第3話

 湯浴みを終えた私は、マリーに付き添われて寝室に連れていかれた。


 本来であれば眠る前のお祈りをしに、離宮の中にある礼拝堂へ向かうところなのだが、昨日目覚めたばかりの体に負担がかかると言われ、この二日間は礼拝堂での祈りを控えている。


 その代わりに、寝台の上に座り込み、指を組んで女神さまに祈った。


 儀式はすでにひと月後に迫っている。王国を守る使命を背負った生贄として、毎日の祈りを怠るわけにはいかなかった。


 人形姫は、生贄となるだけではいけないのだ。朝昼晩と、女神さまに深い祈りを捧げなければならない。これを怠ると、女神さまの怒りを買い、人形姫の使命である浄化が敵わなくなってしまう。


 数代前、ろくに祈りもせずに怠惰な暮らしを送っていた人形姫がいたらしいが、彼女の代には王国の南部で噴火が起こっている。使命を果たさず儀式目前に逃げ出した人形姫の代にも、王国は史上稀に見る大雨に見舞われ、いくつもの街が水に沈んだと聞く。


 以来、人形姫はこの離宮の中で、厳重に保護されながら一生を過ごすことを定められているのだ。人形姫として生まれた以上、祈りと使命を放棄するわけにはいかない。


 祈りの最中は、マリーも退室して寝室の外で控えてくれていた。寝室には私ひとりきりだ。


「女神アデュレリアさま、日々の平穏と恵みに感謝いたします。愛し子の慈悲は、あなたの土地に芽吹いて私たちを――」


「――コーデリアさま」


 祈りの言葉を何度か繰り返したとき、組んだ指に、慣れ親しんだ温もりが触れた。


 ぱっと脳裏に青空が広がる。


「っ……!」


 思わず息を呑んで、伏せた睫毛を震わせた。


「……レイヴェル?」


 いつの間に、触れるほどそばにいたのだろう。まったく気配を感じなかった。


 彼の位置を探るようにきょろきょろと首を動かせば、彼は組んでいた私の指を解いて、導くように彼の顔に触れさせた。


「僕はここですよ、コーデリアさま」


 ようやく彼の大体の位置がわかり、そちらに顔を傾けた。触れた彼の頬は緩んでいるように思える。


「……薔薇の香りがします」


 吐息まじりに笑って、彼は私の指先に唇をつけた。


 まだお祈りの最中だというのに、頬が熱を帯びるほどにどきどきしてしまう。


「レイヴェル、来てくれたのね。……でも、ごめんなさい。まだお祈りが終わっていないのよ。もうすこし待っていてくれる?」


 彼は決して、私の祈りを中断するような人ではなかったはずだ。人形姫として生贄となる私の使命を「コーデリアさまにしかできないことだ」と祝福し、いつもそばで静かに見守ってくれていた。人形姫としての私の誇りを、彼は誰より理解してくれているのだ。


 しかし、妙なこともあるものだ。外に控えているはずのマリーは、私が祈っていることを知っているにもかかわらず、レイヴェルを通したのだろうか。決まりごとをきっちりと守り、レイヴェルにも厳格に接しているマリーらしくない。


 やっぱり、何か引っかかる。心の隅にまたひとつ、小さな違和感が積まれていった。


「病み上がりのお体で、そんなふうに無理をなさるものではありません。さあ、横になって。今夜はどんな物語をご所望ですか?」


 レイヴェルの腕が腰に周り、そのままゆっくりと体を倒される。


 すぐに、柔らかなクッションが背中に当たった。彼にしてはすこし、強引にも思える行動だ。


「ここでお祈りするくらい平気よ。そろそろ儀式が近づいているのだもの。今こそきちんとしなくちゃいけないわ」


「そのことですが」と、レイヴェルは私の体の上に上掛けを乗せる。「儀式は、しばらく延期になりそうです。すこし、王国内がごたごたしていましてね。先ほどアーノルド殿下からそのように通達を受けました」


「そんな……! 大丈夫なの?」


 人形姫の儀式を延期するなんてよほどのことだ。政治のことはよくわからないけれど、お母さまやお兄さまのことが心配でならなかった。


「コーデリアさまが案ずるようなことはなにもありません。だから今は、お体を元通りに治すことだけをお考えください」


 上掛けを首もとのあたりまで引かれ、長い髪が巻き込まれないように整えられた。


 このくらいはいつもしてくれていることだが、今夜はなんだか、触れられるたびに緊張してしまう。


「でも、レイヴェル。私、それほどつらくないのよ。ひと月も臥せっていたことが嘘みたい」


 目覚めた直後はさすがに体のだるさを感じたが、湯浴みをして、食事をしたらほとんどいつもと変わらない状態に戻ったのだ。


「それはよかった」


 レイヴェルは、笑うように受け流した。椅子を引くような音がして、彼が私の寝台のそばに腰を下ろしたのだとわかる。普段はソファーに並んで読み聞かせてもらうことのほうが多いが、今夜はここで何か物語を読んでくれるつもりなのだろう。


 状況だけを見れば、今までとそう変わらない私たちなのに、やっぱり何かが気にかかった。


 すべての流れがいつもよりほんのすこしだけ、強引なのだ。


 彼はいつだって、目の見えない私を最大限に気づかってくれていた。私の動作を補助してくれるときは、私を驚かせないよう、必ず事前に声をかけてくれていたものだし、私のしたいことを中断させるような真似もしなかった。問いかけには必ず、誤魔化さないで返事をくれた。


「レイヴェル……私が眠っている間に、何かあった? ……気を悪くしないでほしいのだけれど、すこしだけ……あなたの様子がおかしいような気がするの」


 一瞬だけ、部屋の空気が張り詰める。


 それが緊張によるものなのか、はたまた踏み込まれたくないところに立ち入られた苛立ちによるものなのかはわからない。


 レイヴェルは深い溜息をついた。捉えようによっては私にうんざりしているようにも思えて、きゅっと胸が切なくなる。大好きな人に、煩わしく思われるのは悲しい。 


 だが、それは杞憂だったようだ。すぐにレイヴェルの両手が、私の右手を包み込むように添えられたのだ。――やっぱり予告はなかったけれど。


「……コーデリアさまが眠っている間、僕はここでずっと物語を読み聞かせていました。このまま目覚めなかったらどうしよう、と思うと……どうにかなってしまいそうで……」


 レイヴェルの空色の声が翳る。彼の心痛が直接伝わってくるようで、ぐっと息を呑んだ。


「そのときの恐怖がまだ、後を引いているのかもしれませんね。不快な思いをさせてしまっていたのなら、申し訳ありません」


 しゅん、と肩を落とすように小さくなる彼の声に、ぎゅうと胸が締めつけられた。


 彼がどれだけ私を心配していたかを、どうやら甘く見ていたようだ。思わず、私の手に添えられた彼の手に指を絡め、強く握り返す。


「不快に思うなんてことは絶対にないわ。私のほうこそ、ごめんなさい……。たくさん心配をかけてしまったのは、私なのに……」


 ひと月もの間、私のことを案じてくれていた彼なのだ。多少強引にでも休ませようとするのは、自然なことだったのかもしれない。


 その振る舞いを問い詰めるような真似をしてしまったことに、心の中で目いっぱい反省した。


「そのお言葉を聞けてほっといたしました。……あなたが眠りに落ちるまで、ここで本を朗読することをお許しいただけますか?」


「もちろんよ。とっても嬉しいわ」


「何がよろしいでしょう? なんでもお読みいたしますよ」


 レイヴェルが読んでくれるのなら、どんな言葉も空色に染まる。悲劇的な物語だって、たちまち美しくなってしまうのだ。


 だから、彼が読んでくれるお話はすべて好きなのだが、中でも私がとりわけ気に入っているお伽噺があった。


「……天使のお話をして、レイヴェル。久しぶりに聞きたくなったの」


「そう仰ると思って、実はもう用意してあります」


 彼の声が、笑うように柔らかなものに変わった。先程までの翳りが嘘のようだ。


「まあ、さすがだわ、レイヴェル」


 ふたりでくすくすと笑いあえば、張り詰めていた空気が和らぐのがわかる。


 彼も、私に読み聞かせるのを楽しみにしてくれていたのだと知って、胸が温かいもので満たされるような気がした。


 彼の朗読が始まると、まもなくして私は、まどろみの中をさまよい始めた。


 抗いがたいほどに、まぶたが重たくなってくる。


 しばらくうつらうつらとしていると、やがて彼の朗読の声がやんだ。


 もう、退室してしまうのだろうか。もっと、そばにいてほしいのに。


 彼が離れてしまうことを寂しく思っていると、本を置くような音のあとに、髪の毛を撫でられる感覚があった。


「ずっと……ずっとこうしていてくださいね、コーデリアさま。物語なら好きなだけ、俺が読んで差し上げますから」


 とろけるほど甘やかなその声は、歪んだ熱を帯びていた。触れただけで心を焼かれるような、切なく激しい熱だ。


 静謐な空気を纏った彼に、こんな鮮烈な温度が眠っていたなんて。


 私が長いこと眠っていたせいで、呼び覚ましてしまったのだろうか。


 ……レイヴェル、心配かけてごめんなさい。


 睫毛を震わせて、彼がいるであろう方向へわずかに頭を傾ける。


 ……でもね私、やっぱり、何かがおかしいと思うのよ。


 あなたがそんなふうに私を呼ぶことも、祈りの最中に、マリーがあなたを私の寝室に通したことも。


 これはきっと、見逃してはいけない違和感なのだとわかっていた。


 何がおかしいのか、はっきりとはわからない。幾重にも真綿を重ねられて、決定的な何かを巧妙に隠されているような気分だ。


 ぐるぐると思い悩んでいるうちに、あたたかな夢の波が押し寄せる。


 レイヴェルが私の髪を梳く感覚に身を委ねながら、私は、違和感の答えを見つけられぬまま深い眠りに誘われていった。

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