第4話

 ギリスが絵師の工房に顔を出すと、大抵は絵の具まみれでぼけっとしているその男は、今日に限って珍しく、まともな格好をしていた。

 タンジールから特に選ばれて小宮廷に連れてこられた、向こうでの余り物だった。

 選りすぐりの宮廷絵師だったのだから、絵の技巧に問題があるわけではなかった。時々、わけのわからないものを描くだけだ。

 確かもう、二十代も半ばのはずだが、どこか、ぽやんと夢見るような顔をしており、浮世離れしていた。

 タンジールでは、つらかったと、かつてその男はギリスに語った。宮廷内での派閥争いもつらけりゃ、描くべきものが決まっていて、そこから逸脱できないことも、なんだか息がつまると。

 スィグルに選ばれて、グラナダに拉致されてきたのは、要するに、そんな負け犬ばっかりだった。

 それでもギリスは、この絵師の描く絵が好きだった。仕事で描くものも、どこか調子が外れているが、男は宮殿の中に与えられた工房の壁に、兎が跳びはねている絵を山ほど描いていた。

 兎は日々増殖していた。描いては消しているのかもしれないが、なんとなく本当に兎が生まれては死んでいくように、新しい何匹かが生まれ、いつのまにか塗りつぶされている兎がいる。

 男は気に入った兎には、名前をつけているらしかった。そして工房の壁に永遠に生きることを許した。

 ある兎には、ギリスの名前がついていた。別のにはラダックの名前がついている。たぶん見知った顔の名前は一通りあるのではないか。絵師は自分の知っている者の名前を、勝手に兎に与えているのだ。

 壁の中で丸くなって、人参をがつがつ食っている姿をした、自分と同じ名の白兎の絵に、ギリスは挨拶をした。

「怪我をしたんですか、エル・ギリス」

 兎ではなく、背後にいた絵師のほうが、そう訊ねてきた。

 ギリスは布で腕を吊っていた。痛みはなかったが、腕を使ってはいけないらしかった。

 スィグルの治癒術は結局、完結しなかったのだ。

 ラダックにぶち切れさせられたせいで、何もかも投げ出したくなったらしく、どこへでも行けと怒鳴られたので、ギリスも広間をさっさと退散してきたのだった。

「盗賊退治に失敗したんだ」

「あぁあ、それはまた。レイラス殿下はぎゃあぎゃあ言ってるんでしょうね」

 楽しそうにそう訊く絵師に、ギリスは頷いてみせた。

「ぎゃあぎゃあ言ってた。でも盗賊の件じゃない。ラダックに切れただけ」

「なあんだ。珍しいですね、殿下が金塊泥棒に切れないなんて」

 鼻をこすって、絵師は意外そうに言った。

「今回の討伐隊は、あいつが直々に指揮したから、自分の失態に切れるわけにはいかなかったのさ」

 ギリスのその答えに、絵師はきゅうに顔面蒼白になり、えっと意外そうに呻いた。

「出陣されたんですか。なんで僕も呼ばなかったんですか。せめて素描くらいさせたらいいのに」

 そう言われりゃ、そうだった。

「急な話で、思いつかなかった。ごめんな、シャムシール」

 謝ったが、絵師シャムシールはぐらりと倒れるような足取りで、絵の具に汚れた大きな平机の上にあった画帳にとりすがった。

「いいです。そういう時は想像力で、何とかでっちあげますから。あとで話を聞かせてください」

 シャムシールはタンジールを発つ時から、スィグルの辿ってきた経過や、グラナダ宮殿をとりまく者たちの姿、主立った行事などを、逐一描き続けているらしい。

 それを命じられたわけではなかった。日記のようなものかもしれないし、あるいは、宮廷絵師たちが普通にやっていることなのかもしれなかった。

 とにかくシャムシールは、どこにでもついてきて、絵を描いている男だった。

「今日は俺に、なんの用?」

「お誕生日おめでとうございます」

 突然、さらりと祝われて、ギリスはぽかんとした。

「今日だっけ」

「いいえ。来月です。二十歳ですよね。だから肖像画を描かないといけません」

 そう教えられて、ギリスは、ああそうかと納得した。

 竜の涙は広く部族領全土から集められ、宮廷に養子として迎えられるので、中には実際の誕生日が分からない者もいた。それもあってか、誕生日とされるのは、玉座の間で英雄としての名前を与えられた日だ。

 代々の英雄たちは、その戦功などを記録された英雄譚ダージに添えて、姿絵が保存されている。一つは元服する十二歳の時の肖像画で、もう一枚は二十歳になったときに描かれる。なぜなら二十歳頃は竜の涙の人生の最盛期だからだ。

 個人差があるが、これぐらいの年齢から、早い者は病魔によって衰え始めた。大人の姿をしており、まだ生気のみなぎる時期の肖像を、英雄譚ダージとともに遺したいというのは、たぶん過去の英雄たちが共通して持っていた見栄なのだろう。

 栄誉ある死であり、栄誉ある苦痛だと皆はいうが、実際に晩年の肖像を描かせる者は稀だった。

 ギリスはまだ自分の肉体に、衰えというような衰えは感じていなかった。

 それはたぶん、痛覚のない肉体の特殊な効用で、他の魔法戦士たちが衰えていくのは、育っていく石が与える苦痛のためと、それを鎮めるために用いる麻薬アスラのせいだ。だいたいの者は、元がいくら明るい性格でも、最後のころにはどことなく暗く、皮肉ばかり口にするようになり、陰湿にもなっていく。

 まあ確かに、そんなふうになった自分の肖像画を後世に残したいと思うやつは、滅多にいないだろうなとギリスは思った。もしいたとしたら、よっぽど自嘲的なやつか。

 そこまで思ってから、ギリスは自分の養父デンが、晩年の肖像を遺していることに思い至った。スィグルが落書きで描いたという、養父エル・イェズラムの、昼寝をしている肖像画が、彼の亡き今も、王宮の壁に飾られている。

 彼が命じて飾らせたわけでなく、遺された者たちが勝手にやったことだが、イェズラムがあの絵を気に入っていたことは、ギリスも知っていた。

 そういえばイェズラムにも二十歳のころの肖像があるだろうに、それよりも、石に片目まで奪われて、ふらふらになった晩年の昼寝絵が好きだったのか。

 変わった人だったよ。ギリスは改めて、そう思った。

「どんな絵にしましょうかね。正装か、軍装で描くのが普通ですが、別に絶対それじゃないと駄目ってわけではないようです。確か、踊っている絵の人もいます」

 絵師シャムシールは、ぼんやりと考えているギリスの思考に合間がやってくるのを、どうやら待ってくれていたようで、絶妙の間合いで再び話し始めた。

「これが自分らしいと思う姿で描かれればいいみたいですよ。軍功に重きを置いている人には、軍装が多いです」

 そう例をあげるシャムシールには、どうやら自分は軍功を誇る質と思われているらしい。まあ、そう思うのは普通だなと、ギリスは考えた。

 なんせ無痛のエル・ギリスは、詩人たちの紹介するところによれば、強大な氷結魔法を操る冷酷な氷の蛇で、森からの敵が操る悪魔の巨獣をたった一人で仕留める、守護生物トゥラシェ殺し、だから。

 確かに、ギリスにとって、戦は良かった。思い切り暴れることができた。それによって誉められたし、イェズラムも喜んでいたようだった。英雄譚ダージも民に愛されているらしい。

 でもそれが、自分の生涯を象徴するもっとも重要なものか、ギリスには分からなかった。

 兎の絵でいいんじゃないのと、考えるのが面倒くさくなり、ギリスは思った。

 そう思って、壁の兎を見たせいか、絵師はギリスの視線をたどり、それから首を横に振った。

「兎の絵ではだめです。一応、写実的でないと」

「俺なんにも言ってないじゃん。絵はなんでもいいよ。お前がてきとうに描いてよ」

「じゃあネコミミでもいいんですか」

 脅す口調で、絵師は言った。

 うっ、とギリスは呻いて、一歩よろけた。

「それが俺の生涯を象徴してる?」

「冗談ですよ。英雄のそんな肖像を遺したら、僕だって絵師としてやばいです。他人任せじゃ、もしそんなのを描かれても、文句が言えないんですよって話です」

「うーん。じゃあ、宮廷着かなあ、どっちかというと……」

 決めかねながら、ギリスが答えると、シャムシールはやはり意外だという顔を見せた。

「僕の勘では軍装だったのに」

「正装した絵を描くにはさ、正装しなきゃなんないの?」

 面倒くさいよという嘆きを滲ませて、ギリスは訊ねた。

 タンジールでは晩餐の席にも正装して出るものだったので、それが板についていたが、グラナダ宮殿では、そういった習慣はなかった。スィグルは初め、長年の先入観から、廷臣たちを集めて晩餐の席を設けようとしたが、ここではそういう習慣はないという官僚たちの一蹴を受けて、皆それぞれ食堂で、都合のつくときに各自で飯を食っていた。

 スィグルはがっかりしたらしかったが、本音を言えば気楽らしい。ギリスは領主に付き合って、その時々の場所で飯を食っていたが、スィグルが残念がっているようには見えなかった。

 なにより、わざわざ着替えなくてもいいのが楽だ。

 タンジールに戻る時のことを考えると、こんな怠惰に慣れていいわけはないが、解放されてみると、宮廷着が窮屈だったことを、ギリスは初めて感じた。

 グラナダでは、タンジール王宮で普段着として身につけていた以上の贅のある衣装を着る機会は稀だったし、もっとだらけた日には、市井の者や官僚たちが普段に着るような、質素で実用本位の服で済ますことも多くなった。

 そんな姿は英雄らしからぬとスィグルは眉をひそめているが、ギリスは、細かいことは気にしないでほしかった。とにかく暑いのだから、ここは。

「別に正装しなくてもいいですよ。普段着のままでいいです。僕が適当に、それっぽい宮廷衣装を着せて描きますから」

「そんなことできるのか?」

 びっくりしてギリスは訊ねた。

 スィグルは絵を描くのが趣味で、時々らくがきめいたものを描いているが、あいつは見たものをそのまま描くことしかできないと言っている。服だけ変えるなんてことが、できるものなのか。

「できますよ。想像して描けばいいんですから。実物が見られるほうがいいですけど、時には想像のほうが、いい絵になることもあります」

「想像」

 そんなもんかと感心して、ギリスは反復した。

 そういえば確かに、シャムシールが兎を山ほど見に行っているという話は聞かない。この壁に描かれているのは、この世のどこにもいない、シャムシールの想像した兎なのかもしれなかった。

 こいつ、ぼけっとしてて、頭の中にいつも兎がぴょんぴょんしてるのさ。

 そう思ってみると、絵師シャムシールの夢見るような雰囲気に、ギリスの中でものすごく説得力がついた。

「シャムシール、俺は今着てるような普段の格好が、いちばん自分っぽいと思うんだけど、どうかな。それはさすがに駄目か」

「いいんじゃないですか、別に。実際あなたは二十歳の頃、このグラナダ宮殿にいて、そういう格好をしてたんだから。問題は、あなたがそれを後世の人に記憶させたいかです」

 同意してくる絵師にギリスは安堵したが、ぽわんとした男の夢を見ているような目と見つめ合うと、もしかして変人同士で納得しあっているのではないかという嫌な予感がしてきた。

 タンジールにいた頃は、周りに常に賢く常識的な誰かがいて、自分が妙なことをすれば、それはおかしいと教えたり叱ったりしていたが、グラナダに来てからは、そういうことがあまりない。みんな変人ばかりなせいではないのか。

「僕は、次の誕生日で二十六なんですけどね、エル・ギリス」

 シャムシールはのんびりと教えてくれた。

「自分の生涯を象徴する姿はどんなのかって訊かれても、まだ分かりません。それをあなたは二十歳で決めないとけないんだから、土台無理じゃないですか。勘違いってこともありますし。深く考えるより、今の実際の姿を、そのまんま描いておけばいいんじゃないかなあ」

「じゃあそれでいいよ」

 考えても分からない気がしたので、ギリスは絵師の話に乗った。

「でも、腕は怪我してないほうがいいですね。いつも怪我してるわけじゃないから。治癒者に直してもらわなかったんですか」

 もっともな質問を、シャムシールはしてきた。矢傷は深手だったので、そのほうがいいのかもしれない。

 しかしグラナダ宮殿には竜の涙の治癒者はいない。一般の魔導師に治させると、スィグルほどではないにしても、時間を食った。それがどうしても面倒だったのだ。別に自然に治るだろう。

 ギリスは怪我をして治癒術を受けるといえば、戦場での経験が主だった。あそこでは一刻を争う大怪我をすることもあったし、それに魔法戦士たちは、できるものなら瞬時に回復して、また戦い続けることを期待されていた。

 だから石を持った治癒者の魔法が惜しげもなく与えられたし、大抵の傷はそれによって見る間に治った。それに、奇蹟のような治癒術を振るう、エル・ジェレフもいたし。

 スィグルがもたもたやってるのと比べると、あいつがいかに稀代の治癒者だったかが、今さら分かる。

 あそこまでとは欲張らないが、せめて石を持った治癒者が、グラナダにもいたほうがいいのではないかと、ギリスは願っていた。

 他はともかく、スィグルに何か万が一のことが無いとは言えない。現に今日だって、矢を受けかけた。

 王族の身分に似合わず、とっさの機転で念動を振るったのは、びっくりしたが、それで本当に助かった。あのとき致命傷を負っていたらと思うと、ギリスは頭が真っ白になった。

 そういう時にあいつを救える治癒者がいないと、まずいだろうと、前々から思い、要請はしていたが、治癒者の派遣に長老会は渋々だった。それでも誰か送るという約束をしたものの、未だに誰もやってこない。

 長老会は、族長リューズのために治癒者を確保しておきたいのだ。

 遺伝的な心臓疾患を発病させて、族長が倒れたとかで、長老会は粟を食って、各地に散っていた治癒者たちをタンジールに召還しはじめた。

 族長には病気を隠しているというが、巡察に出したはずの治癒者がぞろぞろ戻ってきたら、族長だっておかしいと思うだろう。

 族長リューズに死んでほしくない気持ちがあるのは分かるが、ちょっとやりすぎではないのかと、ギリスは不思議だった。

 次代に使える治癒者がひとりもいなくて、困るとは思わないのか。

 イェズラムが生きていれば、それくらいの簡単なこと、すぐ何とかしたろうに。

 ギリスはそう思った。

 そして、また何度目かに気付いた。

 イェズラムはもう死んだ。

 どこにもいない。だから誰か、残った他のものが、なんとかするしかないのだ。

 たとえば新星を託された自分が、もっとしっかり働かないと。

 そう考えると、自然とため息が出た。

 絵師がやんわりと嫌みなく、腰掛ける椅子をすすめてきた。

「とりあえず、素描から描いてみましょうかね」

 にっこりとして、絵師は提案した。ギリスは頷いた。

 しかし今描かれると、きっと俺は捨てられた犬みたいな、情けない顔をしているだろうなと思った。

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