第18話
灯の家に帰ると、今日もシュナと灯が食事の用意をしてくれていた。今日も今日とて質素な食事であるが、別に気にならなかった。
俺は母の館で育ち、平民よりも豪勢なものに囲まれて育ってきている。いつも食卓には母のためのワインが添えられ、料理人が作った肉や魚料理が並んでいた。それらを食べていた俺だが、灯やシュナの料理を不服だとは思わない。それどころか、ここ数日で素朴な食事が自分はかなり好きだということが分かった。
時間が置かれた硬いパンも薄切りのベーコンやクズ野菜しか入っていないスープも、俺は結構好きだった。素朴な味付けの料理には、俺が今まで感じたことがない安心感を感じさせるのだ。家庭の味というやつなのだろうか。
しかも、俺はこの質素な家を我が家と思い始めている。たぶん、灯やシュナといった帰りを待っていてくれる人がいるからだろう。母の館では、俺が帰ってきても使用人しか俺に挨拶をしてくれなかった。この家にいれば、シュナと灯が俺の帰りを待っていてくれる。
父の館の二階が片付いても、ここにいてもいいだろうか。
そんな思いがよぎった。
父が入り浸っていたのだから、部屋の問題などはないだろう。食費だって、月々渡せば問題がないだろうし。男手が増えることで、手伝えることがあるかもしれないし。
もしかしたら、父も俺と同じ居心地よさを求めていたのかもしれない。そこまで考えて、俺は首を振った。家庭を顧みなかった父と同じ思考になるのは、避けたかったのだ。
「どうしましたか?」
そんな俺を不思議がってか、灯が尋ねる。
本当のことを言うわけには行かなかった俺は、咄嗟に
「灯。なぁ、お前って強かったの?」
と尋ねていた。
スープを分けていた灯は「うーん」と少し悩む。
「強いというよりは、周囲とはちょっと毛色がちょっと違いただけだと思いますね」
灯は、そう言った。
その言葉が、俺には理解できなかった。毛色が違う兵士というのは、どういうものなのだろうか。例えば、レンズなどもかなり毛色の違った兵士だと思う。普通の兵士ならば、剣や槍、弓などを使う。だが、レンズが背負っているのはいつも斧だ。
「毛色が違うって、どういうことだ。レンズみたいに武器が特殊ってことか」
「あっ、レンズさんの武器が斧ってことは知っているんですね」
灯の言葉に、俺は頷く。というか、始終背負っているので嫌でも気が付く。それを言うと、灯は苦笑いした。
「レンズさん、変わっていませんね。最初に見た時、僕は彼のことを木こりだと思っていましたよ」
そう思われてもしょうがないだろう。
俺も、出会いの場所が悪かったらレンズのことを木こりだと思っていただろう。
「レンズさんの場合は、使っている武器だけが特殊なんですけど……。僕が使う剣術や体術は、すべて異国のものなんです。だから、こっちの人には見切りづらかったんですよ」
言われて、俺は納得した。
灯は東洋人で、修行も母国で行ったはずである。ならば、修得した技術も母国で習得したもののはずだ。
少しだけ、レンズが灯と戦いたがる理由も分かった。俺も灯の異国の剣術を見てみたかったし、戦ってみたいと思った。
「……でも、今はもう戦えないもんな」
それを俺は残念に思った。
灯は、利き手の握力を失ってしまっているらしい。いくら達人であっても、握力を失ってしまえば剣を握ることはできない。俺の言葉に、灯は困ったように笑う。
「そうですね。全盛期のように戦うのは難しいですね。利き腕の握力を失ったことは、致命的でした……」
灯は、手を握ったり開いたりを繰り返す。動作は問題ないように思えたが、その握力は以前のものではないのだろう。
「ちょっと確かめさせてくれないか?」
俺は、灯に手を差し出した。握手を求めたのである。俺の手を握ってもらって、灯の握力を確かめるつもりだった。だが、灯は俺の手を握ることをためらった。
「あの……僕の手は荒れていて」
灯は、自分の手を隠す。俺に言わせれば、灯の手は優しい手だ。薬で荒れた手で、灯は何人も癒してきた。だから、隠す必要はないと思うのだ。
「灯の手は、薬のせいで荒れているんだろ。それは、そのぶん人を助けてきた証拠じゃないか」
俺は腕を取って、灯の掌を引っ張り出す。灯は全身が小柄だけあって、掌もそれに合わせて小さかった。まじまじと見ると、予想以上に灯の掌は酷い荒れ方をしている。豆はつぶれて硬くなり、皮膚が切れた後は癒着せずにそのままになっている。農民もかくやという手は、たしかに見れば見るほどに酷いものだった。
「ほら……じっくり見るようなものではないんです」
灯は、少し恥ずかしそうだった。
俺の手も荒れているが、それでも皮膚が荒れれば油を塗って手入れぐらいする。灯の手は、それさえもしていないようだった。まるで、貧しい農民のようである。今度、手を保護するためのクリームでも送るべきなのかもしれない。
灯は遠慮しがちに、俺の手を握る。
「思いっきり握りますよ」
そう宣言してから、灯は俺の掌を握る手に力を入れる。
だが、その握力は弱い。俺は、灯がわざとやっているのではないだろうかと疑った。しかし、灯の表情は真剣そのものだ。
灯の握力は、子供程度のものだった。人によっては、握られていると感じることもないほどかもしれない。これでは、剣を握って戦場で活躍することは難しいであろう。
「弱いな……」
俺の言葉に、灯は何も答えなかった。
ただ曖昧に笑うだけだ。
ここまで握力が弱ければ、武器を握ることができない。兵士としての灯は、死んだも同然だった。
「でも、灯様が戦場に行くことがなくなって私は嬉しいですよ」
食事の用意をしていたシュナは、そう語る。
両親を失った少女にとって、再び頼りになる人がいなくなるのは耐え切れないのかもしれない。そのため、シュナは灯が戦場に立てないことを嬉しいとまで言ったのだ。
「大丈夫。シュナは、も一人でもやっていけますよ」
灯はシュナを呼び寄せて、その頭を撫でる。シュナは、困ったような顔をした。きっと小さな子のように扱われたからだろう。
「薬の作り方、怪我の対処方法、疫病の見分け方……できるかぎりのことをシュナには教えたつもりです。だから、心配しないでください。あなたは、いつ一人前になっても大丈夫ですよ」
にこり、と灯は笑う。
その微笑は、優しい。
灯の微笑は、師としてシュナを見守ってきた者の微笑みだった。灯は、シュナが将来どのような未来を選んでも祝福する気でいるのだろう。自分の跡を継いでもいいし、独立してもいい。結婚し、家庭に入ることでさえ祝福するであろう。灯は、何が起ころうとシュナの味方だ。
一方で、シュナは不満げだった。
「そういう心配じゃないの。私は、一人になりたくないだけ」
父を戦争で失い。母を病気で失った少女は、頬を膨らませる。突然一人になってしまったシュナが感じた孤独感は、想像できないものであろう。二度とそれを味わいたくない、とシュナは思っているのだ。だが、灯はそう言う感情の機微には疎い。
「灯様は、そういうところ疎いから嫌いよ」
膨れるシュナに、灯はきょとんとする。
そして、彼ははっとした。
「そうですね。その前に、シュナのお婿さん探しをしないとですよね」
そういう意味ではない。
さすがの俺もため息をついた。どうして今までの話の流れで、シュナの婿探しという流れになったのか。たしかにシュナに婿をあてがってしまえば彼女が一人になる心配はなくなるが、そういう問題でもないだろう。
灯は、間違っている。
しかし、灯はその間違いに気が付かずにうきうきとシュナの方を見つめる。その視線は、どこかで見たような視線だった。シュナのドレス選びをしていた時の視線に、そっくりなのだ。
「シュナはダンスが上手だから、きっとお婿さんもすぐに見つかりますよ」
灯は皿をテーブルの上に置くと、貴婦人に対するような礼儀を持ってシュナの手を取った。うやうやしい手つきであった。
シュナはそんな灯の奇行に慣れっこになっているのか、されるがままだ。二人は見つめあうような格好になり、両手をつなぎ合わせる。灯とシュナは、そのまま踊りだした。
ふわり、ふわりと音楽もないのに楽しげに踊る二人。
身長が低い二人が躍るとまるで子供同士のペアに思われて、非常に微笑ましく思える。着ているものは二人とも粗末な服だが、裾だけは双方ともに長いせいもあってドレスみたいだと思った。けれども、灯とシュナのステップは見事なもので俺は思わず見惚れてしまった。
漆黒の髪の灯と銀色の髪のシュナ。
そんな二人がくるくると踊るさまは、まるで妖精が遊ぶ様子を盗み見ているようであった。舞踏会の本番では、シュナは神秘的な暗色のドレスを着る予定だ。彼女には大人っぽ過ぎるかとも思ったドレスだが、ここまでのダンスの名手ならばきっとあのドレスも着こなすことであろう。
「すごいな。俺はダンスが苦手だから……」
俺がそう呟くと、灯は無言でシュナの手を離した。シュナは心得たようにスカートを摘まんで一礼する。ダンスを終了させる、淑女の礼儀だ。二人のダンスは終わったのだ。拍手でもしようと思った俺だが、そんな俺の前に灯の手が差し出される。
「え?」
俺は、疑問符を浮かべた。
灯は、にこにこ笑っている。
「ダンスの練習をしましょうか、ルロ様」
俺の手を握ると、灯は俺を立たせる。それに驚いた俺は、思わず灯に全体重をかけてしまった。だが、灯はよろけることなく、俺を受け止める。
「俺、上手くは踊れないぞ」
慌てて、俺は灯に言う。シュナのような華麗なステップを踏むのは、無理なことを灯に白状する。しかし、灯は俺の手を離してくれない。
「だから、練習しましょう。僕が女性側をしますから」
灯は器用に女性側のステップを踏み、俺はつられるがままに男性側のステップを踏んだ。即興のダンスは、シュナの時と違ってまったく様にならない。俺は、何度も灯の足を踏んだ。灯は表情こそ変えなかったが、そのたびに俺は申し訳ない気持ちになった。
思えばダンスなど、滅多にやったことはなかった。母の館にいたころは貴族のたしなみとしてレッスンで何度か習ったのだが、それっきりになっていた。
俺は慣れない様子で、ステップを踏んだ。音楽も何もないダンスは、予想以上に難しい。よく灯とシュナは、こんななかでダンスを踊ったものだ。
焦りながら、つられながら、俺は灯とくるくると踊る。しかし、俺のステップはお世辞にも褒められるようなものではなかった。俺の脳裏に、母の館で雇われていたダンス教師の怒鳴り声が聞こえてきた。それぐらいに、酷いステップだったのだ
「落ち着いてください。ただ、相手に合わせればいいんですよ」
灯はそう言うが、俺にはそれが難しい。どう動けばいいのかが分からず、思わず相手の足を踏んでしまう。灯はそれに嫌な顔をしないで、俺の様子をじっと見つめる。こんな時にも関わらず、漆黒の瞳が綺麗だった。
「僕が引いたら、踏み込んで。それが基本です。ほら、やってみましょう」
灯の言葉に従い、俺はさざ波のように引いていった灯の足を追う。そして、一拍置いて俺は足を引いた。灯が、俺が引いた分を踏み込む。それを繰り返すことで、一定のリズムができる。心地よいリズムは、まるで眠気を誘うようなゆったりとしたリズムだ。
「これが基本ですよ。コレさえできればなんとかなります」
灯が、鼻歌を歌う。
その音楽は、俺も知っているものだった。たぶん、親世代から人気の曲なのだろう。長年誰かに愛されてきた曲は、複雑ではない優しい曲調だ。そのリズムに任せて、俺と灯は優しく揺れる。誰にでもできる基本的なステップが、俺にはある種の奇跡のように感じられていた。
「本番も……上手くできるかな」
俺は、小さく呟いた。
それだけが、不安だった。教師のような灯が相手だったからこそ、ここまで上手く踊ることができたのだ。本番は別の淑女と踊らなければならないからか、気が重くなる。
「できますよ、ルロ様なら」
灯は、ゆっくり俺から離れた。礼は取らなかった。灯は、淑女ではない。それに、さっきのダンスもレッスンでしかない。灯は教える側の人間だから、礼を取らないのだ。代わりに、灯は改めて俺を見る。
「ルロ様なら、大丈夫ですよ」
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