第7話

 それからは再び「いつも通り」を演じる日々が始まった。


 マリーは相変わらずレイヴェルに怯えるような素振りを見せていたけれど、もう私を外へ連れ出すような真似はしなかった。レイヴェルの「お願い」の体をした命令を、忠実にこなすだけの侍女になっている。


 レイヴェルは、私に礼拝堂への出入りを禁じた。「コーデリアさまはもう、人形姫ではないのですから」となだめるように私の組んだ指を解いたが、あのときの彼はきっと笑っていなかったと思う。


 祈りも使命も失った私に、レイヴェルはあらゆる物語を読み聞かせた。かつてないほど幸福そうな声で、延々と。私がろくに言葉を返さずとも、彼は嬉しそうに私の朗読師を務めていた。


 物語の内容は、よく理解できなかった。大好きな彼の声を、音としてしか認識できない。ただ、頭の中に澄み渡る空が広がるだけだ。見惚れるほど美しい薄水色にしばらく心を奪われては、再び思考に霞がかかる。その繰り返しだった。


 彼の機嫌がよくなるから私も微笑んでいたが、心はいつでも泣いていた。


 すこしずつ、心も命も消耗していく。誰より大好きなレイヴェルのことを、今はいちばん恐ろしく思っていた。


 ――人間も、物語のようなものですよね。誰も彼もを慈しめるような心は持ちあわせていませんが、それでも、面白いとは思います。


 いつかレイヴェルはそう言って笑っていた。朗読師らしい、独特な観点だと思ったが、私は彼のその考え方が好きだった。


 それなのに彼は、容赦無く幾千の物語を終わらせたのだ。彼が何を思ってそんなことをしたのかわからないが、残酷という言葉が生ぬるく思えるほどのひどい仕打ちだ。


 ひょっとすると、私の好きな朗読師の彼は、災厄の夜に死んでしまったのかもしれない。


 魔術で王都を焼き払った瞬間に、彼は残虐で無慈悲な破滅の魔術師になってしまったのだ。


「何を考えておいでですか? コーデリアさま」


 ソファーに座ってぼんやりと考え込んでいると、いつの間にか隣に座っていたらしいレイヴェルに話しかけられる。


 彼は私の手を取って、手のひらにくちづけを落とした。


 感触は以前となんら変わらない、柔らかな温もりを帯びた彼の唇なのに、胸に広がるのは言いようのない喪失感だけだ。


 何も言わずにいると、彼はいっそう私を引き寄せて、両腕を私の背中に回した。


 彼の体温を感じるから温かいはずなのに、凍えている。慣れ親しんだはずのこの闇は、彼の心が見えないせいか、私を閉じ込める檻のように思えてならなかった。




  


 その夜、私室の隠し扉を見つけたのは、本当に偶然のことだった。


 なかなか寝つくことができず、私はレイヴェルが出て行ったあとの私室を壁伝いに歩き回り、なんとか体を疲れさせて眠ろうとしていたのだ。


 その途中、何かに躓いてしまい、本棚の横の壁に強く手をついて寄りかかった。


 瞬間、壁が押されるような感覚があり、しばし呆然としたあとに、そこが隠し扉だと悟ったのだ。


 扉はすこし力を加えれば、軋むような音を上げてあっけなく開いていく。


 隠し扉の存在自体は、幼いころに聞いたことがあった。目が見えなくなってからは、どこにあるのかすっかりわからなくなっていただけで。


 ……こんなところにあったのね。


 私室の隠し扉は、礼拝堂へ繋がっていると教わっている。有事の際に、人形姫が礼拝堂まで辿り着き、なんとか女神の目の前で自害できるようにするためだ。


 夏だというのに、ひやりとした空気の流れを感じる。そのまま何かに吸い寄せられるようにして、隠し扉の先に足を踏み出した。


 かびと埃の匂いがする、冷たく寂しい通路だった。剥き出しの石でできた壁を伝って黙々と進むと、すぐに手のひらが擦り切れてひりひりと痛み始める。


 しばらく歩き続ければ、何か硬いものに額をぶつけた。手探りでその正体を探れば、取手のようなものに指先が触れたので、そのまま押し込んでみる。


 どうやらそれは、礼拝堂へ出るための扉だったらしい。床の感触がぼこぼこした石畳から、つるつるとした大理石に変わるのがわかった。しんと静まり返った空気と、爽やかな香りは私のよく知る礼拝堂そのものだ。


 奇しくも今日は、本来人形姫の儀式を行うはずだった夜で、私は裸足のまま、冷たい床の上をぺたぺたと歩いた。祭壇にはアデュレリアの香が置かれているため、香りを頼りにすれば祭壇の前まで進むことは造作もない。


 久しぶりに礼拝堂に来たというのに、ほっとするような気持ちはすこしもなかった。


 ぼんやりとした思考のまま、一体どうすればいいのだろう、と呆然と立ち尽くす。


 だが結局、思い悩んだところで私には祈ることしかできないのだ。


 その場に跪いて、指を組み、頭を垂れる。擦りむいた手のひらが、重なった手のひらの温もりでじんじんと疼いていた。


「……女神アデュレリアさま、日々の平穏と恵みに感謝いたします。愛し子の慈悲は、あなたの土地に芽吹いて私たちを祝福し、今日の安寧の礎となりました。ここに、女神と愛し子への変わらぬ愛と誠を誓います」


 物心がついてから自分の名前よりも繰り返してきた祈りの言葉は、こんなときでもすらすらと口にできる。


 言い淀むのは、ここからだ。礼拝堂へ行けたら、女神さまにお話ししたいと思うことは山ほどあったはずなのに、言葉ではなく涙があふれ出してしまう。


 ……どうして、どうしてこんなことになってしまったのかしら。


 もしも私の目が見えていたら、レイヴェルの中に眠っていた狂気に気づくことができたのだろうか。


 光のない世界は、いつでも私に優しかった。穏やかな闇に甘やかされて、守られるだけでよかった。


 何を警戒するでもなく、羊水のような心地よい温もりに包まれて生きていたから、見逃してはいけないものを見逃してしまったのかもしれない。


「女神さま……どうすれば、災厄の犠牲になった民を救えますか?」


 本来民を救うための贄となるべき私が、のうのうと生きていることに罪悪感を覚えずにいられない。


 いっそレイヴェルが私を殺してくれればいいと思ったが、彼にそのつもりはすこしもないようだ。


 レイヴェルに殺された人たちは、どれだけ苦しかっただろう。無念だっただろう。


 死の直前まで、これからも今までと変わらない生活が続いていくと思っていたはずだ。誰ひとりとして、灰になってはいけなかった。


 彼らの未練と憎悪をこの身に宿せるものならば、喜んで差し出そう。黒い感情と淀みに輪郭を溶かされて、人の形を保てなくなってもいい。


 そんなことで彼らの無念をすこしでも払えるのならば、私など、どうなったって構わない。生贄にもなれないこの身はもはや、ただの人形も同然のがらくただった。


 ……ああ、やり直せるものならばやり直したいな。


 なにもかも、そう、災厄が起こる以前のあの平和な日常から、何もかもすべてをやり直したい。お母さまもお兄さまも生きていて、王都が賑わっていた、あの懐かしい日々を取り戻したい。


 どうすることもできない虚しさに、目頭が熱くなった。


「お母さま、お兄さま……っ」


 ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。呼吸はすぐに乱れてしまって、うまく息を吐き出せなくなった。冷たい床に這いつくばり、見てくれなど気にせず泣きじゃくる。


 いつからか泣き叫ぶ声の合間に、しゃらしゃらと細かな石が触れあうような透明な音が聞こえていた。耳鳴りだろうか。


 ……もしも災厄が起こる前に戻ることができたのなら、すべてを投げ打ってでも、レイヴェルを引き止めるのに。こんな残酷なことが起こらないよう、この身を犠牲にしてでもみんなを守るのに。


 女神の祝福の礎となるどころか、誰ひとりとして救えなかった私には、なんの価値もない。


 私は、人形姫なのだから。民のために女神の御許へ還る、生贄の娘なのだから。使命を果たせなかった私は、生きていることすら許されないはずだった。


 しゃらしゃらと、氷長石が触れあうような音がうるさいくらいに響いていた。耳を塞いでもすこしも薄れてくれない。


 私はうずくまりながら、ただただ朦朧とする意識の中で、「ごめんなさい」と「やり直したい」を繰り返していた。


 すべてを悪い夢にできるのならば、どんな代償だって払うのに。


『――悪い夢にしたい?』


 氷長石が触れあうような音がぴたりと止み、代わりにすっと一筋の光が走るように、麗しい声が聞こえてきた。


 神官たちが好んで身につける、アデュレリアの香に似た香りが爽やかに匂い立つ。  


 くすくすと笑うような声のあとに、しゃらしゃらと透明な音が響き渡った。よく耳を傾ければ、氷長石が触れあうような音は、少女の笑い声にようにも聞こえる。


 澄み渡るようで、地を這うような、重厚で可憐な声だった。けれど、春風にも似た温かさがある。


「誰……? 誰かいるの……?」


 床からのそりと起き上がって、空気の流れに感覚を研ぎ澄ませた。


 けれどもしんと静まり返った礼拝堂の中に、人の気配は感じない。 


 さらさらと、そよ風のような笑い声が上から、足もとから、左右から響いている。相手がどこにいるのかまるでわからない。


 ……でも、確かに誰かいるわ。どこにもいないのに、ここにいる。


 笑い声は、まるで私を呼んでいるようにも思えた。


 不気味に思ってもいいはずなのだが、不思議と恐怖は抱かない。それどころか、祈りを捧げている最中のような平穏が心に満ちていた。


 神秘的で、絶対的な何かがここにいる。私はずっと、この何かと心を通わせてきた気がする。


 ……でもまさか、そんな奇跡のようなことがあるかしら。


 半信半疑ながらも、気づけば私は導かれるように呟いていた。


「……女神、アデュレリアさま?」


『やり直したい?』


 声の主は肯定も否定もせずに問い返してきた。


 それはもちろん、叶うものならば何もかもをやり直したいと思っている。


 何がなんだかわからないまま、私は顔を上げて、いちどだけうなずいた。


 くすくす、くすくすと嘲笑とも憐れみとも取れるような笑い声に包まれる。耳の奥で、氷長石が鳴っているような心地がした。


『じゃあ、悪い夢に変えてあげる。一年前の今日に、戻してあげる』


 ……一年前の、今日に?


 久しぶりに、心臓がどくんと跳ね上がるのがわかった。


 ……レイヴェルが、災厄を起こす前に戻れるの?


 そんなことが、できるのだろうか。魔術が存在しているのだから、まったくありえない話ではないのかもしれないけれど、あまりに突拍子のない申し出に、どうしても実感が湧かなかった。


 ……でも、もしそれが叶うのならば、災厄を引き止めることができるかもしれないわ。


『絶対止めてね。あの朗読師を、殺してでも』


「レイヴェルを、殺してでも……?」


 一瞬、優しかったレイヴェルの声や言葉が蘇る。


 私が恋慕う、穏やかな朗読師を殺める場面を想像して、胸が締めつけられるような苦しさを覚えた。


『殺してでも』


 凛然とした可憐な声は、痛いくらいに冷たく繰り返した。礼拝堂の空気がびりびりと震える。


『いちどきりよ』


 この一年をやり直して、災厄を引き止める。


 最悪の場合、レイヴェルを殺してでも。


 正直に言って、私は混乱していた。これは、朦朧とした意識が生み出した妄想なのではないかとさえ思ってしまう。


 だが、失われた幾千の命をどうにかして救いたい、という願いに嘘はなかった。


 なんだっていい、あの災厄を引き止めることができるならば、どんな滑稽な申し出にもがむしゃらに縋りつきたい。


 これが本当のことかはわからないけれど、女神さまが語りかけてくるなんて夢の中でも滅多にないことだ。


 この機会を逃せば、私は人形姫としての使命を果たすこともできぬまま、きっと離宮の中で腐っていくだけなのだろう。


 これが、私にしかできないことだというのなら――。


 私は迷いを振り切って、指を組んだ。 


 半ば勢いに任せている部分は否めないが、やるしかない。そのまま祈るように首を垂れる。


「――誓います、女神さま。この災厄で失われた罪なき人の命を、ひとつ残らず守り抜いてみせます」


 春風に似た声が、ふっと笑うのがわかった。


 それは、愉悦と憐れみの入り混じった、不思議な笑い方だった。


『祈りの言葉を』


 しゃらしゃらと再び氷長石が擦れあうような音が響いた。


 言われるがままに指を組み、睫毛を伏せて、決意を胸に祈りの言葉を口にする。


「――女神アデュレリアさま、日々の平穏と恵みに感謝いたします。愛し子の慈悲は、あなたの土地に芽吹いて私たちを祝福し、今日の安寧の礎となりました。ここに、女神と愛し子への変わらぬ愛と誠を誓います」


 透明な音が大きくなり、同時に爽やかな香りに包まれた。嵐のような風を感じる。


『……代償をちょうだい?』


 ……代償? 


 一瞬ひやりとしたものが背筋を走ったが、静かに覚悟を決めた。


 何を差し出すことになろうと構わない。いちど失った民を救う機会を与えてもらえるのだから。


 瞬間、あたりが白い光に包まれる。眩しいと感じたのは、視力を失ってから初めてのことだ。


『優しい闇は、ここでおしまい。見えなかった、じゃ困るもの』


 氷長石のような透き通る声が悪戯っぽく笑った。


『さあ、この国を、愛し子みたいに救ってみせて――』


 ――コーデリア・エル・アデュレリア。


 その声を最後に、私は瞬く間に白い光の中に飲み込まれていった。

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