第19話
とうとう舞踏会の日がやってきた。
俺が雇った使用人やレンズが連れてきた使用人などの奮闘もあって、舞踏会の会場の飾りつけは中々の豪勢さを見せていた。料理や音楽の準備も完璧で、あとは開催を待つだけになっていたはずだ。そう、そのはずだった。
舞踏会を開催する日に、俺は灯によってたたき起こされた。舞踏会は夜からだったので、だいぶ早い時間の起床である。俺は眼をこすりながら、普段はけっしてこんなことをしない灯を見上げていた。
「ルロ様、舞踏会の準備をしますよ」
俺の布団をはぎ取った灯の鼻息は荒かった。
一体なにが起こったのだろうかと目を白黒させていると、灯はお湯を張った桶を持てきた。ほかほかと湯気を立てる桶を机に置くと、白いタオルを広げて見せた。折り目の荒いタオルは、一般的な体をふくためのものである。
「えっと……これでどうしろと?」
俺は混乱しながらも灯を見た。
「脱いでください」
灯は、にっこりと笑った。
俺は、その言葉にぎょっとする。思わずはぎ取られた布団を取り返して、それで身を隠してしまった。まるで乙女のような反応である。
「ちょっとまて……灯。脱いでどうするんだよ」
混乱する俺に、灯はきょとんとしている。俺の方が、可笑しなことを言ったような雰囲気だ。
「無論、体をふくんですよ。ここらには、風呂がありませんからね」
灯は、何てことないように言う。湯船に湯をはって、風呂に入る文化はたしかにある。だが、それは物資を潤沢に使える王族や裕福な貴族にかぎられる。普通は、お湯で体をふく程度だ。つまり、灯は俺の体を拭いてくれるというのだ。別に頼んでいないのに。
「ひっ、一人でできるって。体を拭くぐらいなら、母の館でも一人でやっていたし」
貴族ならば、使用人に体を拭いてもらうことも珍しくない。ただし、母の館には使用人が最低限しかいなかったので、俺はいつも自分で体を拭いていた。それもあって、俺は灯に体を拭かれることを恥ずかしく感じていた。だが、灯は理解してくれなかった。
「なに恥ずかしがっているんですか?前当主様の体も僕が拭いていましたよ」
灯は、ことなげに言う。
俺は少し驚いたが、よく考えれば灯は父の愛人であり主治医である。全身に火傷を負っていた父の体を拭くぐらいのことはしたであろう。
「前当主様の体を拭いた後は、薬を塗って、包帯を巻いて……懐かしいですね」
灯は懐かしがっているが、俺は気が気ではない。父と同じように世話をされるなんて、絶対に嫌だった。
「俺は怪我人じゃないからな、一人で拭く!」
俺は、灯から薄いタオルを奪おうとする。
だが、灯は譲らない。
「背中などは拭けないでしょう。僕に任せてください。隅から隅まで、綺麗にしますから」
灯は、俺の服をはぎ取る。簡単な作りの寝巻は灯に簡単にはぎ取られて、俺はあっという間に股間を隠す下着だけにされた。悲鳴を上げる俺に、灯はタオルを桶のお湯に浸してよく絞る。そして、温かいタオルで俺の背中を拭いた。
父の世話で慣れているせいか、灯の手つきは心地よい。それにタオルから、良い匂いがするような気がした。俺の疑問に気が付いたのか、灯が口を開く。
「お湯にハーブに入れているんですよ。落ち着く効能がありますよ」
「へー」と思いながら、俺は灯にされるがままになっていた。もはや、抵抗が無駄に思えるから不思議だ。
「……まさかと思うけど、シュナに同じことをやっていないよな」
なんとなく、恐ろしい予感がして俺は灯に尋ねた。灯は「女の子にはやっていませんよ」と笑いながら答える。最低限の男女の垣根が残っていてよかった、と本気で思った。
灯は俺の体を拭き終えると、正装に着替えさせた。おそらくこれも前当主である父が使っていて、俺用に仕立て直したものなのだろう。俺が持ってきた荷物の中に、このような服はなかった。採寸したわけでもないのに、灯が着させた服は俺のサイズにぴったりである。
「悪いな。こんなことまでさせて」
灯は、俺に白いシャツを着せ、その上に藍色の上着を選んだ。鏡の中に映る自分は、いつものものよりも立派に思えた。若かりし日の父も俺と似たような外見だったのだろうか、と俺はちょっとばかり気になった。なにせ俺と父の外見は似ているという。
「前領主様の準備もさせていただいていましたから、苦になりませんよ」
灯はそう言いながら、俺の髪を整える。自然の香料を使った油を髪に塗りこみ、いつもとは違った正装に見合う髪型に整えられる。その手つきは慣れたもので、父の手伝いもやっていたことは想像にかたくない。
「灯様」
最後に、灯はカフスボタンを取り出した。透き通ったアメジストが付けられたそれは、紳士物らしいシンプルはデザインだ。
「前当主様が好んでつけられていたものです」
少ししんみりしながら、灯は俺にカフスボタンをつける。目立つデザインではなかったが、何となくこれで父の趣味が分かったような気がした。
「父上は、これが好きだったのか……」
手元にきらりと輝く、カフスボタン。
「その石。奥様の目の色なのだと自慢されていましたよ」
その言葉に、俺は少し驚いた。
確かに、母の瞳は紫色だ。だが、それを身に着けるほど母のことを愛しているとは思ってはいなかった。
「どうかしましたか?」
カフスを見つめる俺に気が付いた灯に尋ねられ、俺はあいまいに笑った。灯は、少し不思議そうだった。
「いや……母のことをそんなに思っている人だとは思っていなくて」
父は、母にもっと興味がないと思っていた。
なのに、瞳の色のカフスボタンを身に着けるなんて。
「不器用な方だったんですよ」
灯はそう語るが、俺にはとても意外なことだったのだ。
「それでは、灯様。シュナの準備にかかってきます」
灯は一礼をして、俺の部屋から出ていこうとする。だが、灯は俺の視線に気が付く。俺は、どきりとする。灯の真っ黒な瞳が、俺の心を全て暴くようだった。
「もしかして、灯様。女の準備に興味がおありですか?」
その言葉に、俺はたじろぐ。
「そっ、そんなはずないだろ」
普通、紳士は淑女の準備など見ない。それはマナー違反だ。だが、俺は母親の舞踏会の準備をしている様子すら見たことなかったので少し興味があったのも事実だ。
「シュナの化粧ぐらいなら、見てもかまいませんよ」
くすり、と灯が笑う。
俺は、慌てて否定した。
「いくらなんでも、それはシュナに悪いだろ」
「シュナは気にしないと思いますよ。前当主様もたまに興味深そうに見ていましたから」
父も女の化粧に興味があったらしい。
だが、父が存命時にはシュナが化粧をするような用事があったのだろうか。少し考えて、お茶会があったかと思い出す。社交界デビュー前の子供を集めたお茶会は、舞踏会の簡易版と言っていい。招かれたら、化粧もするしドレスも着る。父は、その準備を見ていたのだろう。
俺は灯と共に、シュナの部屋に向かった。シュナはすでに暗色のドレスに着替えていて、鏡の前に座っていた。ドレスに着替える前にシュナも体を拭いたらしく、部屋にはハーブを入れた桶が置いてあった。
「灯様。どうして、ルロ様がいるんですか?」
シュナは、不思議そうな顔をしていた。部屋に無関係の男が入ってきたら、不信がるであろう。
「女の子が化粧をするのが珍しいから、見学したいそうですよ。ルロ様は一人っ子でしたから」
灯の発言に、シュナは怪訝そうな顔をする。鏡越しに「この男は何てことを言っているのだろう」と思っているのが分かる。俺は、少し情けない気持ちになった。
「そんな珍しいものでもないですよ」
シュナは、不機嫌そうだ。化粧もお洒落も、シュナはあまり好きではないらしい。義務だからやっている、という雰囲気を感じる。女の子なのに珍しいことだ。
「まぁまぁ、いいじゃないですか」
灯は、シュナの銀の髪をとかす。普段は一つに縛られている髪だが、とかされると随分な長さであったことが分かる。さすがに腰までは届かないが、背中は完璧に隠れてしまっている。とかされるたびにシュナの髪が艶めいていって、これが女の髪というものかと感心してしまった。
灯は、シュナの髪を少しだけ救い上げて三つ編みを作っていく。同じようにそれを何本も作り上げると、金色のバレッタで止めた。この間は、見なかった髪飾りだ。
「シュナの髪は銀色だから、銀の髪飾りだと全然目立たないんですよね」
灯が、困ったように語る。
たしかにシュナの髪色は銀色で、灯が多く持っていた銀細工の髪飾りでは目立つことはないだろう。だが、繊細な作りのものが多かった銀細工の髪飾りに比べると、金のバレッタは少しばかり大ぶりで粗雑な印象を受ける。良くも悪くも子供っぽい印象だ。
「このバレッタも父が、灯に?」
俺が尋ねると、灯は頷いた。
「はい。ボクには金は似合わないと言われて、それっきりになってしまいまいたが……シュナには似合ってよかったです」
たしかに、シュナには金のバレッタは似合っていた。それに幼さを感じるデザインもシュナには年相応のものに思われる。髪を綺麗に結い上げられたシュナは、それだけで名家の令嬢のように思われた。ここから、さらに灯はシュナに化粧をしていく。
シュナは、まだ若い。そのため、化粧も薄く控えめだ。
ファンデーションで軽く肌を整え、頬に桃色のチークを塗る。それだけで、顔色の悪いシュナの顔が華やかになる。最後に筆で口紅をさし、呆気ないほど簡単に化粧は終わる。最後にきらびやかなアクセサリーを飾れば、普段の見習いのシュナは何処にもいなかった。
最初こそドレスがシュナには大人っぽ過ぎるのではないかと俺は思っていたが、髪を整えられ、化粧までされたシュナは完璧な令嬢だった。だが、本人の表情だけがさえない。
「どうしても、いかないといけないのよね」
おしゃれが嫌というより、シュナは舞踏会そのものがいやらしい。だが、いかないと駄々をこねるほど彼女も子供ではなかった。
「どうして嫌がるんですか。うん、素敵になりましたよ」
灯は、とても嬉しそうだった。
だが、鏡の前のシュナは笑顔ではない。
「私なんかよりも、灯様のほうが似合うのに」
そう不貞腐れる、シュナ。
灯は、くすくすと笑う。
「ボクが着たら変に思われますよ。昔と違って、もう皆さんはボクの性別を知っているんですから」
灯はそう言うが、一番変なのは灯にドレスを贈り続けた父親だろうと俺は内心思った。一体、父は何を考えていたのだろうか。困ったときには売り飛ばせる高価な物としか認識してしなかったのか。それとも、それを着て隣に立ってほしかったのか。故人の考えは、分からない。分からない方がいいのかもしれない、と最近思うようになってきた。
シュナの髪も整えた灯は、一仕事を終えたように「ふぅ」と一息つく。俺たち二人をいつでも送りだせるようにした灯は、それだけで満足のようだ。
「灯様、自分の準備は?」
シュナがそう尋ねると、灯は呆気にとられた顔をした。
どうやら、本気で自分の準備を忘れていたらしい。
しばらく考えて、ぽんと手を叩く。
「別にいいですよ。僕の服装なんて、適当で」
俺はずっこけそうになった。人のことはあんなに入念に準備をしておいて、自分のこととなると途端にどうでもよくなるらしい。たしかに俺は主催者だし、シュナは年頃だしで、力の入り方が違うのかもしれないが。
俺とシュナは目と目で会話し、灯が逃げられないように取り囲んだ。灯は、ちょっと不思議そうな顔をする。悪戯っ子のような顔で自分を囲むシュナと俺の行動が、予測できなかったのだろう。
「灯。灯も今回は招待客の一人なんだから、ちゃんとした格好しろよ」
俺が、ちょっとばかり責めるような口調で言う。
灯は、少しばかり困っていた。
それが、正論だったからだ。
「そうですよ。灯様」
シュナは、灯に詰め寄る。ほとんど身長差のない二人だが、今だけはヒールを履いているのでシュナの方が身長は大きい。
「男の正装もおじさ……前当主様からいただいたんでしょう」
シュナの言葉に、俺は「おお……」と感激してしまった。父は灯に女の服だけではなく、男の服も与えていたのだ。男に男の服を贈るだけで、息子の株が上がる父というのもおかしい気がするが。
「確かにいただきましたけど……」
灯は、戸惑っていた。
考えている灯の腕に、シュナは思いのままにじゃれつく。その光景は、子猫とその飼い主のようだった。微笑ましい光景だ。
「じゃあ、それを着ていきましょうか」
決めた灯の背中をシュナは軽く押す。
シュナの顔は、今まで見たことがないぐらいにワクワクしているように見えた。どうやらシュナも、灯を着せ替え人形にして遊びたいらしい。灯は放っておくと、いつもゆったりとした作業着しか着ていない。だから、シュナとしては灯を着飾らせることが楽しみでしかたがないらしい。
私室に放り込まれた灯だが、シュナも俺も灯の着替えを手伝うことができなかった。すでに俺たちは正装に着替えているし、そもそも他人の着替えを手伝ったことがない。灯一人にやってもらうしかない。灯だったら、問題なくできるような気もするが。
「ところで、正装って一人で着られるようなものだったか?」
俺は、思わず口にする。
俺自身誰かの手伝いなしでは、正装に着替えられないからだ。男の服は単純そうに見えて、着るのが結構難しい。ボタンなどが多いせいだ。
「女性のは、確実に無理でしょうね」
シュナは言う。男性の正装とは違い、女性の正装は段違いに難しい作りになっている。その上、髪のアレンジや化粧まであるのだから一人で行うのは不可能だろう。
「この国の正装は、割と動きやすいですよね」
俺とシュナがそんな話をしていると、三十分もしないうちに灯が部屋から出てきた。彼の服装は、非常に目立たないごく普通の正装だった。色も黒で、よくある使用人が着る服のようにも思われる。おそらく舞踏会で紛れたら、招待客なのか使用人なのか分からなくなるだろう。伸ばした髪は俺のように固めて整えることが不可能だったらしく、銀色の髪留めで一つにまとめ上げている。無難といえば、無難な恰好だ。折角なのだから灯の出身国の服装でもすればいいのにと思ったが、それはそれで珍妙な仮装大会になってしまうことであろう。
ともかく面白みのない灯の恰好は、シュナと俺には不評だった。カフスボタンも俺のもの比べると安っぽいガラス製のもので、しかも色はシックな黒だった。灯は黒髪に黒い瞳なので、服まで黒いと非常に目立たない印象だ。
「もうちょっと派手な物って持ってないのかよ」
俺がそう言って突っかかると、灯は「私ぐらいの年代は、これぐらい目立たないほうがいいんです」と言い返してきた。一体、灯は何歳なのだろうか。俺と同世代でもおかしくないように見えるので、もう少し派手な服装でも似合うと思うのだが。
一先ず着替えを終えた俺は、灯たちに見送られて一足先に舞踏会会場に向かった。会場と言っても所詮は、父の館である。馬を走らせればすぐについた。
舞踏会会場では、すでに正装したフリジアとレンズがいた。
二人とも普段は見ない正装姿で、特にレンズはいつも持っている武器の斧を持っていなかった。そのことについては心底よかった、と思った。もしも持っていたら、俺はそれを没収することになっていたことだろう。
フリジアは、緊張した面持ちでしていた。逆に、レンズはさほど緊張していないような欠伸を噛み殺したような顔でいた。この二人の性格を足して割ることはできないだろうか、と俺は思った。
「よう、ルロ。よく眠れたか?」
レンズが、俺に声をかける。
フリジアはレンズの気安い様子に怒ったが、俺としてはレンズの気安さが嬉しかった。そして、レンズの一言で自分が緊張していることに俺は気が付いた。
本当にレンズには、頭が上がらない。レンズは、俺たちの緊張をいつでもほぐしてくれる。フリジアもたぶんそれに気が付いているが、フリジアはレンズに礼は言わない。おそらくは、それが二人の信頼関係なのだろう。
「レンズ、よく眠れたよ。フリジア……」
俺は、ここまで一緒に頑張ってくれたフリジアの名を呼んだ。少し緊張が解かれていたフリジアは、俺に名前を呼ばれて改めて背筋を伸ばした。そうするとフリジアの元の顔の良さもあって、物語の王子様のような優美さと彼自身の真面目さを垣間見た。
「色々、ここから始まるんだよな?」
俺は、フリジアに尋ねる。
俺の言葉に、フリジアは頷く。
ここに来るまで、様々な苦労があった。それでも、ここまでくることができたのはフリジアやレンズ、灯のおかげだった。彼らの誰かが欠けていたら、俺はここまで来ることはできなかっただろう。きっと、どこかで挫折していたはずだ。けれども、俺たちはここまでくることができた。
そして、俺たちの「やるべきこと」はここから始まる。
「さぁ、始まるぞ」
レンズがそういうと、一組目の客人が現れた。俺たちとは違って馬車から優雅に降りてやってくる彼らは、正式な招待客だった。使用人が招待状を確認し、彼らを屋敷のなかへと招いていく。俺たちは、その客にさっそく挨拶をしに行く。そこからは、続々と招待客が現れていった。
俺とフリジアは、色々な人間に挨拶をしに行っていた。そのほとんどが、父の代に世話になった人々である。当たり前の礼儀として娘や婦人を伴っての舞踏会は、かなり大規模なものになった。もしかしたら、このなかに俺の没落を狙っているかもしれない人がいるかもしれない。
だからこそ、俺は弱みを見せてはならなかった。
時より、きらりと光る父のカフスボタン。それが、何より俺を勇気づけている。死んだ父が、こんなところでへこたれるなと言っているような気がしたのだ。俺は、そう思いながら客の間を周っていた。
フリジアも俺と一緒に周ったので、彼の息も切らしてしまっている。フリジアも剣士として訓練を積んでいるので、普通ならばこれぐらいの運動量で音を上げることはない。だが、今日は気を遣うので普段とは感覚が違うのだろう。
レンズは、会場の端っこで酒を飲んでいた。暢気でうらやましい。挨拶を終わらせる頃になると、俺とフリジアは疲れでふらふらになっていた。
「ご苦労様」
そんな俺に、飲み物を持ってきたのはレンズだった。レンズはかなりの量のワインを飲んだと思っていたのだが、彼の顔色は普通だった。レンズは、酒に強いらしい。
レンズが持ってきたのは俺が苦手なワインであったが、今は喉を潤したくってごくりとそれを全て飲み干す。すっぱさと渋さのある味わいは、相変わらず好きではない。俺は、思わず顔をしかめた。そんな様子をみて、レンズは笑っていた。ワインが好きで、酒に強いレンズがうらやましい。
「挨拶は上手くできたかな?」
俺は、同じように疲れ切っていたフリジアにも尋ねていた。フリジアも、レンズにもらったワインをもてあそんでいた。フリジアは、俺とは違って味わうようにワインを飲んでいる。その姿はワインをたしなむ理想の貴族そのもので、俺は彼の見目麗しさを改めて感じた。ワインを楽しむフリジアは、理想の貴族そのものだ。
「立派でしたよ」
フリジアは、にっこり笑う。
本当にいい笑顔で、フリジアは俺の挨拶に心底満足しているようだった。
「レンズだったら、あんなに立派な挨拶はできなかったでしょう」
フリジアの嫌味を聞きながら、レンズはワインのおかわりをもらっていた。自分の礼儀作法がなっていないのをレンズは分かっているので、フリジアに何を言われても気にならないらしい。レンズは、淡々とワインを消費している。
会場に、楽団による音楽が流れ始める。
ダンスの時間なのだ。
「ルロ様、ご婦人に声をかけてきてはどうですか?」
フリジアは、俺にそう進めてくる。
だが、俺はダンスをする気にはなれなかった。挨拶で疲れ切っていたのだ。そうでなくとも、気軽に誘えるような女性の知り合いなどいなかった。
本来ならば、ご婦人との付き合いも兼ねてダンスはするべきなのだろう。だが、疲れ切った俺にそんな余裕はなかった。
「俺は休んでいるよ。フリジアがいってくればいい」
フリジアは残念そうな顔をしながらも、ダンス会場に向かった。兄妹の多いフリジアが最初のダンス相手に選ぶのは、てっきり彼の兄弟だと思っていた。フリジアの妹の何人かも舞踏会に来ていたし、そういう身内をエスコートするのは兄や父の役割であった。
てっきり妹のエスコートをするのかと思ったが、フリジアが手に取ったのは意外な人物だった。フリジアが選んだのは、シュナだったのだ。
暗色のドレスを着たシュナは美しいが後ろ盾のなく、まだ若すぎる彼女は壁の花になっていた。誰も彼女を誘わなかったのだ。折角整えてもらった正装も男性に誘ってもらわなければ、意味はあまりない。壁際でぽつりと寂しそうに咲く、シュナ。
そんな彼女に、手を差し伸べるフリジア。
まるで小説の一場面のようで、俺は素直に「いいなぁ」と思った。美男美女の組み合わせは、それだけで運命的にさえ思える。
シュナは、フリジアの手を取った。断る理由もなかったからだろう。シュナにとって、フリジアは顔見知りで身内のようなものだ。ファーストダンスには、相応しい相手だった。
気心知れた二人のダンスは、とても楽しそうだった。フリジアはこのような社交はそつなくこなすし、シュナは灯に鍛えられたダンスの名手である。美しくも楽しげに見えるのは、当然だったのかもしれない。
「おー。フリジアの奴、やるじゃないか」
レンズは、フリジアの様子を見て笑う。その笑みには、からかいの意味も含まれていた。レンズ自身は誰とも踊る気がないらしく、ずっと休む俺の隣を陣取っている。レンズも踊ってくればいいのにと思ったが、彼の性格からして堅苦しいダンスは苦手なのかもしれない。
「お似合いの二人だな」
俺は、フリジアとシュナの様子を見ながら呟く。そう思うほどに、二人の美男美女はお互いがお互いのために作られたようにぴたりと合っていた。灯の姿が見えないが、この光景を見ていたら喜ぶのではないだろうかと思う。
フリジアは、もしかしたら相手のいないシュナを思いやって声をかけただけかもしれない。相手がいないのはフリジアの妹たちも同じだが、そちらは彼の兄や父たちがダンスの相手を務めてくれている。
整った顔立ちのフリジアとシュナのダンスは、いつの間にかホールの客たちの視線を奪っていた。美男美女のダンスはまるで物語の一ページのようだ、と感じさせるからなのかもしれない。少なくとも、恋に夢見るような年代の少女には魅惑的なダンスであった。
しばらくすると、曲が終わった。
今までダンスを踊っていたペアは、次々と体を離してお辞儀をする。そして、次の曲を踊ってくれる相手を探すためにしばしさ迷うのだ。
ダンスのペアは、曲ごとに次々と代わっていく。
基本的に未婚の男女は、続けて二曲以上の曲を踊ることがない。続けて二曲以上の曲を男性側が申し込むのは、愛の告白か婚約者同士の特権とされるからだ。そのため、どんどんと新しいペアが増えていく。シュナも一礼した後に、フリジアから離れようとした。
だが、フリジアはシュナの手を掴む。動けなくなったシュナは、目を丸くする。普段の彼女ならば、フリジアの手を振り払っただろう。
しかし、今は舞踏会。
いつものような非礼が許されるような場所ではなかった。シュナは渾身の気迫を込めて、自分を離さないフリジアを睨みつける。だが、フリジアはシュナを離すことはなかった。それどころか、真剣な表情でシュナを見つめる。
「曲が、始まってしまうわ」
それまでに離れて、別な相手を探さなければとシュナが言う。だが、フリジアはシュナの手を離すことはない。それどころか、フリジアはその場で膝をついた。紳士が淑女の前で膝を折るのは、正式なダンスの申し出である。それに驚くシュナに、フリジアは落ち着いた声で語り掛ける。
「私と、どうか踊ってください」
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