第2話




 重いまぶたをこじ開けて、悪夢と現の境をさまよう。


「レイヴェル……」


 あのひとの名を心の中で呟けば、靄のかかっていた意識がすこしずつ澄み渡っていった。


 慣れ親しんだ人形姫の離宮の香りが鼻腔をくすぐる。


 薔薇と、ハーブが入り混じったようなアデュレリアの香の匂い。甘くて爽やかな、独特の芳香だった。


 私はこの香りしか知らない。生まれてからずっと、この宮の中で生きてきたから。


 闇の中でまどろむように、何度か重いまぶたを瞬かせた。


 もっとも、瞬きなんてしたところで、果てのない闇が晴れることはないのだけれども。


 この目は、もう十年も見えていない。


 八歳になったある日、錯乱したお母さまに花瓶を投げつけられ、割れた破片で両目に消えない傷が残ってしまった。結果として私は、色も光も失ったのだ。


 ただひとつ、レイヴェルの声を聞くたびに脳裏に広がる薄水色を除いては。


 甘やかで、静かで、優しい響きを伴った彼の声。あのひとの声を聞くたび、私の闇の中にはすっと、淡く優しい青空が広がっていくのだ。


 どうしてそんな不思議なことが起こるのかはわからない。


 けれどその空の美しさに魅せられたあの日から、私はきっと彼に惹かれていた。そばにいたいと願っていた。


 彼の声が聞きたい。私の名前を呼んで欲しい。


 ただ眠りから覚めただけなのにどうしてだろう。渇きを潤す水を欲するように、そう、強くつよく願ってしまった。


「……レイヴェル」


 姿かたちも知らない、恋慕う朗読師の名を口にする。


 吐息に負けてしまうような掠れた声は、静まり返った寝室の中に虚しく吸い込まれていった。


 身じろぎをすると、体が妙に重たかった。寝過ごしてしまったのだろうか。朝になれば、侍女のマリーが起こしに来てくれるはずなのに。


「……コーデリアさま?」


 ぱっと、頭の中に薄水色の空が広がる。


 聞いているだけでとろけてしまいそうなほどに甘いその声は、他の誰でもない、私の朗読師レイヴェルのものだった。まさか、こんなにもそばにいてくれたなんて。


「レイ、ヴェル」


 驚きの声を上げようとするも、やっぱり掠れたような声が出て、思わず自分の首もとに手を当てる。


 いつもはこんなふうにはならないのに、どうしてしまったのだろう。喉が渇いているせいだろうか。


「っ……コーデリアさま!」


 いつだって穏やかなレイヴェルが、珍しく声を荒げる。


 それに驚いたのも束の間、柔らかな香りを帯びた温もりに包み込まれた。


 背中に腕が回っていることに気づいて、はっとする。私は今、レイヴェルに抱きすくめられているのだ。


 レイヴェルとは、出会って十年になる仲だ。彼は朗読師として、目の見えない私のために毎日物語を読み聞かせてくれた。


 私にとって彼は、優しい朗読師のお兄さまで、お友だちで、そして初めて恋をした男のひとだった。


 レイヴェルには毎晩物語を読み聞かせてもらっていたけれど、抱きしめられたことなんてほとんどない。成長してからは余計にだ。彼は朗読師と人形姫に相応しい距離を、いつでも生真面目なくらいに守っていた。


 そのレイヴェルが、なんの断りもなく私に触れるなんて。一体どうしてしまったのだろう。


「レイヴェル……?」


 彼は何も言わず、ただ私の体に回した腕に力を込めた。


 存在を確かめるように、彼の手がゆっくりとネグリジェの上を滑る。肩口に顔を埋めているのか、彼の柔らかな髪が首筋に当たってくすぐったい。


 しかし、どうしてレイヴェルが私の寝室にいるのだろう。眠るまで寝台の横で物語を読み聞かせてもらうことはあっても、目覚めたときに彼が寝室にいるのは初めてのことだった。


 そこでようやく彼に寝起き姿を見られているのだと気づき、たちまち恥ずかしくなってしまう。レイヴェルに会う前は、いつも必ずマリーに髪を梳いてもらって、なるべく綺麗に見えるよう支度してもらっているのに。


「レイヴェル、あの、私……」


 なんとか離してもらって支度を整えなければ、と声をかけるも、私の戸惑いを攫うように彼は囁いた。


「……目を、覚ましてくださったのですね。コーデリアさま」


 感極まったような彼の声に、大袈裟だ、と笑い飛ばそうとしたが、先ほどから積み重なっている違和感が私を引き止める。


 妙に重たい体といい、レイヴェルが寝室にいることといい、何もかもがいつも通りではない。


 何より、レイヴェルがこんな風に縋りついてくるのは妙だった。


「レイヴェル……私、どれくらい眠っていたの?」


 私の声はやっぱりかさついていた。どくどく、とレイヴェルに抱きしめられているからではない動悸が沸き起こる。


 レイヴェルの髪が首筋をかすめて、顎先に触れる。彼が顔を上げたのだろう。


 彼は私の腰に片腕を回したまま、もう片方の手で私の手を取り、彼の顔に触れさせた。


 私も抵抗することなく、指先を彼の頬に這わせる。私はよくこうして、目の代わりに指先で彼の表情を読み取るのだ。


 ゆっくりと手のひらを滑らせ、人差し指が彼の目もとに触れたあたりで、思わず息を呑んだ。


 彼は、泣いていたのだ。


 この十年の付き合いで、彼の涙に触れたのは初めてのことだった。


 そしてそれこそが、何よりの答えだった。


 私はおそらく、相当長い間眠っていたのだろう。滅多に感情を乱さない、優しい朗読師を泣かせてしまうくらいの、とても長い時間を。


「……もういちどお会いできてよかった。もう何も、恐れるものはありません。コーデリアさま」


 彼は彼の頬に這わせていた私の手を取ると、手のひらに何か柔らかなものを触れさせた。


 その熱が彼の唇だということは、十年前から知っている。彼は毎晩そうして、私におやすみのくちづけをくれたから。


 彼は私の手のひらに唇をつけたまま、壊れものに触れるような繊細な手つきで私の体を抱き寄せた。


 指先に触れた彼の涙が乾くまで、私は訳もわからぬまま、じっと彼に抱きすくめられていた。






 レイヴェルと出会ったのは、私が視力を失ってひと月が経とうかというころのことだ。私は八歳で、彼は十四歳だった。


 視力を失ってから出会ったので、私は彼の姿形を知らない。髪や瞳は何色なのか、どんな顔立ちをしているのか、何ひとつ知らない。


 彼は、出会ったころから妙に大人びた少年だったように思う。並べる言葉も声も綺麗で、とても知的な印象だった。物語をこよなく愛していて、私にお伽噺を読み聞かせてくれるときにはわずかに声が弾むのだ。彼が楽しんでいるのが伝わってきて、自然と私も嬉しくなった。


 不思議な空色の声で紡がれる物語は、すぐに私を夢中にさせた。光を失ったばかりの私にとって、空を見せてくれる彼の声は、何にも代えがたいほど嬉しいものだったのだ。


 レイヴェルは初めから、私にとって特別な人だったけれど、その意味合いはゆっくりと変わっていった。もうひとりのお兄さまができた、とはしゃいでいたのは出会ってから二、三年の間のことで、やがて彼は、私の心に生まれて初めての熱を呼び起こしたのだ。


 花がゆっくりと土を押し上げて芽吹くように、彼への恋心はすこしずつ、でも着実に育っていった。光を失って悲しい思いをしたことはほとんどなかったけれど、彼の顔を見られないことだけが、どうにももどかしくて、唯一の後悔と言ってもよかった。


 ただ、どれだけ彼に恋い焦がれようとも、この想いを悟られてはいけなかった。


 私は人形姫、この国の安寧に不可欠な生贄なのだ。十八になれば、どうあったって彼と決別する定めなのだから。


 彼もまた、人形姫の宿命をよく理解してくれており、私と一定の距離を保っていた。


 あくまで私たちは、人形姫と朗読師。それ以上の何かに、なってはいけない。


「それなのに……一体どうしちゃったのかしら」


 目覚めてから丸一日が経ったころ。


 私はマリーが用意してくれたお湯に浸かりながら、レイヴェルのことを考えていた。


 どうやら私はひどい熱を出して、ひと月ほど眠っていたらしい。


 正確には完全に眠り続けていたわけではなく、朦朧とした状態でなんとか水や薬を与えられて命を繋いでいたのだというが、まるで記憶になかった。


 ひと月もの間生死の境をさまよっていたのだから、レイヴェルがあれほど取り乱したことにも頷ける。しかし、彼のあの態度は一過性のものではなかった。


 私が目覚めてからというもの、なんだか妙に距離が近いのだ。一緒にいる時間も格段に増えた。今日だって、湯浴みの時間になってようやくレイヴェルと離れたところだった。


 それだけ、彼に心配をかけてしまったということなのだろう。


 悪いことをしてしまったと思うけれど、それはそれとして、大好きな彼に常に付き添われているのは心臓に悪い。人形姫としての仮面を保てなくなってしまいそうだ。


「お目覚めになったばかりだというのに、いったい何をお悩みなのですか? 姫さま」


 マリーが私の髪を丁寧に洗いながら、笑うように語りかけてくれる。薔薇の香りのするお湯がちゃぷちゃぷと波打った。


 マリーは、物心がついたときから私をそばで支えてくれている侍女だ。


 人形姫の離宮に仕える侍女は限られていて、私の身の回りの世話を直接行うのはもっぱらマリーだった。もうひとり、礼拝堂で私に付き添ってくれるクロエという侍女がいるのだが、彼女とは二年ほど前からの付き合いだから、幼いころから常に寄り添ってくれているのはマリーだけと言っても過言ではない。


 私が視力を失った後も、彼女は甲斐甲斐しく世話をしてくれた。私の中でマリーの姿は十年前の若々しい姿のままだが、きっと今は小皺の一本や二本くらいできているに違いない。


「悩みというほどではないけれど……レイヴェルのことを考えていたの。たくさん甘やかされて、なんだか気恥ずかしいわ」


 胸の辺りまで張られたお湯に沈み込んで、唇を尖らせれば、何かひらひらとしたものが吸いついてきた。薔薇の花びらでも浮かべているのだろう。


「そう……ですね」


 滑らかな手つきで私の髪を洗っていたマリーの手が止まる。長いこと眠っていたから、絡まっている部分があったのだろうか。


 思えば私は目覚めた直後、湯浴みも済ませていない体でレイヴェルに抱きしめられたのだ。


 かっと頬が熱くなる。レイヴェルの前では、いつでも綺麗で可愛らしくいたいのに。


「……今のレイヴェルの姿を見たら、お兄さまはなんとおっしゃるかしら」


 目覚めてから、お兄さまにはまだお会いしていない。


 お兄さまは、私が視力を失ってからというもの、それまでにも増して私に過保護になった。忙しい毎日を送っているのに、時間が許す限り私に会いに来てくれるような優しい方なのだ。


 本を読むのが好きだった私のために、目が見えなくても物語が楽しめるよう、レイヴェルを連れてきてくださったのもお兄さまだった。


 そんなお兄さまのことだから、私がひと月の眠りから覚めたのならすぐさま飛んできてもおかしくないのだが、残念ながら今は遠方へ視察に出かけているらしい。私を女神さまに捧げる「人形姫の儀式」が近づいているから、その関係で忙しくなさっているのだろう。


「レイヴェルが怒られてはかわいそうだから、マリー、今の彼の様子は報告しないであげてね。私が心配をかけてしまったのがいけないんだもの」


 手探りで唇に張りついた花びらをとって、マリーにねだった。彼女が立っているであろう背後にに首を傾け、微笑みかける。ちゃぷ、と心地よいお湯の音が響いた。


「え、ええ……もちろん、もちろんでございます」


 マリーの声は震えていた。思えば先ほどから私の髪を洗う手が止まっている。どれだけおしゃべりに花を咲かせようとも、手を休めることはほとんどないのがマリーなのに。


「……マリー?」 


 こういうとき、目が見えないことをもどかしく思う。マリーはいったい何を考えているのだろう。


 頭を傾けたまま、震えるような彼女の吐息から感情を探っていると、ぽたり、と何か生温かい雫が落ちてきた。それは頬を伝い、ぴちょん、と音を立ててこめかみから滴り落ちる。


「っ申し訳ありません! 姫さま」


 慌てたようなマリーの声とともに、再びぽたぽたと雫がこぼれ落ちてくる。


「マリー……泣いているの?」


 今の会話で、マリーが泣いてしまうような点が思い当たらない。何か悪いことを言ってしまっただろうか。彼女が心配で、どくどくと脈が早まっていた。


「違うのです……ただ……ただ、こうして再び姫さまのお世話ができるのが嬉しかっただけで……」


「そう、なの?」


「……はい」


 そう言われて一応の納得を得たが、わずかな違和感は拭いきれなかった。


 彼女はすでに、涙が枯れるほどに泣きじゃくって私の目覚めを喜んでくれたのだ。


 そのあとは努めて明るく振る舞い、いつものマリーに戻っていたから安心していたのだが、まだすこし情緒不安定なのだろうか。


「……このままではのぼせてしまいますね。すぐに御髪を流します」


 マリーの手が丁寧に私の髪にお湯をかけていく。とても心地よかったが、さっぱりした体とは裏腹に、心に何か引っ掛かりを覚えたのは確かだった。

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