第45話
ミソギというのが何なのかと尋ねると、冷たい水で身を清める行為らしい。正しく発音すれば禊といい、灯の故郷ではよく行われていた行為だという。
久々に戦場に立つため、灯は身を清めに行ったらしい。
いったいどこで、とシュナに尋ねると「東の川で」と返答が帰ってきた。
「この涼しい季節に川に入ったら、風邪をひくだろ!」
俺は慌てた。
だが、他の面々は全く驚く様子はない。
「……あいつ、わりとどんな時も禊をしているぞ。放っておいても風邪一つ引かないし」
レンズは「心配するだけ無駄だ」と言った。
けれども、俺は心配した。何せ、俺は疲労で倒れた灯を知っている。今も無理しているのではないか、と思ってしまうのだ。
相変わらずフリジアに殴りかかりそうになっているシュナをレンズに任せて、俺は灯を探しにいくことにした。周囲は、それに賛成しなかった。
どうやら、禊を灯はわりとよくやっていることらしい。
だからか、灯を心配しているのは俺だけだった。
東の川は、領地のはずれにある。
おそらくは、灯は馬を使って行動したのだろう。
灯の家の近くの馬小屋からは、一頭馬がいなくなっていた。俺もできるだけ大人しい馬を選んで、その馬に鞍をつける。
そして、深呼吸を一つしてから馬に飛び乗った。
思ったよりは、折れた胸は痛まなかった。俺の骨折も日々治っているらしい。嬉しいことである。それにしても、久々の一人の乗馬であった。最近は、馬に乗っても灯やフリジアと一緒にいることが多かった。骨折の痛みも少ないし、この分なら一人で灯を探しても大丈夫そうだ。
「これなら、一人でもいけるか」
馬を速足で走らせると、領地の様子も見えた。人々は店を営んだり、畑を耕したりと、日々の営みを繰り返している。
数日前まで、敵の襲来を撃退した人々とは思えない平和な日常だった。数人が俺に気が付き、挨拶をしてくる。俺も、気軽に挨拶を返した。牧歌的な日常であった。
こんな平和な日常が、戦争によって壊されてしまうかもしれない。
この間はシュナやレンズたちのおかげで守れたが、次は違うかもしれない。
俺は改めて、戦争が怖いと思った。
住居が集まっている地域を抜けて、俺は森に入る。今はキノコなどの森の恵みをとるような季節でもないので、森のなかでは誰とも出会わなかった。
静かだ、と思いながら俺は森の中で深呼吸した。
清涼な気持ちになり、灯もこれを求めていたのかもしれないと思う。誰もいない森の中は、清らかだ。体のなかを正常に戻してくれるような気がする。
そのうちに、水の流れる音が聞こえてきた。
川が近いのだ。
ゆっくりと馬を歩かせていると、灯が乗ってきたと思われる馬を見つけた。木に繋がれた馬は、草をうまそうに食んでいた。俺は馬から降りて、自分の馬も近くの木につなぐ。
同じ厩舎に住んでいる馬同士は喧嘩をすることもせず、仲良く餌を食べ始める。俺は、水の音を頼りに川を探した。
川は、すぐに見つかった。
あまり大きな川ではなかった。それでも洗濯などの生活で使われていないせいもあって、川の水は美しく澄んでいた。しかし、油断すると奥の方が深くなっていそうな川であった。子供も溺れやすそうだが、大人も油断すれば危ない川である。
そんな川のなかに、灯はいた。
灯は長い髪が濡れることもいとわずに、透明感のある川で身を清めていた。
俺たちとは少し違う黄色味がある肌は水をはじき、黒髪はしっとりと濡れていてまるで鴉の羽のような色になっている。細身である肉体には筋肉がしっかりと付き、なおかつ背中は数多くの古傷に覆われていた。
もしも古傷がなければ、伝説上の妖精のような美しさで他人の魅了したことであろう。だが、数多くの古傷が、彼を武人だと知らしめていた。
だが――それでも――数多くの傷があっても――それが俺が知らない戦争の記憶たちであろうとも――俺には灯がとても美しく見えた。
俺の気配に気がついた灯が、振り返る。
長い黒髪がその動きに合わせて揺れて、俺にはそれが灯の羽のように見えてしまった。傷がなければ妖精のように見えてしまうかもしれないと思ったが、傷があっても妖精のように見えてしまったのだ。それが、なんだかとても恥ずかしかった。
「ルロ様!どうしたんですか?」
慌てて川から上がろうとする、灯。
俺は、思わず灯から視線をずらす。そんな俺の様子に、灯は首を傾げた。
「本当に、どうしたんですか?」
灯は川の中で、不思議そうにしている。川の水は冷たそうなのに、灯は凍えている様子はなかった。冷え性といっていたし、寒いのには強いのかもしれない。
「いや……水浴びに行ったっていうから、風邪をひかないか心配になって」
俺は、しどろもどろになって答えた。
灯は、益々不思議そうにする。
「あちらに焚火をたいていますから、川から上がったらすぐに当たるので大丈夫ですよ。それより、どうしてこちらを見ないんですか?」
気が付けば、灯の指が俺の頬に触れていた。
いつの間にか、裸の灯が俺の側にいた。
その氷のような冷たさに驚いて顔を上げると、水を滴らせる灯と目があった。きょとんとした表情の灯は、俺の気恥ずかしさなどまるで理解していないようだった。
「何もなかったっていっても、灯は父上の愛人だったんだろ……気恥ずかしいんだよ!」
叫ぶ俺に、灯はぽかんとしていた。
そして、笑い出す。大層面白いもの見た時のように、いつまでも声をだして笑い転げている。あまりにも笑うので、俺は恥ずかしくなってしまった。
「なっ、なんで笑うんだよ」
俺は悔しくなって、灯のことを真正面からじっと見てやった。灯は背中だけではなく、正面も傷だらけだった。どれだけの訓練や戦を繰り広げれば、こんな傷だらけの体になるのだろうか。傷だらけの筋肉質の肉体だったが、伸びた髪と表情だけが女のように柔らかい。
「失礼。ルロ様は、そういうことを気にしないと思いましたから。ましてや、男同士ですし」
あっけらかんとしている灯の言葉。
気にしすぎている俺の方がおかしいのではないだろうか、と俺は不安になった。
「……祖国じゃ、どうだったんだよ」
男同士の営みさえも普通であったらしい、灯の祖国。
その祖国で、美しい肉体をどう扱っていたのか俺は少し気になった。
「お湯で体を洗う文化がありましたけど、身分が低ければ男女混浴でしたよ。少なくとも、この国よりも裸になることに羞恥心を持っていませんでしたね。もっとも、身分の低い人限定ですけど」
灯の言葉に、俺は開いた口がふさがらなかった。
俺たちは人前では決して脱がないし、女性であればそれはもっと顕著になる。だから、灯の話は信じられなかったのだ。国が違えば様々なことが違うと理解しているが、混浴の文化があるだなんて信じられなかった。
「僕のいた国は湿度が高くて、水浴びも頻繁に行われていましたからね。そういうところから、裸をさほど恥ずかしく思わない文化が生まれたのかもしれません」
灯は川から上がり、乾いた布で体をぬぐう。そして、簡単な作りの服を着ると焚火にあたった。さすがに冷たい川に震えるほどは浸かっていたのか、灯の顔色は悪くないものだった。俺は、それに人知れずほっとする。王都に行くときの川でおぼれたのが、俺のトラウマになっている。
「ルロ様もこちらへ、温かいですよ」
灯は、俺にそう声をかけた。
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