためにここにいんだからよ」


 そして向日葵の許可も取らず、おそらく椿の返事を聞くこともなく、通話終了の赤いボタンをタップした。


「く、くそ野郎」

「口がきたねぇぜ向日葵ちゃん。まあ俺は寛大だし向日葵ちゃんがダイスキだから許してやってもいいけど」

「いつかぜってぇ御成橋おなりばしから狩野川かのがわにダイブさせてやっからな」


 里香子が溜息をつきながら店から出てきた。


「豪、潔く身を引きなさい。あんたじゃ勝負になんないわよ。私の見える範囲でひまの旦那さんと揉めたらひまが許しても私が許さんわ」


 豪が里香子をにらみつけ、「なんで力也りきやさんが」と里香子の戸籍上の名を呼ぶ。


「力也さんだってむかつかないんスか!? だって見てくださいよ」


 彼の右手が、ずっとつかんだままだった向日葵の左手首を持ち上げた。


「こいつ指輪してないです!」


 一同が沈黙した。ただでさえ静かな商店街だ、通りの外を走る車の走行音だけが聞こえる。


 痛いところを突かれた。誰もが気づかぬふりをしていてくれたところを、豪がとうとう暴いたのだ。


「申し開きがあるなら何か言え」


 少し経ってから言われた。向日葵は脳を空ぶかしさせながら口を開いた。しかし豪は向日葵が言葉を発する前に「やっぱいい」と遮った。


「お前の夫とやらに聞いてやるわ」

「こんばんは」


 独特のアクセントの声が聞こえてきた。全員の視線が声のほうに集中した。

 美しい青年が立っていた。さらさらの髪、切れ長の目にすっきりとした鼻という整った顔立ち、紺地の着物と赤い南天の実をあしらった帯の上には黒いカシミヤのコート、映画の撮影に現れた芸能人もかくやといういでたちの青年だ。

 彼こそこの世で一番可愛い男、向日葵の夫の椿である。


 向日葵より先に向日葵の同僚の女性が惚けた顔で「椿くぅん」と呟いた。綺麗な顔立ちに丁寧な物腰の彼は女性ファンが多い。椿を推している人間は本当にいくらでもいる。向日葵は同担拒否をする気はないのでもっとみんなに椿をちやほやしてほしい。


 一方向日葵を推している人間は同担拒否をする。


「お前が九条くじょう椿か」


 豪に見下ろされても、椿は顔色ひとつ変えずに微笑んで答えた。


池谷いけがや椿です。向日葵さんと結婚させてもろた時に妻の姓を選びましたので。婚姻届にはどちらの姓を名乗るか選択する欄があるんですわ」


 豪の頬がひきつった。


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