第2話 私の耳に入った言葉

   

 この喫茶店は、知る人ぞ知る、隠れた名店なのだろう。いつ来ても満席ではないが、それなりに客は入っていた。黙ってコーヒーを飲む者ばかりではないため、静かな雰囲気とも少し違う。

 例えば、初々しい若者カップルが語り合っているのを目にしたことがある。見ているだけで私の顔に笑みが浮かぶような、まさに微笑ましい姿だった。

 休日だというのに、仕事の打ち合わせをしている者もいた。数冊の文庫本を並べながら、互いに質問を重ねていたのは、新人作家と編集者の初顔合わせだったのではないだろうか。

 そうした人々の会話を、私は特に騒音とは感じていなかった。人間観察の対象と思えば、むしろ大歓迎だ。小説のネタにもなり得るだろう。

 実際に今、ちょうど私の横を通りかかった人が深緑色のスーツを着ていたので、それを執筆中の小説『潜れ、いかりくん!』に取り入れる。次の登場人物である乗客Aの外見を決めかねていたので、彼にちなんで『緑衣の男』としてみたのだ。

 このように、私は趣味の執筆を楽しんでいたのだが……。


「ああ、そうだったね。今回のお題は『子供の頃の夢』だっけ」

 耳に入ってきた言葉に驚いて、私はパソコンから顔を上げた。『子供の頃の夢』といえば、先日の『Jeder Stern』のコンテストのテーマではないか!

 声の主に視線を向けると、先ほどの深緑色スーツの男だった。スマホで誰かと話をしている。

 静かな喫茶店ではないが、それにしても大きすぎる話し声だったらしい。私以外にも、数人が男に目を向けていた。

 男は「すいません」と軽く頭を下げながら、周りを見回している。私とも一瞬、目が合ったほどだ。

 しかし、だからといって男は通話を切ることなく、声のトーンを落としながらも、話を続けていた。

 遠くの席ならば、これでもう聞こえなくなるのだろう。だが、私は斜め隣のテーブルだ。小声であっても、その内容は相変わらず耳に届いてくる。

「うん、続けてくれ。そう、『子供の頃の夢』だが……。応募作品、また六百を超えたんだろ? 今回も多すぎるなあ」


 ただ『子供の頃の夢』というだけならば、ただの偶然という可能性も残っていた。しかし応募総数が六百以上という話も加われば、もう間違いない。

 男が話しているのは、『Jeder Stern』のコンテストの件だ!

 しかし、既に応募が締め切られたコンテストなのだ。これから応募しよう、という相談ではないはず。応募者の側でないとすると……。

「そうだ。さっさと審査しちゃってくれ」

 その言葉は、私の想像を裏付けるものだった。

 この深緑色のスーツを着た男は、コンテスト運営側の人間! しかも選考委員に指示する立場だから、かなり偉い人だ!

 こうなると、もはや人間観察とか小説のネタとか言っていられない。それとは別の意味で、興味津々だった。

 コンテスト選考側の裏話が聞けるかもしれない! 応募者には知らされていない、隠された選考基準のようなものを聞き出せるかもしれない!

 私はドキドキしながら聞き耳を立てる。

 すると……。

   

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