第6話
そのあと、私はマリーの手によって、薔薇の香りのするお湯で全身を洗われた。
マリーは可哀想なことにずっと震えていて、怯えるような手つきだった。けれど私にも彼女を気遣う余裕などなく、されるがままになっていた。
滑らかな絹のネグリジェを着せられ、ストールのようなものが肩にかけられる。湯浴みを終え向かった先は私の私室で、そこでは当然のようにレイヴェルが待ち構えていた。
「コーデリアさま、さっぱりしましたか?」
繊細な手つきで、レイヴェルが私の肩に触れる。彼も湯浴みを済ませたのか、爽やかな石鹸の香りがした。
「ちょうどお茶の用意ができたようなので、マリーさんに淹れてもらいましょう。コーデリアさまのお好きな、薔薇の砂糖漬けもありますよ」
レイヴェルに導かれるようにして椅子に腰を下ろす。おそらく、窓際に設置されたティーテーブルの椅子だろう。私は人前で食事を摂らないが、例外的に、レイヴェルとだけはよくこうしてお茶を飲んでいた。
黙って前を向いていると、お茶が注がれる音がした。その際に、かちゃかちゃとポットの蓋が音を立てていて、マリーは今も震えているのだということに気づく。
「ありがとうございます、マリーさん。コーデリアさまとお話がしたいので、すこしの間、席を外していただいてもよろしいですか」
「っ……しかし――」
「――いやだな、コーデリアさまには何もしませんよ」
穏やかに紡がれていたレイヴェルの声が、自嘲気味に歪む。マリーを怯えさせている自覚はあるようだ。
「……失礼いたします、姫さま」
マリーが、遠ざかっていく気配がする。行かないでほしい、と思った。レイヴェルとふたりきりになることを、これほど恐れたのは初めてだ。
「コーデリアさま、紅茶をお飲みにならないのですか? ティーカップはいつもの場所に置いてありますよ」
目の見えない私がひとりでもお茶を飲めるよう、ティーセットの配置はきっちりと決まっている。マリーは寸分の狂いもなく設置してくれるから、戸惑うことは何もない。
だが、今はどうしてもティーカップに手を伸ばす気になれなかった。
……レイヴェル、どうして。どうして、神官長さまを。
あの血腥い現場に立ち合わせてから、心は重く沈み込んだままだ。
……お母さまとお兄さまも、もう、いらっしゃらないの? 王都は灰になってしまったの?
彼に直接尋ねて確かめなければならないことはたくさんある。でも、言葉が見つからなかった。
レイヴェルは私の様子を見かねたのか、ふう、と小さな溜息をついた。やがて、自嘲の残る声で話し始める。
「そのご様子を見ていると、だいたいのことは知ってしまったようですね。……黙っていて申し訳ありませんでした。朗読師だと思っていた男が魔術師で、さぞかし驚かれたことでしょう」
神官長を殺めたあとだというのに、いつも通りに振る舞う彼が不気味でならなかった。空色の彼の声からは、わずかな後悔も罪悪感も感じ取れない。
「……あなたは、国家転覆を企んでこのような災厄を引き起こしたのだと聞いたわ」
我ながら滑稽な問いかけだと思った。
すくなくとも、朗読師として私のそばに仕えている彼に、そんな素振りは微塵もなかったのだから。今でも正直、しっくりこない気持ちのほうが大きい。
「国家転覆? ああ、そういう話になっているんですか。面白いなあ……」
レイヴェルは言葉通り可笑しくてたまらないとでもいうように、乾いた声で笑った。こんなふうに笑うレイヴェルを、私は知らない。
「王族の皆さんを殺して、あなたを娶り、この国を乗っ取ろうとしている、とでも言われましたか? そんな話を聞かされたら、僕とふたりきりになるのは怖くて仕方がないでしょうね」
かちゃん、とティーカップが受け皿に当たる音がする。レイヴェルには、紅茶を片手に会話できるくらいの余裕があるらしい。彼の平静さを、今ばかりは心から恐ろしく思った。
「……否定、しないのね」
「僕が何を言っても信じられないでしょう。それとも、コーデリアさまはまだ、僕のことを信じておいでなのですか?」
皮肉げな物言いは、やっぱりレイヴェルらしくない。このひと月あまり隠し通していたことを暴かれて、自棄になっているのだろうか。
「……正直に言って、あなたが国家転覆を企んだなんて、おかしな話だと思っているわ。私の知っているレイヴェルには、権力欲なんてすこしもないもの」
違う。言葉をいくら取り繕っても、私の心の中には確かに彼への疑念が膨れ上がっている。淡々と神官長さまを傷つけたレイヴェルを知ってしまった以上、彼が優しいだけの朗読師だとは思えなくなっている。
ただ、それを認めたくなくて、浅ましく言葉を並び立てているだけだ。
信じているわけではない、信じようとしているだけで、私たちはもう、取り返しのつかないところまで来てしまったような気がしてならない。
「ねえ……やっぱり、何かの間違いなんでしょう? きっと誤解があるだけで……レイヴェルがたくさんの人を殺すようなひどいこと、するはずないもの」
縋るように震える私の声は、醜かった。「殺していない」と言って欲しいだけの、信頼の皮を被った懇願だ。
ふたりの言葉が途切れる。静けさに包まれた私たちは、互いの心を見透かすように黙り込んでいた。
沈黙を先に破ったのは、レイヴェルだ。
「……あなたは、こんなことになってもまだ、俺のことを信じようとしてくださるのですね。俺にはそれだけでもう……充分です」
抑揚のない、淡々とした声だった。それでも、言葉の端々に泣きそうなくらいの深い悲哀を感じる。ひょっとしてこれが、彼の素なのではないかと思った。
「……コーデリアさまがなんと言おうと、俺は自分のしたことに後悔はありません」
レイヴェルの声がわずかに震えている。泣いているのか、笑っているのか、それすらも私にはわからない。
「後悔って――」
「――王都の民を殺したのは事実です。生きたまま、魔術で起こした炎で焼き払いました。どうしても、必要なことでしたので」
恐ろしい罪を、彼は淡々と告白した。
ずきん、と胸をナイフで貫かれるような痛みを覚える。縋る余地もないほどに、徹底的に突き放されたような気がした。
彼の罪を認めてしまえばふつふつと、激しい感情が沸き起こってくる。
……あなたは、私の朗読師ではなかったの? 本当は、とてつもなく残酷な魔術師だったというの?
彼は大勢の命を奪い、その事実を私に伏せて、このひと月の間私を欺いていた。
それが、やるせなくてならない。悲しくてならない。
「必要なこと……? そんなむごいことをしなければいけない理由って、いったいなに……?」
民を殺された王女としての怒りのせいか、はたまた大好きな人に裏切られた悲しみのせいか、理由は定まらないけれど、問い返す私の声は何か強い感情から震えていた。恋慕う相手に、こんな黒い感情は抱きたくなかったのに。
「言いたくありません」
レイヴェルは鋭く拒絶した。部屋の空気がぴりぴりと張り詰めるのを感じる。
「だめ、言ってちょうだい」
「言えません」
「言いなさい!」
がたん、と椅子から立ち上がって、肩で息をする。誰かに声を荒げたのは、生まれて初めてのことだった。
「……言ってどうなるというのです? 失われた命が蘇るわけでもあるまいし、ただひとつの理由から、というわけでもありません。すくなくとも、あなたにお教えして伝わるような明快な動機でないことは確かです」
「それでも――」
身を乗り出して声を上げた拍子に、ティーテーブルが揺れる。かしゃん、とティーカップが倒れる音がした。
「――この国のことだもの。私が守るはずだった、民のことだもの。知っておかなくちゃいけないわ」
生きたまま炎に包まれた人たちの痛みは、どれほどだっただろう。想像するだけで苦しくて、目の奥が熱くなる。ともすれば息が乱れてしまいそうな閉塞感が胸を押しつぶしていた。
レイヴェルは深い溜息をついたかと思うと、やがて吐き捨てるように笑った。
「コーデリアさま、この期に及んでまだ人形姫でいるつもりですか。守る民ももういないのに。前を向いて、新しい『幸福な結末』について考えてください。あなたの美しい物語を、俺が、最後まで守り抜いて差し上げますから」
椅子が引かれる音がして、彼が近づいてくる気配がする。後ずさろうにも、瞬く間に腰に腕を回されて、ぐい、と強く引き寄せられた。
「コーデリアさま、どうしてそんな悲しそうなお顔をなさるのです? いつもみたいに笑ってくださったほうが、お互いのためだと思うのですが」
耳もとで空色の声が笑う。つ、と頬を指先でなぞられるような感覚があった。
「どうせ、どれだけ俺を恐れても、あなたはこの部屋から逃げることすらできないんだ。いつでもこうして捕まえられます。……それを俺がどれだけ喜ばしく思っているか、あなたはきっとおわかりにならないでしょうね」
音を立てて耳にくちづけられ、身をこわばらせてしまう。
彼はその反応を笑いながら、吐息を溶かし込むように囁いた。
「――あなたの目が見えなくて、本当によかった」
「っ……」
とても、優しいレイヴェルの発言とは思えなかった。けれど悲しいことに、その言葉は美しい空色で紡がれている。
きっとこれが、レイヴェルの本心なのだろう。
胸が、えぐられるように痛かった。
「怯えているのですか、お可哀想に。生贄になることはすこしも恐れていなかったくせに、俺に触れられるのはそんなに怖いのですね」
何も言えなかった。彼はそれを無言の肯定と受け取ったのか、くつくつと笑いながら私の髪に触れ、指で弄ぶようにして梳き始める。
「震えているコーデリアさまは、溜息が出るほど愛らしいですね。あなたにも見せて差し上げたいくらいだ。かわいいかわいい、俺のコーデリアさま……」
レイヴェルは私に擦り寄るように体を引き寄せて、吐息まじりに声を上げて笑った。
それが彼の中で何かが吹っ切れた証のようにも思えて、どうにも不穏でならない。
ぐるぐると胸の内で渦巻く感情が、涙に溶けてこぼれ落ちる。彼の腕が絡みつくように私の腰に回されているせいで、離れることもできない。
レイヴェルは、いったい何を考えているのだろう。王族を殺し、王都を焼き払い、私から人形姫の使命を奪ってまで、何を求めているのだろう。
彼の心は、まるで闇のようだった。彼の気持ちがすこしも見えないのだ。伝わるのは、歪んだ熱を帯びた何か激しい衝動だけ。
大好きな人なのに、今はただただ怖くて仕方がなかった。肩の震えも涙も止まらない。どこかへ逃げ出したいけれど、それすら敵わない。
涙をなぞるように、彼の指先が頬を掠めた。
「コーデリアさま、これからは女神のことも民のことも忘れて、ずっと一緒にいましょうね。どれだけ怖くても、嫌いでも、俺と一緒にいてくださいね。笑った顔を見せてくださったらもっといい」
首筋に伝った涙に、彼の唇が吸いついた。
慣れ親しんだ柔らかな温もりなのに、ぞわりと寒気が走る。薄い皮膚のそばに温かな吐息を感じて、彼が声もなく笑ったのだとわかった。
「もし笑ってくださるのなら、俺はきっとあなたに優しくできると思います。毎日一緒に、物語の世界を旅しましょう。俺があなたに望むことはそれだけです」
彼と、物語を慈しんでいつまでも一緒にいられたら。
そう、願ったことがないかと言われたら嘘になる。口には出さなかったけれど、心の片隅でずっと思い描いていた甘い夢だった。
だが、こんな形で叶っても、喜べるはずがない。
心は重く深く、黒く淀んだ澱の中に沈んでいくようだ。
「たくさん泣いて、疲れてしまったでしょう。寝台へお連れいたしますから、今日はもうおやすみください」
もはや、抵抗する気力は湧いてこなかった。ふわりと抱き上げられる感覚のあと、されるがままに力なく寝台に横たわれば、上掛けを首もとまでかけられる。
「どうか良い夢を、コーデリアさま。明日はきっと、あの愛らしい笑みを俺に見せてくださいね」
ゆっくりと、右の手のひらにくちづけが落とされる。
甘く痺れるような熱が、くちづけられた箇所を焼いていた。
彼はすぐに立ち去ったようで、扉が開閉する音が聞こえてくる。
ひとり取り残された私は、右手でぎゅっと上掛けを握りしめた。
頭の中はぼうっと霞がかかっているようで、まともな思考は働かない。
レイヴェルに囚われているようなこの状況を恐ろしく思うけれど、彼に殺された人々は、もっともっと怖かったはずだ。
レイヴェルにこんな残酷で激しい一面があるなんて、私はすこしも知らなかった。
横になっても、涙は絶えず流れていた。手の甲で必死に拭いながら、掠れた声で嗚咽を漏らす。
……女神さま、私は、どうしたらよいのですか。どうしたら、災厄の犠牲となった人々を救えますか。
泣きながら、指を組む。祈ることしか知らない己の無力さを、これほど呪った夜はない。でも私にはこれしかない。人形姫として祈り続け、国の安寧を願うことだけが、私に許された生きる意味のはずだった。
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