第3話
そのあと、駆けつけた医師による診察を受け、私の視力が回復した報せは瞬く間に離宮じゅうに広がっていった。次から次へと使用人が見舞いに訪れては、私に祝福の言葉を述べてくれる。
その合間に、現在の正しい時節を知ることができた。
今は、女神さまと話したあの夜からちょうど一年前の初夏。私はまだ十七歳で、災厄は起こっていない。
……結局、あのお声は本当に女神さまのものだったようね。
あんなふうに、女神さまとお話ができるなんて。長年の祈りが報われたような気持ちになった。女神さまは、確かに私たちを見守ってくださっているのだ。
……ありがとうございます。女神さま。私にやり直しの機会を与えてくださって。
心の中で祈りの言葉を唱えていると、朝から私につきっきりのお兄さまが、私の白銀の髪を梳きながら笑いかけてきた。
「コーデリア、鏡を見てごらん。お前はこんなに美しくなったんだ」
お兄さまの言葉に、控えていたマリーがそっと手鏡を差し出した。裏面に薔薇の模様が彫り込まれているそれは、視力を失う前に愛用していたものだ。懐かしくて、ふっと頬が緩んでしまう。
ばたばたとしていて、鏡を見ていないことにも気づいていなかった。自分の顔なんて、特に想像したことはないから、あまり興味もなかったのだ。
記憶の中の私の姿は、ようやく八歳になろうかという幼いもので、はっきり覚えていなかった。よく知らないからこそ、恐れることもない。特にためらいもなく、すっと手鏡を覗き込んでみる。
手鏡には、白銀の髪の少女が映っていた。瞳は見ようによっては禍々しいほど鮮やかな緋の色で、どことなく頼りなさげに見える眉や目もとは、亡きお父さまにそっくりだった。お母さまやお兄さまはどちらかといえば凛とした印象のある顔立ちをなさっているから、ある意味対照的だ。
手鏡を持っていない手の指先をそれぞれの部位に這わせて、視覚と触覚を結びつける。確かに私が触れてきた顔なのだと実感して、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
「……母上がつけた傷も、綺麗に消えたんだよ」
予想していたことではあるが、お母さまが離宮に駆けつけることはなかった。ひょっとするとお兄さまが近づけないように計らっているのかもしれないが、今のお母さまの姿を確かめることができないのはすこし残念だ。
お兄さまの手が横から伸びてきて、頬にかかった髪を耳にかけてくれる。その感触がくすぐったくて思わず目を細めた。
マリーをはじめ、私付きの侍女たちの頬も緩む。中には未だに涙ぐむ者までいた。
「さて、医者の言う通り、今日は大事をとって安静に過ごさないとね。お祈りもベッドの上でするんだ。視力の安定が確認されたら、明日にでも一緒に礼拝堂へ行こう。大礼拝も近づいていることだし、準備をしないとね」
お兄さまはいつになく饒舌で、私の視力の回復を相当喜んでくださっているようだった。女神さまへきちんとお礼を申し上げたいと思っていたところだったので、お兄さまの申し出はとてもありがたい。
まもなくマリーが手鏡を回収すると、他の侍女たちが私の背中にクッションを敷き詰めてくれた。久しぶりに顔を見ることができた彼女たちと他愛のない話をすることすら楽しくて、自然と頬は緩んでいく。
けれど一方で、視線は寝室の扉に向いていた。まだ、この場に駆けつけていない人がいるからだ。
神官のクロエや料理長など、ここにいない人は何人かいるものの、私が今いちばん気にかけているのは他でもない。レイヴェルだ。
女神さまの計らいによって「悪い夢」となったあの日々の中で、彼は確かに王族と民を殺した残酷な魔術師だった。私の目の前で神官長を殺めても罪悪感を抱いているそぶりすら見せず、何かが吹っ切れたように笑っていた。
許せない、と思う。彼はあまりにも命を粗末に扱い過ぎていた。
どんな理由があったとしても、無辜の民にあんなむごい仕打ちは許されない。
それに、彼の乾いた笑い声を思い出すと、怖くて仕方がなかった。私の目が見えないことを喜び、脅すようなそぶりまで見せていた彼は、本当は私をどうしたかったのだろう。彼の真意はまったく見えなかったが、彼のしてきたことを考えれば私のことも「殺したい」と思っていても不思議はなかった。
……でも、本当にそれだけなの? 残酷なだけの魔術師なの?
私のそばで物語を読み聞かせ、どこまでも私を甘やかしてくれたあの優しささえも、まるっきり嘘だったというのだろうか。災厄の日に備えた、完璧な演技だったとでもいうのだろうか。
「コーデリア、難しい顔をしてどうしたんだ? すこし疲れたかい?」
お兄さまの手が私の額に伸びる。やはり、見てわかるくらいに私は緊張しているようだ。
「いいえ、違うの。なんでもないわ、お兄さま」
必死で誤魔化しつつも、どうしても扉の方へ意識を奪われてしまう。なんとも落ち着かない気分だった。
「いや、九年ぶりに目が見えるようになったんだ。疲れていないはずがない。横になってしばらく目を閉じていなさい」
お兄さまが上掛けを整えながら私に笑いかけたそのとき、寝室の扉がノックされた。
「……どうぞ」
息を呑んで、訪問者の入室を許可する。軋むこともなくなめらかに、白い扉が開かれた。
「失礼いたします」
ぱっと、薄水色の空が広がる。それと同時に苦しいくらいに心臓が暴れ出した。
……レイヴェルだわ。
小さく深呼吸をして気持ちを整える。
私は彼がどんな姿をしているのか知らない。彼と出会ったのは、視力を失ってからなのだから。
身長は、抱きしめられた際になんとなくわかっている。私よりかなり背が高い。おそらくは頭ひとつぶんくらい。細身な体型だが、抱きしめ甲斐のある、引き締まった体つきをしていた。
でもそれ以外の特徴は、まるでわからなかった。
普段の穏やかな態度からして、知的な雰囲気のある青年だと思うのだが、どうなのだろう。
十年近くもそばにいたひとの姿をこれから見るのだと思うと、どうしたって緊張してしまった。
意を決して、ゆっくりと顔を上げる。陽光を受ける白い扉の前に、そのひとはいた。
思わずはっと息を呑んで、食い入るように見つめてしまう。
……このひとが、レイヴェルなの?
癖のない黒髪に、怪しいほど美しい深紫の瞳。顔立ちはびっくりするほどに整っていて、まるでよくできた彫像を見ているような心地だった。黒ずくめの服から伸びる手足はすらりと長く、身長は予想通り私より頭ひとつぶん高いくらいだろう。
予想と違ったのは、彼が纏う雰囲気が「知的な」などという生やさしいものではなく、凄みすら感じさせるほどの色気と確かな翳りを帯びていたことだ。澄み渡る空色の声に反して、彼の目もとはどこか昏い。こういうのを陰のある顔立ちというのかもしれない。
視力を失っていた期間が長かったぶん、外見の美醜には疎く、こだわりもないのだが、間違いなく彼は「美しい」と評される類の人なのだということはわかった。彼の纏う衣服はシャツも裾の長い上着も何もかもが黒なのに、この部屋の中の誰よりも、彼がいちばん鮮やかに見える。
……私、幸せだわ。レイヴェルがどんな姿をしているのか知ることができて。
この一瞬だけは彼への恐怖も忘れて、恋慕う相手の顔を生まれて初めて見られたことに感謝した。彼の姿がどうであれ、きっとこの結論に至っただろう。
「……レイヴェル」
感動と憂いがぶつかりあって、私の声はひどく静かだった。それでも、彼に触れたいという気持ちが勝っていたように思う。
早く、そばに来て欲しい。もっと近くで彼の顔を見つめて、指先で触れて確かめたい。
このぐるぐると混ざりあう気持ちをどのような表情で表せば良いのかわからない。それでもほんのすこしだけ口もとを緩め、レイヴェルを見つめた。
綺麗な瞳だった。私とはまるで違う、神秘的で吸い込まれるような深紫だ。
もっと言葉をかけようと口を開きかけたそのとき、突然、レイヴェルがふい、と視線を逸らしてしまった。その横顔は痛みに耐えるかのように苦しげで、そのまま軽く俯いてしまう。
「……レイヴェル?」
「コーデリアさま……目が、見えるようになって良かった。ひと言、そうお伝えしたかっただけです。申し訳ありません、すぐに下がります」
「えっ?」
予想外の申し出に瞬きを繰り返すも、レイヴェルは俯いたまま一礼して、影に溶け込むように立ち去ってしまった。ゆっくりと閉じられた扉を眺めながら、呆然としてしまう。
いったい何に対して謝られたのかも、彼が急に去ってしまった理由もわからない。
「……どうしちゃったのかしら」
普段のレイヴェルなら、こんなひと言だけで立ち去るような真似はしない。綺麗な声で朝の挨拶を述べて、他愛もないお話をしてくれるはずなのに。何だか拍子抜けしてしまった。
「……コーデリアが気にすることはない。あいつは、己がお前の目に触れるには相応しくない存在だということを思い出したんだろう」
「どういうことですか? お兄さま」
レイヴェルは私の朗読師だ。何より、あれだけ美しい見目を持っていて、私に見られることの何が相応しくないというのだろう。
お兄さまはそれ以上何も言わず、そっと私を寝台の上に横たえた。マリーだってレイヴェルのあの様子には違和感を覚えているはずなのに、何も言わない。
「いいから、今は休みなさい。気分が悪くなったら大変だ」
お兄さまに促されるがままに、そっと目を閉じる。以前と違って、まぶた越しに光を感じた。
レイヴェルのことが気にかかって仕方がないが、お兄さまがいらっしゃるうちは大人しく横になっていることにした。もちろん、このままレイヴェルを放っておくつもりはない。
きっと、後ほど朗読をしに来てくれるはずだ。そのときには、もっとしっかり話をして、様子がおかしかったのはどうしてなのか確かめてみよう。
私はもう、どんな些細なことでも見逃してはいけないのだから。
その夜。
就寝支度を終えた私は、寝台の縁に腰掛けてレイヴェルの訪れを待っていた。そろそろ彼が朗読をしてくれる時間だ。
深呼吸を繰り返して、彼の前で取り乱さないよう、どう振る舞うべきか頭の中で何度も確認する。そのくらい気を張らなければ、やり直し前のことを思い出して理不尽に彼に怯えてしまいそうなのだ。
何度目かの深呼吸でゆっくりと息を吐いて、鼓動がゆっくり刻まれていることを確認した。気分を落ち着かせるように、窓から差し込んだ月影をぼんやりと眺めてみる。
十年ぶりに見る、美しい、王国アデュレリアの月だ。
――ここは魔の地です、人形姫。一夜にしてこの国は奴に落とされてしまった。
マリーが私を離宮から連れ出そうとした際に、神官長が告げた言葉を思い起こす。
あの災厄の夜は、お母さまの在位十年を祝う祝宴会の日だと言っていた。
確か私も祝宴会に際して離宮から祈りを捧げる手筈になっており、前日にその段取りを確認した記憶はあるのだが、肝心の災厄の日のことが何ひとつ思い出せない。床に伏せている間のことも、何もわからなかった。
今となっては、私が熱でひと月もの間眠っていた、という話も怪しく思えてくる。目覚めてからすぐに、不思議なくらい軽やかに体を動かせたことも気にかかっていた。
……王都を焼き払うような魔術を使えるのなら、私をひと月眠らせておくことくらい、きっと造作もないことよね。
無意識のうちにレイヴェルを疑ってしまい、はっとした。
疑心暗鬼になって、誰かをこんなふうに疑うのは初めてのことだ。あまり、気分の良いものではない。レイヴェルからもらった物語で豊かに彩られていた心が、昏く霞むような気がした。
災厄を引き止めると決意したからには、これからはこういうことを繰り返さなければならないのだろう。彼はもう、無条件に信じていい優しいだけの朗読師ではないのだから。
「様子がおかしい、って思われないようにしなくちゃ……」
レイヴェルが魔術師であることを知っているのは、私だけだ。レイヴェル自身でさえ、私が彼の秘密に気づいていることを知らない。彼が災厄に走った動機がわからない以上、下手に怯えたり、恐れたりするようなそぶりを見せて彼を刺激することは危険だ。
すくなくとも表面上は、普段通りに振る舞わなければ。
私の言動ひとつで、この国の運命がどう転がっても不思議ではない。
もうやり直しは利かないのだと思うと、どうしても指先が震えてしまった。
祈るように指を組んで震えを押し込めていると、寝室の扉がノックされた。
ついに、レイヴェルが来たのだろうか。
「……どうぞ」
ネグリジェの上から羽織ったストールを整えながら、訪問者の入室を許可した。
「失礼いたします」
入室するなり慎ましやかな礼をしたのは、レイヴェルではなくマリーだった。彼女とは先程挨拶を交わしたばかりだ。
「マリー、どうかした?」
「姫さま、レイヴェルのことですが、今夜は体調が思わしくなく、休ませていただきたいとのことです」
「レイヴェルが……?」
彼が体調を崩すなんて初めてのことだった。びっくりして瞬きを繰り返してしまう。
今朝様子がおかしかったのも、具合が悪かったせいなのだろうか。
「代わりにこれを姫さまに、と」
マリーが取り出したのは、分厚い本だった。表紙には目の覚めるような青い布が張られており、銀糸で細やかな刺繍が施されている。
本を受け取るなりそっと表紙を撫でてみれば、刺繍の感触に馴染みがあった。
「これは……天使のお伽噺……」
私がとりわけ好んで、レイヴェルに朗読してもらっていた物語だ。
かっと頬が熱くなる。レイヴェルに対する疑念を並べ上げ、警戒しなければ、と意気込んでいた直後に、彼の優しさに触れることになろうとは。
胸がかきむしられるような思いだった。決意とは別の場所で、心が揺らぐ。
「……レイヴェルには、ゆっくり休むように伝えてね」
「かしこまりました」
マリーは再び礼をして、速やかに立ち去っていった。後には心細く思うほどの静寂だけが残される。
お伽噺の革表紙に手を添えて、ぱらぱらと頁をめくってみた。
……そうよね、私、もう読もうと思えばひとりでも本を読めるのだわ。
その事実に、きゅっと胸が切なくなる。レイヴェルもそれを悟って、マリーにこの本を託したのだろうか。
「……レイヴェルが、早くよくなりますように」
何とはなしに指を組んで祈って、それからふっと、現実を突きつけられた気分になった。
災厄を引き止めるためには、場合によってはレイヴェルをこの手にかけなければならないというのに、彼の体調が良くなるよう女神さまに祈るなんて、我ながら矛盾している。
……私は本当に、彼を殺すなんてことができるのかしら。
どれだけ考えても、そんな残酷な場面は想像できない。
けれど、そのときが来たら、私は女神さまと民のためにやり遂げなければならない。
胸が引き裂かれるような痛みを覚え、私はお伽噺を抱いて寝台の上に横になった。
夜特有の陰鬱さのせいか、不安も恐怖もとてつもなく大きく感じる。ぎゅっと目を瞑り、縋るようにお伽噺を抱きしめて、割り切れない感情をやり過ごした。
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