第2話
もんどり打って落馬する守備兵を見下ろし、弓を引き絞った崖の兵たちが、うめくような悲鳴をあげるのが分かった。
スィグルも、たった今見せられた射手の腕前に、思わず息を呑んでいた。
盗賊たちの弓術は、正確無比だった。
砂丘を走る砂牛の、波打つような背から、無造作に放たれる矢は、ほとんど一矢の無駄もなく、吸い込まれるように輸送馬車の守備兵の急所を射抜いていった。
彼らには迎撃する間もなかった。
唖然と見る兵たちに、ギリスが手を挙げて、攻撃の間合いを知らせた。
そうだったと、スィグルは我に返った。見物に来たのではない。輸送馬車を守るために来たのだ。
「引きつけろ。まだ射程に入っていない」
戦いへの怖れと興奮のためか、さっさと放ちたがって気もそぞろな兵たちに、ギリスはのんびりと話した。
先程のあれを見て、ギリスはなんとも思わなかったのか。
目の前で、守備隊が全滅させられたのに。
瞬きもせず目をこらして、じっと接近してくる盗賊を見ているギリスの顔は、真剣そのものの無表情だった。氷のような色合いのその蛇眼で、ギリスは敵の騎獣が、射程内に突入してくるのを見た。
「放て」
号令するギリスの声に、応える射手の動きはちぐはぐだった。
すぐ放つ者もいれば、遅れる者も、動揺したように手元を狂わせ、矢をつがえ直す者までいた。
矢は乱れて、ばらばらと飛んでいった。
そして、射程内と思われた距離に、はるかに届かずに街道の石を打った。
ギリスが初めて、驚いた顔をした。
「矢をつがえろ」
彼は命じたが、矢が届かなかった事実に動揺したらしい兵たちは、さらに攻撃準備にまごついた。
目を細めて、スィグルは崖下の光景を見つめた。盗賊たちは、崖上にいるこちらに気付いた。
そりゃあ馬鹿でも気付くだろう。ぱらぱらと矢が降ってきたのを見たら。
うすのろな射手たちが第二矢をつがえたとき、盗賊の中から、最初の矢が飛んできた。
それはまさに流星もかくやという勢いだった。
崖はしに膝をついていた弓兵のひとりの顔面を、黒い羽根をつけた矢が貫いた。
兵は悲鳴もあげずに背後に倒れ、なんの傷も負っていない者たちが、総出で悲鳴をあげた。
「矢除けを立てろ。
呆然として何もしない兵たちに、ギリスが怒声をあげた。
兵たちには念のためといって、ギリスが矢を防ぐための防御楯を持たせていた。
号令で我にかえれた者だけが、グラナダ宮殿の紋章が描かれたその板を、囲いのように立てて自軍を守ろうとした。
それをやり遂げた者の楯には、その半瞬のちに、黒羽の矢が何本も音高く突き刺さり、そうでなかった者は、自らの身で矢を受けた。
「スィグル、さがれ」
振り返って、ギリスが叫んだ。
いつもぼけっと暢気なギリスが、激昂することがあるのだと、スィグルはどこかぼんやりと、それを聞いた。
死んだ兵の弓を奪って、ギリスはそれに矢をつがえた。
彼がそれを放つと、矢羽根が風をきる鋭い音がしたようだった。
スィグルは矢除けの隙間から、その矢の行方を見つめた。
グラナダ宮殿の守備兵には、黄色と黒の縞模様に染められた矢羽根の矢が支給されていた。スィグルの紋章が
ギリスが放った
ギリスは休むこともなく、第二矢をつがえ、それを放つと、また次の矢を連射した。
彼の狙いは正確で、次々と打ち漏らし無く敵を屠った。
「ぼけっとすんな、どんどん射ろ!」
あぜんと眺めていた兵たちを、ギリスが激励した。
その声に奮い立たたされ、先頭の兵たちが構える矢除けの合間から、守備兵たちは攻撃を再開した。
敵は矢除けの合間を狙ってくるほどの手練れだった。
こちらもまだ兵を失ったが、盗賊はじょじょに数を減らしているようだった。
何となく呆然として、スィグルは戦いを続ける兵たちの背中を見つめた。
なぜこういう事になったのかと思った。
確か、狙撃をするために、ここに潜んだのだったろう。
だけど矢が全然当たらなかったよな。
それに対する敵は、たかが卑しい盗賊だというのに、あの正確さだ。
そりゃあしょうがない、金塊を盗まれても。たぶん今まで、盗まれる時の守備隊と、盗賊との戦闘は、出会い頭のほぼ一瞬で終結していたんだろう。
こちらの負けで。
あとはのんびり、盗み放題だ。輸送馬車の金塊が、どうも丸ごと消えるわけだよ。
そう理解したスィグルの耳元を、叫ぶ女のような音をたてて、流れ矢がすりぬけていった。
ぎょっとしたようにギリスが振り向いた。
その彼の背後から、矢が二本、ほぼ同時に放たれたかのように連れ立って、黒羽を唸らせ飛び込んでくるのが見えた。
「ギリス、よけろ」
とっさにスィグルはそれだけ命じた。
ギリスは従順に背をそらせて避けた。
しかしそれによって、目前に迫る矢が、背後にあるものを攻撃することに、彼は気付いた。
ギリスが腕をのばした。矢を掴むのかと、スィグルは一瞬思った。
しかしいかなる英雄も、そんな神業を行えるわけはない。ギリスは自分の腕に、矢を当たらせたのだ。
一矢はギリスの肘より少し上あたりを射抜いた。もう一矢は、骨にはじかれ、軌道を変えて、さらに飛翔を続けた。
これは
それを見下ろし、スィグルはどっと汗をかいた。忘れていた呼吸が、そのときやっと戻ってきた。
ギリスが蒼白な顔で、こちらを見ていた。
腕に受けた矢は半ばまで突き通っており、矢柄を伝って血が滴っていた。
それでも彼は平然としている。たぶん痛みを感じないからだろう。
しかしその流血を見て、スィグルは自分の呼吸が激しく乱れるのを感じた。
たとえ本人が平気でも、そういうのは見てるこっちが痛いんだよ。
戦いはまだまだこれからだと、唐突にそう思った。すっかり頭に血が上っていた。
アイレントランから飛び降りて、兵を押しのけ、スィグルは自分が持っていた王族用の華麗な弓に、矢をつがえた。
それは朱塗りの矢柄に金の象眼がされており、矢羽根は純白だった。
華麗な一品だが、それでも実際に射れば、敵を殺傷できる武器だった。
弓の腕には自信があった。少なくとも、狙う相手が輪っかを描いた的や、宙に投げられた
生きて動いている人の形をしたものを、射るのは苦手だ。血を流すから。
しかし今は、そういう気がしなかった。
盗賊たちは待ち伏せに気を削がれたのか、金塊を諦めて去る気配をしていた。
まだ自分の射程内に居残る彼らの、撤退していく背を、スィグルはひとつずつ狙って、赤い矢を放った。
それは安定して良く飛んだ。
矢が盗賊の首筋を射抜き、その体が騎獣から落ちるのを見つめながら、スィグルは矢をこしらえた職人を誉めてやらなければと思った。
実用と美と、ふたつを兼ね備えてこそ、誇りある我が部族の用いる武器にふさわしい。
射程内にいた最後のひとりが、逃げおおせていった。
砂丘の向こう側に消える騎影を、スィグルはじっと睨んだ。何人か撃ち漏らしたなと思って。
最後に射そびれた矢をつがえたままの弓を、スィグルはだらりと足元に提げた。
ふと見ると、兵たちが自分を見上げていた。
彼らはなんとも複雑な目をしていた。
こちらを恐れているようでもあり、崇めているようでもあった。
「お前たち」
スィグルの乾いた喉からは、いくぶん掠れた声が漏れた。
「弓が下手すぎる。それでも正規兵か。お前らに、誇りはないのか」
いきなりの領主からの叱責に、兵たちはじょじょに首をすくめたようだった。
どんなめに遭わされるだろうかという顔を、彼らはしていた。
新しくやってきた本物のグラナダ領主が、王族のひとりで、しかもひどい癇癪持ちだということを、未だに知らないでいるグラナダ市民はもういないらしい。
どんなめも、こんなめもない。一体どうしてくれようか。
スィグルはそう思い巡らし、唸りたい気分だった。
「確かにここまで下手くそだと、俺も弁護してやる言葉もないな」
突然、いつもの暢気な声で、ギリスが言った。
はっとしてスィグルが振り返ると、彼は砂地に胡座をかいて、腕を貫いた矢を抜こうとしていた。
「ここまで真ん中だと、どっちに引き抜くか決められないなあ。
血に染まった腕を挙げて、ギリスにそう訊ねられ、スィグルはやっと、卒倒しそうになった。
とにかく血を見るのが、領主は苦手だったのだ。
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