第8話 初めての×××【過去編その2】

 それは6月に入ったばかりのことだった。昼休み、ばったり廊下で会った姫野アカネの顔色はとても青白かった。


「姫野さん、大丈夫?」

「う、うん。へい……」

「姫野さんっ⁉」


 最後まで言い切ることもできず、姫野さんが倒れ込みそうになる。俺はとっさにその肩を支えた。


「き、岸守くん、ごめ……」

「いいから! とにかく保健室に行こう!」


 あいにく保健室は無人。だが、俺はとにかく具合の悪そうだったアカネをベッドに寝かせることにした。俺はその隣の丸椅子に腰かける。


「あ、ありがと。なんだか最近、立て続けに迷惑かけちゃってるね……」

「いいよ、そんなの。それよりも……」

「大丈夫、コレ、いつものことだから」

「えっ?」

「貧血なの。吸血鬼特有の」


 アカネいわく、吸血鬼は1日に1度、最低でも数滴は血を舐めないと軽い貧血に陥るのだそうだ。


「それに加えて私は特に貧血になりやすくって。なのに今日は血液パックをうっかり家に忘れてきちゃったの。血は昨日の朝飲んだきりだったから、それで今……」

「な、なるほど。じゃあどうしよう。俺が学校抜けてコンビニで血液パックを買ってこようか?」

「だ、だめだよ。あと5分で予鈴だよ?」

「でも、それじゃあ姫野さんの体調が……」

「自業自得だから、大丈夫。放課後までガマンするよ」


 アカネはそう言って弱々しく微笑んだ。


「……」


 俺は長袖のワイシャツをまくって、素肌の腕を出す。


「その、姫野さん」

「うん?」

「あのさ、もし嫌じゃなかったら……俺の血、飲む?」

「えっ」


 姫野さんがベッドの上で硬直した。

  

「そ、その、岸守くん。それってつまり、私が吸血をするって……そういうこと?」

「う、うん」

「でも私たち、その……」

「……」


 アカネは顔を赤くして黙り込んでしまう。


 ……ああ、やっぱそうだよな。俺、なんてことを言ってんだ?


 いくらなんでも俺だって知っている。吸血は性的な快感を伴う、準性行為なのだ。付き合ってもいない、ましてや知り合ったばかりの男女がすることじゃない。

 

「その、姫野さん。ごめ──」

 

 謝りかけて、俺は口をつぐんだ。


 ……違う。謝るべきじゃない。俺は、だって……謝らなきゃいけないような下心で吸血の提案をしたわけじゃないだろ? それはきっと、優しい姫野さんだって分かってくれてる。むしろ俺が謝ってしまったら、姫野さんは俺に謝らせてしまったと後悔してしまうだろう。


 なら、続ける言葉は謝罪じゃない。

 

「俺は、元気な姫野さんが好きだ」

「っ⁉」


 アカネは目を見開いた。が、俺は構わず言葉を続ける。


「この前から少しずつ姫野さんと話すようになって、学校が楽しくなったんだ。なんていうか、こんな陰キャにも居場所ができたみたいで。だから、姫野さんは俺の恩人だよ」

「岸守くん……」

「だから、辛そうな姫野さんを見ていたくない。俺にできることがあったらしたいんだ」


 アカネの顔は青白かったのが一転して、赤く染まっている。やはり体調が不安定なのだろう。このまま放ってはおけない。俺は立ち上がった。


「やっぱコンビニで買って来るよ、血液パック」

「え、えっと、その……」

「いいって。それに、授業をサボるなんてちょっと青春っぽいし」


 笑って言って、俺が出て行こうとしたところ、


「ねぇっ」


 後ろから腕を引かれる。振り返ると、アカネはベッドに膝立ちになっていた。

 

「来て」

「えっ?」

 

 アカネは俺を引き寄せると、俺の首を抱えるようにして──。


「っ⁉」


 キスをした。その一瞬の後、俺たちの唇と唇は離れる。

 

「……キスしたことないふたりの間で吸血なんておかしいけど……でも、これでもうおかしくないよ?」


 姫野さんはうるんだ瞳を俺に向けて、

 

「岸守くん、ゴメン。吸血しても、いいかな……?」


 俺はコクリと、驚きのあまり無言で頷いた。

 

 ──それがふたりの、初めての吸血記念日だった。

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