第26話
旅の途中、雨に降られた。
馬での旅で雨は大敵だ。馬が足を滑らせた時、思いもよらないような事故が発生するからである。
俺たちの先方を歩く商人たちは、馬車を二匹の馬にひかせていた。だいぶ荷台に商品を乗せているらしく、その進みはかなり遅い。あまりの遅さに何かがあったかもしれないと疑った灯が一度馬からおりて、前方で何が起こっているか確認してもらってきた。
戻ってきた灯から得られた情報は、商人たちの馬車の車輪が泥にとられているということだった。商人たちは総出になって馬車をおしたりしているが、馬車はなかなか前に進まないらしい。
商人たちを追い越して進めばいいのだが、残念ながら道は狭く、その隣には川が流れていた。雨で増量している川を越えていくことはできず、大人しく商人たちが進むのを待つしかない。
「このままでは、王都に何時つくのか分かりませんね」
灯からの報告を聞いたファリアは、小さく呟いた。
その声は、苛立ちが含まれていた。
その苛立ちは、仕方がないかもしれない。立往生した馬車のおかげで、もう何時間も待たされていた。
「今から道を替えますか?」
フリジアは、雨の中でそう尋ねる。
だが、フリジアは後ろを振り返るとファリアたちの仲間がいた。この軍勢が全員で後ろ向きに進むのは無理だろう。
「向きを変えるのは無理そうですね」
フリジアは、自分で自分のアイデアを拒否していた。
俺もため息をつく。
このままでは、いつまでたっても進めそうもない。王の葬儀に間に合うだろうか、と俺は考え始めていた。
馬の上でぼんやりと考えていると、がらりと足元から音がした。馬の脚が、川べりの石を蹴ったのだ。危うくバランスを崩して、馬から落ちてしまうところだった。
危ないところだった、と俺は思わず呟く。少しでも気が緩んでいたら、馬ごと川に落ちていたところだろう。ただ待つだけではなく、気をつけなければならない。
「ルロ様、大丈夫ですか?」
俺の前を歩く灯が、俺の心配をして振り向く。
大荷物を積んでいる灯の馬は危うげなようすもなく、細い道を易々と進む。まるで乗り手の腕の違いを見せつけられているようだった。
「俺は大丈夫だ」
俺は前を行く、灯に答えた。
すると灯は満足そうに笑い、再び前を見て歩きだした。俺は「ふう」と静かに息を吐く。馬車は相変わらず進んでおらず、もうしばらく我慢が必要なようだ。
「おい、崩れるぞ!」
商人の誰かが、声を上げた。
商人の荷台をひいていた馬が、足を滑らせた。足を滑らせた馬は、鳴き声をあげながら川に落ちていく。その馬を操っていた御者と荷台も一緒に川に落ちる。雨によって増えた水嵩が馬と御者、馬車を流していく。
御者は泳げないようであった。川の流れが速すぎるし、それに対して御者は不格好に手足をバタつかせているだけであった。このままでは、溺れてしまう。
「あぶねぇ!!」
俺は馬から飛び降りて、川に飛び込んだ。
川の水は冷たく流れは速かったが、泳げないほどではなかった。口の中に水が入ってくるが、俺は必死に御者に手を伸ばした。
「おい、こっちに手を伸ばせ!」
俺は叫んで、手を伸ばす。
俺の叫びが届いたのか、御者も俺に向かって手を伸ばす。俺はその手を掴んで、自分の方へと引っ張った。だが、川の流れや水を吸った服が重くなり、うまく泳ぐことができない。
「ルロ様!」
灯の声が聞こえた。
気が付くと川に飛び込んだ灯が、俺の腕を掴んでいた。かなり強い力で握られていたので握力をなくした腕とは、反対の手で俺をつかんでいるのだろう。
灯は、そのまま俺と御者を岸に上げる。だが、あと一息がたりない。俺も踏ん張って岸に上がろうとするが、足元が不安定で力が入りにくい。
「フリジアさん!」
灯が、大声でフリジアを呼ぶ。
「灯さん!」
フリジアの声が、近くに聞こえた。フリジアは、陸から俺の服をしっかりと捕まえていた。これで川の流れでながされることを防げる。
「引っ張り上げますよ」
灯とフリジアが力を振り絞って、俺と御者を引き上げた。引き上げられた俺たちを、フリジアが安全なところまで引っ張る。
「ルロ様、生きてますか!」
大声でフリジアに尋ねられて、俺は茫然としながらも頷く。俺の無事を確認したフリジアは、川から上がれずにいた灯にすぐに力を貸していた。川から助け出された灯は、ふらふらしている。
俺は濡れた草に寝そべりながら、助けられる灯を見ていた。着ていたマントまで濡れネズミになっていた灯は、いつもよりも一周りも小さく見えた。川の水の冷たさで震える灯は、まるで溺れた子供のようだった。
俺の体も震え始める。
川の水で体力と体温を奪われて、体中の筋肉が無意識に震えていたのだ。だが、震えながら俺は驚いていた。華奢な印象の灯とは思えない力強さに、俺は絶句していたのだ。
灯は、男性二人分の体重を陸まで運び上げた。普通の男でも難しいこと、小さな灯はやり遂げたのだ。だが、多量の体力を使ったせいもあって、さすがの灯も息を切らしていた。
「ルロ様、大丈夫ですか!」
気絶している御者を差し置いて、灯は俺の心配をする。
怪我はないことを伝えると、灯はほっとした。そして、はっとした灯は気絶したままの御者の頬を叩く。
御者は目覚めない。どうやら気を失っているらしい。灯は御者の心音を確認するために、御者の上着を開けはなった。そして、胸に耳を当てて心音を確認する。
「灯さん……」
フリジアは、乾いた毛布を持ってきて灯の肩にかけた。
「息がありません。……蘇生しないと」
灯は御者の軌道を確保し、その口に息を吹き込んだ。
人工呼吸だ。
その後、灯は相手の胸に手を当ててマッサージを繰り返す。
「ルロ様、これを……」
フリジアが俺たちにも、毛布を渡す。夜につかっている野営用の毛布だったが、それをかけていないのとかけているとでは大きく違った。毛布にくるまっているほうが、圧倒的に温かい。
「フリジアさん、火を焚いてください。このままでは風邪をひいてしまいます」
まだ御者の心臓マッサージを続けている灯の指示に、フリジアは頷いた。荷物から火打石を取り出し、出来るだけ濡れていない草木を集めて火をつける。出来る限り火が雨に当たらないように、フリジアは布で炎を守っていた。
「フリジア、俺はいい。それより、あの人の息が……」
俺は自分よりも、川に落ちた御者のことが気になっていた。灯の心臓マッサージは終わっておらず、御者の呼吸は戻っていないことが分かった。
「ルロ様!火の近くから離れないでください!!」
人口呼吸を続けている灯は叫んだ。
灯の言葉があまりに必死だったので、俺は火の近くから離れることができなかった。
しかし、灯の息は上がっており、限界が見えていた。見かねた商人の一人が、灯がおこなっているマッサージを代わると話す。
だが、商人には心臓マッサージの知識はなかった。そのため、灯が胸を強く圧迫するマッサージの方法を説明していた。心臓マッサージの説明が終わった灯は、俺の側にやってきて火にあたりに来た。
冷たい場所でずっと人工呼吸をしていたせいか、灯の唇は紫色に変色していた。俺は自分の毛布も渡そうとしたが、それは灯に断られた。だが、灯の顔色は紙のように白くなっており心配だった。
「灯、大丈夫か?俺の毛布も使うか?」
俺は、灯に尋ねてみる。
灯は白い顔色で、俺を睨む。
「その毛布はあなたの分です。それをいただいて、あなたを殺してしまうわけにはいかない」
殺すなんて、なんて大げさな言葉なのあろうかと思った。
だが、灯は真剣な顔でいう。
俺はその顔には、逆らえないような気がした。
「あなたは領主なのです。こんなところで、あなたを死なせるわけにはいかない」
「死ぬって、大げさな」
俺は、無理やり笑った。
だが、冷静に考えれば死ぬ可能性はたしかにあった。それどことか、と灯とフリジアに持ち上げてもらわなければ死んでいただろう
「この雨で体温が下がれば、風邪をひきます。風邪は命取りになりえます!!」
灯は、そう言った。
「なにより、川でおぼれていた可能性もあったんです」
それは、俺もなにも言い返せなかった。それに関しては、圧倒的に俺が悪い。灯とフリジアがいなければ本当に死んでしまっていたかもしれない。
「あなたの双肩には、色々なひとの命運がかかっています。それを忘れないでください」
灯に言われ、俺は言葉をなくした。
そうだった。
俺は、もう一人ではないのだ。領主という仕事を通して、他人にかかわっているのだ。俺の命は、他人の命と同じぐらい大切にしなければならないものになっていたのだ。
「おい、息を吹き返したぞ」
遠くで、声があがる。
どうやら、御者は息を吹き返したらしい。周囲に人が集まっているなかで、ごほごほとせき込む御者。それを見届けた灯は、ほっと息を吐いた。灯が安心しているような顔を見て、彼も御者のことは助けたかったのだなと思った。
だが、すぐに灯は厳しい顔をする。
そして、灯は俺と向き合った。
これは、とても怒っているなと分かる灯の顔つきであった。こんなふうに怒っている灯を今まで見たことなかった。
「……失礼します。ルロ様」
そういうと、灯はパンと俺の頬をはった。湿った空気のなかで、俺の頬を叩く音だけが乾いていた。あまりに大きな音だったので、御者の近くに集まっていた人々も俺のほうを見ていた。それでも灯の怒りは収まらない。フリジアが不信がって、俺たちのことを見に来た。それでも灯の怒りは収まらなかった。
「ルロ様、あなたは領主なのです……。それを実感して」
灯は、最後まで言えなかった。言う前に、彼は倒れたのである。
「灯……!灯!!」
俺は、倒れた灯に呼びかけた。
何度も、何度も、飛びかけた。だが、灯は眼を覚まさない。
「落ち着いてください、ルロ様」
俺の頭にタオルをかけたフリジアは、落ち着くように俺を後ろから抱きしめる。俺は、それにはっとする。
フリジアは、温かい。
俺は、灯の息を確認する。灯の胸は動いている。間違いなく生きている。そのことに、俺はほっとしていた。
「フリジア、俺は大丈夫だから……それより灯を」
「今は、何よりもルロ様です。自分で、何をやったのか分からないんですかっ!!」
フリジアに怒鳴られて、俺は息を止めた。
俺は溺れた商人を助けようとして、川に入った。そして、その俺を助けるために灯も川に飛び込んだ。
「灯さんが言っていたことを分かっていなかったんですか。あなたは、将なんです!
それを他人を助けるために死にかけてどうするんですかっ!!」
フリジアの言葉に、俺ははっとした。
俺が自分の命を危うくしたから、灯が倒れているのだとようやく理解したのだ。
「でも、俺は人を助けようとして……」
「でも、じゃありません!!」
フリジアは怒鳴った。
だが、それ以上の言葉はファリアがいたせいか飲み込んだ。
「とにかく、今日はここで野宿をしましょう。灯さんの容体も気になりますし」
フリジアの言葉を反対するものはいなかった。
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