第46話

 俺は、おずおずと灯の隣へと座った。


 さっきまで川で水浴びをしていた灯の髪は、まだしっとりと濡れている。冷たい髪を先に乾かすべく、灯は何度も手櫛で髪を梳いていた。


「ルロ様も、水浴びをなさいますか?お背中、流しますよ」


 灯の言葉に、俺は言葉を失ってしまった。鼓動も早くなり、顔も赤くなる。俺だけがドキドキしているのが分かる。そして、同時に舞踏会前に灯に体を拭かれた心地よさも思い出していた。だが、川の水の冷たさも思い出し、灯の申し出を断った。


 一応、風呂に入るという文化はある。だが、湯につかることができるのは、ほんの一握りの王侯貴族ぐらいだ。普通は湯と布を使って、体を拭くにとどまる。それだって、子供でない限りは一人でやることが普通だった。舞踏会の時は念入りに体を拭くために、灯にふいてもらったが。


「俺はいい。水も冷たそうだし」


 川に入ることを断った俺は、焚火で体を温める灯の手を握る。


 先ほど触れたから分かっていたが、やはり氷のように灯の手は冷たい。それでもこの間、川に落ちたときよりはマシだった。灯には本当に迷惑をかけているな、と俺は申し訳なく思った。


「こんなに冷たくなるまで川にはいって、それまでほど禊というやつが大事だったのか?」


 冷たい水に自ら入っていく勇気は、俺にはない。川遊びに喜びを見出す歳でもない。しかし、川の中で身を清める苦労は知っている。


 俺の質問に、灯は頷く。


「はい。禊は穢れを落とすのは、大事な作業です」


 灯の言葉に分からない単語があった。『穢れ』という言葉である。俺がそれを伝えると、灯は「ああ、そうですね……」と小さく呟く。


「この国に穢れの概念がありませんでしたね。一種の汚れみたいなものですかね……目には見えない汚れ。まぁ、負けられない戦の願掛けだとでも思ってください」


 その言葉に、俺は息を飲んだ。


「願掛けか……」


 灯は、今回の戦を負けられないと考えているようだ。だから、禊をしていたのだろう。本来ならば、灯は引退しているべき人間だ。それでも、俺がふがいないばかりに復帰してもらっている。


灯の効き手には、かつてのような握力はない。


不安になるのもしょうがない、と俺は思うのだ。そして、俺には不安を吹き飛ばせるような言葉はかけられない。


「願掛けか……」


 俺は、再び小さく呟く。


 灯は、小さく笑った。


「ルロ様の初陣ですからね。ご無事ですめばいいのですが」


 灯の言葉に、俺は脱力する。


 結局、灯は俺のことばかり考えている。


 髪がある程度乾くと、灯は櫛を取り出す。


 それはシンプルな作りであったが、庶民が持つとは思えない白くてキラキラとした櫛だった。おそらくは、象牙で作られたものである。


「その櫛も父上からもらったものか?」


 尋ねると、灯は頷いた。


「はい。戦の報酬としていただきました。いつかはシュナの花嫁道具として持たせてやろうとも思っていますが、今は僕が使わせてもらっています。前当主様が送ってくださったもののなかでは、珍しく普段使いができるものでしたから」


 それに、と灯は言う。


「こうやって、使っていると前当主様が喜んでくださったんですよ」


 その目は、懐かしそうに細められていた。


 父は給料を受け取らない灯に対して、様々な贈り物を用意していた。それらは灯が男であっても女であっても、灯が使ってくれるだけでうれしかったのではないだろうかと思った。


「……父上は、やっぱり灯のことが好きだったんだよ」


 最初は、女と勘違いしていたのかもしれない。


 けれども、男と知ってもなお父上は灯のことが好きだったと思うのだ。だから、高価な贈り物をして、それを使ってもらえると喜んだ。ああ、もしかしたら。そう言う愛し方しか、知らない人だったのかもしれない。


 もしかしたら、父上はすごく不器用な人だったのかもしれない。


 だから、母上にも、俺にも、灯にも、どこかいびつな愛情表現しかできなかったのかもしれない。


「灯……」


 俺は、川の水で冷えてしまった灯の体を後ろから包み込んだ。突然の行動に、さすがの灯も驚いていた。


「どうしたんですか、ルロ様?」


 灯の指先が、彼の首にまわした俺の腕に触れた。


 優しい感触だった。


「俺……灯にも……フリジアにも……レンズにも……シュナにも……今更ながら、誰にも死んでほしくない」


 俺は、ぎゅっと灯に抱き着く。


 灯は、幼子を見るような優しい目をしていたのであろう。


「こんなの領主失格だよな。戦争でのし上がるのを目標にしていたのに」


 灯は、俺の頭を撫でる。


「失格ではありませんよ。前当主様もそうでしたから」


 灯は、笑っていた。


 俺は、灯を抱きしめる力を強める。まるで母親を求める子供みたいな抱擁だった。


「本当に、誰にも死んでほしくない。灯にだって、本当ならば引退したままでいてほしい……」


 俺は、灯のおとがいに指をかける。


そして、俺は無理やり灯を俺の方に向かせた。灯に、顔を近づける。


 冷たい感触がした。


 俺は、灯の唇を奪っていた。


「……ルロ様。僕は、前当主様の愛人ですよ」


 灯が、咎めるような口調で言う。


たとえ、その愛人というのが灯の立場を守るだけの方便だけのものだとしても――……真に父が灯に愛していたとしても、その事実に変わりはない。


「分かってる……分かっている」


 俺は、さらに灯を強く抱きしめる。


 逃がすものか、という思いさえも込めて。一方の灯も、俺の腕から逃げようとはしない。


 灯が、父の愛人だった事実は消えない。


 だが、これからのことは今から決められる。


「俺の愛人にもなってくれ」


 俺の言葉に、灯は息を飲む。


 同じ愛人が、二代に続けて仕えることはかなり珍しい。仕えている主人が死ねば、愛人が出て行ってしまうからだ。だが、二代続けて仕えた愛人も歴史上いるにはいる。その愛人が男であった前例はないだろうが。


「……この国では、男の愛人を持つ利点があまりありません。ましてや、私は兵士としてはもうあまり役に立ちません」


 灯は、俺の愛人になることを戸惑う。


 そして、利点がないのだという。


「愛人を持つ利点は、そもそもあまりない。それでも、灯は父上の愛人にはなっただろう」


 あの人は、と灯は言葉を吐き出した。


「あの人は、身分も何もないボクを守るために愛人にしてくれたんです。それに、あの人には常に一緒にいる医者も必要でした」


 たしかにそうだ。


 灯と父上の愛人関係には、互いに利点があった。


 時には上司と部下になり、時には医者と患者になった。


 だが、俺と灯ではそのような利点がない。


「それでも、俺は灯に愛人になってほしい」


「あ……愛人の意味をちゃんとご存じですか?」


 灯の言葉に、俺は眼をぱちくりさせた。


「愛人って、正妻の代わりに色々やってくれる人のことだろ」


着付けとか、服選びとか、家の管理とか、俺は愛人の仕事を指折り数えた。それは灯が普段やっていることである。


「ルロ様、ふざけていますね」


 灯は、大きなため息をついた。


「その……愛人にも正妻と同じお仕事がありましてね」


 灯は少し照れながら、俺に正妻と愛人の仕事を伝える。その様子が可愛かったので、俺はすでに知っている仕事の話を丁寧に灯からきいた。


「分かりますね。あなたは、ボクに愛人のお仕事をできるんですか?」


「……でっ、できる」


俺は突っかかりながらも、俺は灯に答えた。


俺の腕の中で、しばらく灯は黙っていた。それにしても、灯は細い。俺の後ろから抱きしめても、まだ余裕がある。そんなふうに感心していると、やがて灯はするりと俺の腕のなかから消えた。あまりに自然に消えたので、俺は少し驚いてしまった。


「ルロ様……どうか、約束してください」


 灯は真剣なまなざしで、俺を見ていた。


「僕を愛人にしても、正妻を娶り大事にしてください。そして、立派な後継ぎをもうけてください」


 真剣な灯の言葉。


 その言葉は、自分に溺れてはならないということであった。


 そして、その言葉は頷かなければならない言葉であった。母をないがしろにしてしまった父の二の舞だけはおかさないように。灯は、それを俺に言い聞かせた。


「……ああ、分かった。約束しよう」


 自分の妻となる人は大切にしよう、と俺は決めていた。父のように、何もしない夫にはなりたくはなかった。俺の言葉に、灯はほっとしたようだった。


 どうやら灯は愛人の立場としてではなくて、親として俺を見ているようだった。それは何となく悔しかったが、灯の言っていることは正しい。


 俺は、灯が持っていた櫛にそっと触れる。


「父上から頂いたものは、全てシュナの嫁入り道具にするつもりなのか?」


 俺の言葉に、灯は首を横に振る。


「いいえ。女性向けのものや換金しやすいものを持たせるつもりでした。あとは、前当主様との思い出として取っておくつもりでした」


灯の言葉に、俺は少し残念だった。


 父上が灯にやったものがすべてシュナの花嫁道具になれば、灯の持ち物は俺がプレゼントしたものだけになるかもしれないのにという暗い考えがよぎったからだった。


「ルロ様……」


 灯が、寂しげな声で俺を呼ぶ。


「どうか、いつでも僕を切り捨ててください。それぐらいの覚悟で領主をやってください」


 灯の言葉に、俺は硬直してしまった。


 俺は、そんなことを考えていなかった。


 むしろ、何も逃したくないと願っていた。


「灯、俺は何一つ失いたくはないよ」


 俺は、改めて灯を抱きしめた。


「……大丈夫です」


 灯は、俺をぎゅっと抱きしめた。


「前当主様も同じことで悩んでいました……」


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