第3話

「それは牛の目のファサルでしょう」

 経理報告書を抱きしめたまま、金庫番の官僚ラダックは言った。

 小宮廷がひらかれる前からグラナダ宮殿に仕えており、地元に精通した男だ。

 その話を聞きながら玉座に座り、横に突っ立っているエル・ギリスの包帯だらけの腕の、肘のあたりを、スィグルは握りしめていた。

「牛の目? 優雅さの欠片もない渾名だな」

 スィグルが悪し様に言うと、ラダックは、はあ、と気のない返事をした。

「しかし、この界隈では有名な盗賊です。弓の名手でして、目にもとまらぬ二連射で、はるか先にいる砂牛の両目を同時に射抜くというので、その異名なんです」

 そういえば、ギリスが腕を射抜かせて防いだ矢は、二本連れだって飛んできた。でもまさか、あれが一人の射手によって連射されたものとは、想像もしていなかった。

 盗賊とはいえ、大したやつがいるものだ。そう感心して、思わずギリスの顔を見上げると、ギリスもうっすら驚いたような顔で、こちらを見下ろしていた。

「やっぱりご存じなかったんですか、その程度のことも」

 どう聞いても非難としか思えない口調で、ラダックが言った。

 スィグルは官僚のお仕着せに身を包んで立っている、無表情な男の顔を見返した。

 お前、いくらなんでも非礼ではないのか、僕は領主で、しかも王族で、ギリスも一応は、準王族の身分なんだから。

 ラダックは、そのずけずけした物言いが、かつて統治を委任していた前の領主の気に染まず、一悶着も二悶着もあったらしいが、結局その敏腕のために、首を切られずに済んでいたという官吏らしい。

 その後、スィグル本人が領主としてやってきたため、別の職務を与えられたその男は、いかにもせいせいしたようにグラナダを出て行った。

 スィグルも当初はラダックの放埒ぶりに、毎日、何本かずつ神経が切れたが、それがすっかり切れ終わってからは、なんとなくこの男が気に入っていた。

 たぶん、自分の口の悪さについて、ラダック本人は無意識なのだ。

「いかにも都会っ子みたいな、いけすかない態度ですもんね、おふたりとも」

 ラダックは冗談ではないらしい口調で、真面目に言っていた。

「しょうがないだろ、本当に都会っ子なんだから。僕はともかく、ギリスなんぞ従軍以外でろくにタンジールから出たこともないような箱入りなんだぞ」

 あきれてスィグルが答えてやると、ラダックもあきれた顔をした。

「エル・ギリスはともかく、殿下はご自分の領地でしょう。ろくすっぽ知りもせずに、よく着任なさいましたね」

 スィグルは眉間に皺を寄せた。

 あまりにもラダックの言うとおりだったので、どうやって話をそらそうかと思った。

 しかし、逃げを打つ必要もなく、ラダックの批判はそれだけで終わりだった。話は守備隊のことに移った。

「守備兵がへなちょこなのは、前任の雇われ領主のせいです。統治を委任した王族がグラナダを放置しているのをいいことに、いいかげんな仕事しかしていませんでした」

 ラダックは苦々しくそう言ったが、彼が話題に出した王族とはスィグルのことだった。

 確かに放置していた。でも、それにも事情があったんだ。元服したとたん敵にとっつかまるわ、同盟の人質には選ばれるわで、僕はそれどころじゃなかったろ。

 ラダックもその話は知っているはずだが、その点を割り引いてくれている気がしない。

「守備兵は宮殿の正規兵といっても、市民兵で、大半の者は常任ではないです。副業を持っていて、仕事があるときだけ招集されています」

 その話に、スィグルもギリスもうっと息を呑んでいた。

「どうしてそんな遊び半分の兵が守備兵なんだ」

「経費を削減するためです。常任の正規兵を多数抱えておくには、莫大な経費が必要になりますから」

 鬼の経費削減はラダックの常套手段だった。スィグルは何か言おうとする自分の喉が、あまりの話に言葉を失って喘ぐのを感じた。

「お前のせいか、今日の敗北は!」

 やっと人語が湧いてきた。叫ぶように言ってなじると、ラダックは顔をしかめた。

「違います。前領主がけちったのです。彼は文官で、戦闘には全く興味がありませんでした。タンジールに栄転することしか頭になかったんですから」

 そんな大馬鹿者をタンジールに栄転させてやったのは、この僕さ。とんだ阿呆の王族だよと、スィグルは気絶しそうになった。

 グラナダを武装解除したも同然のやつに、よくぞ長年無事に治めたと、ご褒美をくれてやるなんて。

 腕をつかんだまま、がっくりと項垂れたスィグルを、ギリスが横目にじっと見ていた。

「何だよ、ギリス。なにか言いたいなら、はっきり言え……」

 八つ当たりの怨念を籠めた声で、スィグルが訊ね、横目で睨み返すと、ギリスはそわそわし、言っていいのかなという顔をした。

「じゃあ言うけどさ、いつ終わるんだ、お前の治癒術は。実はもう終わってるのか」

「終わっていない」

 項垂れたまま、スィグルは答えた。

「ああ、なんだ。それは魔法を使っていたんですか。いつ訊いたらいいのか正直困りました」

 ラダックが、ひどく納得したように何度も頷いている。

 そんなもん、気になるなら最初に訊けと、スィグルは思った。

 ギリスが治癒者にかかるのは面倒くさいと言って、消毒と止血をしたあとの傷をほったらかして普段通り生活していたので、すぐに傷が開いて、流血を見せられた。それに心底うんざりしたので、このところ治癒術を使っていなかったから、練習がてらにと試してやったのだ。

 そうしたら、猛烈に技が衰えていた。

 傷が深手だったせいもあるかもしれないが、いくらやっても完治しない。

 それで執念深く腕を掴んでいる羽目になったのだ。今さら、できないとは言いたくない。屈辱的すぎる。

 魔法というのは、どうも、使わないと衰えるものらしい。

 矢を防いだ時の念動術は、よくぞうまく働いたものだった。あれこそ必死のなせる技か。

 もしもスィグルに天与の才がなくて、念動が使えなければ、今頃グラナダ宮殿には喪章が掲げられ、領主レイラスの葬式の支度が行われていたかもしれないのだ。牛の目のファサルなる、下郎のために。

 次代の族長冠を狙おうという者が、そんなことでくたばったら、タンジールにいる兄弟たちの、いい笑いものになっただろう。

 どうも、いろんな点で、自分は迂闊で、自信過剰すぎた。慎重さと、堅実さが足りなかった。スィグルはその事実に、内心こっそりと気付いた。

 しかし、危ないからといって、宮殿に引っ込んでいたら、埒があかなかったのも事実ではないか。今日のことは、いい勉強だった。

 いずれ自分に、族長となる日がもし来れば、父リューズがそうだったように、宮廷にだけでなく、全軍団の長としても君臨する必要があるのだ。その時に、まともに戦えもせず、奥に引っ込んでいてどうする。

「ラダック」

 まだ顔をあげる気力がないまま、スィグルは信頼している官僚に呼びかけた。

「なんですか殿下」

「宮殿と、グラナダの財宝を守備するに足りるだけの、常任の兵をそろえるために必要な経費を、この宮殿の金庫は捻出できるのか」

 その質問に、ラダックはしばし考え込むふうだった。

 金庫番がどんな表情をしているのか見たいと、スィグルはやっと顔を上げた。

 ラダックは計算している無表情だった。やがて難しい顔のまま唇を舐め、それから彼は答えた。

「即答できません。確認の上、ご報告申し上げます」

 官僚らしい慎重な答えだった。

 しかしスィグルはそれに苛立った。できそうなのか、無理そうなのか、それぐらい分かるだろ。

 そう言おうとしたとき、ギリスが急に口を挟んできた。

「できるかどうかじゃなく、常任の守備兵は必要だ、ラダック」

「そうでしょうか、エル・ギリス。確かに現状の兵はへなちょこですが、グラナダはこれでも今まで何とかなってきました。盗賊は問題ですが、それ以外の点では、平和なもんです。私も遺憾ではありますが、いくらかの金塊を盗賊に掴ませることで、うまい均衡を保ってきたのです。やつらも全部は盗りません。盗られる分より、削減できる経費のほうが高額であれば、帳尻は合います」

 玉座の脇に立つ英雄に、金庫番は物怖じもせずに、すらすらと反論した。ギリスはそれを、不愉快がる気配もなく、大人しく聞いていた。

「もしもの場合を考えろ。もしも盗賊より強いものが襲いかかってきたら、あんな兵しかいなくて、どうするつもりだ」

 ギリスの応酬は正論だった。

「タンジールに援軍を要請できます。王都は目と鼻の先、鷹の翼で半日足らず、強行軍で一日半の距離です。二日持ちこたえられればいいのです」

 だから兵をけちっても何ともなかったのだと、ラダックは言外にそう言っていた。グラナダはタンジールに近く、巨大な輝く星の、ちっぽけな伴星のようなものだった。

 ラダックの説は、無責任なようでいて、長らくこの宮殿を運営してきた者ならではの、地に足のついた説得力があった。

「二日か。それなら保つかもしれないな。でも、もし、援軍が来なかったらどうなる。それとも、タンジールからやってきた正規軍が、敵としてグラナダを包囲したら?」

 ギリスが真顔で口にした仮定に、ラダックは真顔で相対していたが、どこか虚脱したような目だった。

「それは現実的な仮定ですか、エル・ギリス」

「そうだよ。もしこいつの親父が頓死して、王宮の誰かが玉座を乗っ取り、勝手に族長になって、政敵であるこいつを正面切って始末しようとしたら、内戦になる可能性がある」

 ラダックは、ますます虚脱した目をした。

 そう言うギリスを、スィグルは横目に睨んだ。

 とんでもない話だった。

 しかし否定するのは軽率だった。

 そういうことが、絶対にないとは言えない。

 族長リューズは偉大であっても、血も肉もあるただの男で、突然の死に見舞われる可能性は誰にでもある。それを考えたくはないが、万が一そうなれば、ギリスが話したようなことは、むしろ現実的でさえある。ほかの継承者たちは王宮にいて、自分はその外にいるのだから。

 お前、なんにも考えてないような顔して、案外普通に頭は働くんだなあと、スィグルはギリスを見つめた。

「その時、戦うのですか、エル・ギリス」

 ラダックが、珍しく呆然とした口調だった。

「他にどうする」

「戦って、どうするのですか」

 ラダックはギリスの答えに、次の質問を追い被せた。

「こいつの敵を、撃破するのさ」

 玉座にいるスィグルを顎で示して、ギリスはさも当たり前のように、ラダックに答えを与えた。

 撃破してどうするのですかと、ラダックが訊くだろうと、スィグルは待った。

 しかし官僚は、腕に抱えた経理報告書をまさぐるだけで、またしばしの沈黙に潜った。

 ギリスと睨み合って、彼は考えているらしかった。

 何を。スィグルは推し量ったが、ラダックの思考はどう出るやら、いつも分からない。

「わかりました。経費を捻出しましょう。ただし段階的にです、エル・ギリス」

 その返事を、ギリスに向かって話すラダックの顔を見て、スィグルは妙な気持ちになった。そもそも、その答えにつながる問いかけをしたのは、僕だろ。

「それでいいよ。お前の裁量でやればいいさ」

 ギリスはにっこりとしていた。ラダックの答えが、気に染んだらしい。

 スィグルはため息をついた。

 どっちが玉座に座っているほうか、お前は分かっているのか、ギリス。

「ありがたい領主様をさしおいて、廷臣どもが何の話だ」

「しょうもないことで、いちいち拗ねないでください殿下」

 まったく呆れたという、いつもの口調で、ラダックが即答してきた。

 スィグルはそれに、若干ぶち切れそうになった。しかし堪えた。この程度で怒鳴っていたら、いつか本当に脳の血管が切れる。

「それじゃあ私は帳簿と睨み合う必要がありそうですので、さっさと退出いたします」

 退出してよいとも言われていないが、ラダックはさっさと跪拝叩頭しようとした。

 しかし謁見の広間の床に膝をついたところで、ラダックは、ああそうだったという思い出した顔をした。

「伝言を忘れてました。エル・ギリス。絵師が待っています。行ってください。その、いつ終わるかわかんないヤブ治癒術が終わったら」

 ラダックはそう言ってから、忠実な廷臣にふさわしいく、深々と叩頭した。

 そして、顔をあげてから、さらに付け加えた。

「それ、いくらヘボ魔法でも今日中には終わるんですよね、殿下?」

 もう終了と思ったあとの不意打ちに、スィグルは無防備だった。

 あっけなくぶち切れて叫ぶ領主の声に怒鳴られながら、ラダックはさっさと立ち上がり、広間を出て行った。

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