序章 災厄と悪夢の物語

第1話

 ――人形姫、お前は生きていてはいけない。その緋(あけ)も白銀も、女神さまの御許へ還さなければ。




 悲鳴にもよく似た、お母さまの叫び声。


 白くほっそりとした手で持ち上げられる、薔薇がたっぷりと生けられた華やかな花瓶。


 あの薔薇はそう、お母さまと一緒に摘んだ、大切な大切なお花だった。


 紅色の薔薇はお母さま、珊瑚色の薔薇は私。緑色がお兄さまで、橙色はお父さま。


 そうやってみんなの薔薇を決めて、ひとつの花瓶に飾ったのだ。


 離ればなれになっても、どうか心はいつまでも、こうして一緒にいられますように。


 そんな願いを込めて生けた、特別な薔薇だった。


 その花瓶が、宙を舞っている。私に向かって、投げつけられている。


 どうして、どうしてですか、お母さま。


 私はそんなにも、悪い子でしたか。


 訳もわからないままに、大輪の薔薇の雨が降る。鮮やかな色彩が、視界を覆って光を奪い去る。


 直後、両目に鋭い痛みが走った。


 とっさに押さえ込んだ両手の指の隙間から、熱い何かがあふれ出す。


 ぽたぽた、ぽたぽたと、手のひらを焼くような温度で伝い落ちていく。


 何も見えない。 


 薔薇も、お母さまの顔も何も。


 闇に包まれた世界の中で、お兄さまや侍女たちの悲鳴だけが、遥か遠くの音のように響き渡っていた。


 


 ああ、また悪い夢を見ている。


 お母さまに花瓶を投げつけられて失明した、あの悲しい日の夢を。忘れることなんて一生ない。


 両目から伝う血と涙の感触は、今も焼けつくように私の手のひらに残っていた。


 痛くて、熱くて熱くてたまらなくて、人形姫としての宿命を嫌というほどに刻みつけている。


 けれどたったひとり、あのひとだけがこの熱を紛らわせ、消し去ろうとしてくれた。


 


 ――レイヴェル。




 悪夢を打ち払うあの優しい青空を、私は、夢の中でも求めている。

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