第2話
◇
「姫さま、おはようございます。朝のお祈りの時間ですよ」
はきはきとしたマリーの声が近づいてきて、はっと懐かしい夢から醒める。
人形姫の朝は早い。朝食前から祈りを捧げなければならないからだ。
物心がついたときから同じ時間に起きているため、普段はひと声かけられれば難なく目覚めるのだが、今朝は妙に体が重かった。
長い「夢」を見ていたような気がする。わずかに身じろぎをして、再び寝台に沈み込んだ。
「姫さま、お寝坊はいけませんよ」
しゃっ、とカーテンが割り開かれる音がした。天蓋から下されているカーテンを、マリーが開けたのだろう。まぶた越しに強い光を感じて、ぎゅっと目を瞑る。
……眩しいわ。マリーったら、こんなに急にカーテンを開けなくてもいいのに。
と、そこまで考えてはっとした。今、私は「眩しい」と感じたのだろうか?
眠気など、瞬く間に吹き飛んでしまった。上掛けの中にうずくまったまま、おそるおそるまぶたを開いてみる。
痛みを覚えるほどの眩い光を感じ、再び強くまぶたを閉じた。
どくどく、と脈が早まっている。
嘘じゃない。この痛みも眩しさも。
一瞬、白い光の向こうに皺の寄ったシーツが見えた。それを確かめるように、もういちどゆっくりと目を開けてみる。
「姫さま! 今朝はやけに粘りますね。レイヴェルを呼んでしまいますよ! お支度をしなくてよろしいのですか!」
すこしだけ叱るような色を強めたマリーの声とともに、薄手の上掛けがさっと取り払われた。
視界がちかちかと点滅する。ああ、やっぱり、痛いくらい眩しい。
「……姫さま? いったいどうなさいました? 目が痛むのですか?」
私の様子がおかしいことに気がついたのか、マリーらしき人影が朝の光の中でかがみ込んだ。その際に、天蓋から下ろされた薄絹のカーテンが揺れる。
……ああ、見えるわ、私、見えるのよ。
女神さまはこれを代償だと言ったが、とんでもない。気づけば私は感動で涙を流していた。
マリーが私に手を伸ばすようにして、おろおろとしているのが見える。いつでも毅然としている彼女の、そんな姿が見られたことすら私には嬉しかった。
「……ふふ、マリー。そんな困ったような顔をしないで。私は大丈夫よ」
涙を拭い、一層明瞭になった視界の中で彼女の灰色の瞳を射抜く。
マリーはこれ以上ないくらいに目を見開いており、驚きを隠しきれていない。
「姫さま……? 目が……? 目が、見えていらっしゃるのですか?」
マリーの目もとには、私が幼いころにはなかった細かな小皺が寄っていた。一見すれば厳しい顔立ちも変わらない。
「ええ。……女神さまがね、私に光をお与えになったのよ」
嘘は言っていないが、人形姫が口にすると意味深な言葉になってしまった。
現に、マリーは両手を口に当てて、小さく首を横に振りながら感涙を流している。
「奇跡です……姫さま、ああ……!」
奇跡、本当にその通りかもしれない。目が見えるようになったことも、女神さまとお話をしたことも、何もかもが非現実じみた奇跡だった。
「……すぐに殿下にお伝えいたします!」
マリーは泣きじゃくりながらも、駆けるようにして私室から出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、どくん、と心臓が跳ねるのを感じる。
……お兄さまが、いらっしゃるの?
目が見えるようになって浮かれていた心が、別の意味で暴れ出す。失ったはずのお兄さまとお母さまが、生きて、ここにいらっしゃるというのだろうか。
その答えは、まもなく自分の目で確かめることとなった。焦ったように寝室の扉が大きく開かれ、その向こうから背の高い青年が駆け込んでくる。
「コーデリア!」
みずみずしい初夏の朝日に、すこし癖のある白金の髪がきらきらと輝いていた。凛とした若緑の瞳は、目いっぱい見開かれて余裕がなさそうだ。
姿自体を見るのは十年ぶりだが、一目でわかった。瞬く間に目頭が熱くなり、視界が歪む。
「お兄さま……!」
縋るように両手を差し出せば、お兄さまは寝台のそばへ走り寄ってきて、その勢いのままに私の手を握り込んだ。
それは確かに、慣れ親しんだお兄さまの手の温もりだった。
……お兄さまが、生きていらっしゃる。生きて、笑っていらっしゃる。
涙に濡れた唇で、お兄さまの頬にそっとくちづけた。敬意と親愛の証だ。
「コーデリア……本当に見えているんだね。こんな奇跡が起こるとは……」
お兄さまは珍しく言葉に迷う素振りを見せ、指先で私の髪を耳にかけてくれた。幼いころから変わらない、慈しむようなこの仕草が好きだ。
「やはり、女神はお前とともにあるんだね」
感動を隠しきれていないお兄さまの言葉に、彼の手を握ったまま深く頷く。
「ええ……お兄さま。女神さまは、私たちを見守ってくださっています」
女神さまがくださったこの奇跡を、無駄にはしない。
絶対に、このやり直しの生で与えられた使命を果たしてみせる。
……今度は誰も死なせないわ。お兄さまも、お母さまも、民も、絶対に。
あの災厄を引き止めてみせる。美しいこの国を守ってみせる。
――たとえ、レイヴェルを殺してでも。
二度と触れられないと思っていた温もりを前に、固く誓う。
血の温みが染みついた手のひらが、人形姫の定めを刻みつけるように熱く燃えていた。
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