第16話

「今日、レンズがきた」


 灯の家に帰ってきた俺は、灯にそう伝えた。


シュナは近くの家の老人に薬を届けるために留守にしていたため、家には灯しかいなかった。灯は夕飯のスープをかき混ぜながらも、目を丸くして驚いた。


「レンズさんがですか。あの人……たしか南の猛獣を倒しに行くって言って旅立ったはずなんですけど、帰ってきたんですね」


 どうやら、レンズは武者修行をしていたらしい。知り合ったばかりだが、なんともレンズらしくて笑える話である。


「フリジアと仲が悪くて困ったよ。フリジアが特定の誰かと喧嘩するなんて、滅多にないことだと思ったのに」


 友人の知らない一面を見た気分だった、と灯に告げる。灯は、楽しそうに笑った。その姿は、子供の一日の報告を聞く親のようだなと思ってしまった。


「フリジアさんの心は広いですけど、レンズさんの行動はその上を行きますからね。私も昔は色々と悪戯されましたよ」


 懐かしそうに灯は語る。


 その表情に、俺は昼間にレンズやフリジアから聞いたことを思い出していた。


「そういえば、灯は昔は言葉遣いが荒かったらしいな。二人から聞いたぞ」


 灯を揶揄うつもりで、俺は話題を振った。他人に「このバカ」とか「この野郎」とか言う灯は、想像するだけで面白い。


 鍋をかき混ぜていた灯はお玉を置いて、俺に詰め寄った。


 身長の低い灯は、俺の胸のところに頭がくる。灯の身長は、シュナとそれほど変わらないぐらいだ。そんな彼が不用意に近づくと、俺の心臓が高鳴った。


灯は医者だというのに、どうしてだろうか。普通、医者が近づけば安心して心は休まるはずだ。少し考えて、灯の容姿が女と見紛うばかりだからなのだろうと結論づけた。美しいものが近くにあれば、ドキドキぐらいはする。


「昔のこと……聞いたんですね?」


 灯の言葉に、俺は頷いた。


 灯は困った顔をしていて、俺はいたずらっ子になった気分だった。


「聞いた。昔は、ひどい言葉遣いだったらしいな」


 俺の話を聞いた灯は、少しばかり顔を赤くする。本当に恥ずかしいらしくて、俺の顔も見ようとはしない。おかげで、俺が赤面していることも灯に見られることもなかったが。


「……お恥ずかしいものです。昔は、レンズさんの言うことを全部信じていましたからね。この国に流れ着いたばかりで、言葉が分からなかったというのもありましたが」


 流れ着いた、という言葉に俺は首をかしげる。


 その単語は、灯とは結び付かないものだった。


「流れ着いたって……灯は勉強とかのためにこの国に来たんじゃないのか?」


 この国にいるほとんどの東洋人は、文化や学問を学ぶためにやってきた者たちである。灯は医者だから、医療を学ぶためにこの国やってきたものだと思っていた。そして、父と出会って住み着いたものかと。


だが、違うらしい。


しかし、思い返せば勉強するためにきたのに最初は言葉が喋れなかった、というのも妙な話だったのかもしれない。普通だったら、言語ぐらいは元凶してから外国に来るものだ。


灯は、懐かしそうに語る。


「故郷で戦に参加していた私は、崖から落ちて溺れたのです」


 灯の発言に、俺は驚いた。


 灯が言うに、当時の灯が仕えていた主はすでに亡くなっていた。勝ち目のない戦いだったという。それでも灯は――いいや、灯と仲間たちは最後まで戦った。しかし、崖まで追い詰められて、灯はそこから落ちてしまったのだという。仲間の何人かも崖から落ちたというが、この国に流れ着くことができたのは灯一人だけであった。


「そして、気が付いたら……この国に……前領主様が戦を行っていた土地に流れ着きました。そこで、前当主様に出会ったのです」


 灯が言うに父と出会ったときには、父はすでに大火傷を負っていたらしい。その火傷の手当てをしているところで、灯は父の仲間たちと合流。灯は父の元で言葉を学び、仕えることになったという。


 灯は、父の恩人であった。


 そして、父は灯に居場所を与えた人でもあった。二人の関係性と絆は、普通の愛人関係とは少しばかり違うように感じられた。


「灯は、自分の国に帰りたいと思ったことはないのか?」


 王都に行けば、少ないが東洋人がいる。そして、彼らを乗せる船だってある。灯は、帰ろうと強く願えばいつでも祖国に帰れたのだ。だが、俺の言葉に灯は首を振る。


「私は、祖国でお仕えするべき人をすでに亡くしてしまっています。私が、あの国にいる意味はもうないんです」


 灯は、悲しげに笑った。


 その笑みは儚く、美しいものだった。けれども、同時に悲しみも伝えてくる笑顔だ。自分の命よりも大切なものを亡くした者の顔であった。


「……父上が死んだときも、悲しかったんだよな」


 俺は、くだらないことを聞いてしまった。父上は、灯の愛人で主だ。大切な人でなかったはずがない。灯は、怒らなかった。


「はい。守らなければならない方を亡くしたのは、二度目でしたから。それでも前当主様から託されたものもありましたし、絶望はしませんでしたよ」


 灯は、俺を見つめる。


 その目には、もう悲しみはなかった。


「それより、ルロ様。お仕事は順調ですか?」


 灯の問いかけに、俺は言葉に詰まった。


 なにせやることなすことが全て初めてで、順調に行えているかどうかも分からなかったからだ。そんな俺の心境を悟ったのか、灯は微笑む。


「今は不安でしょうか、大丈夫ですよ」


 灯は、そういうが俺は信じることができない。疑心暗鬼になっている俺に、灯は優しく微笑みかけた。だが、俺は頬を膨らませる。


「何をもって大丈夫だっていうんだよ」


 俺には、灯の言葉が単なる気休めにしか聞こえなかった。灯は、俺の仕事っぷりを見ていないからそんなことが言えるのだと思った。


「だって、レンズが仲間になったからです」


 灯は、そう言い切った。


俺は、昼間のレンズの様子を思い出す。いかにも脳筋の彼が、事務系の仕事で役に立つとは思えなかった。本人も苦手だと言っていた。


だが、灯はレンズに信頼を置いているようだった。灯はレンズに雑な言葉を教えられて遊ばれていたというのに、フリジアのように嫌ってはいないようである。灯の心がフリジア以上に広いのか、それともレンズの有能なところを知っているのか。どちらなのかは、分からなかった。


「レンズは、ああ見えて出来る男ですからね。そこは信用していいと思います。信用できないところもいっぱいありますけど」


 灯は、ちょっと困ったように言う。


 レンズは、灯にとって困った弟か兄のようなものなのかもしれない。悪友という関係なのだろうか。レンズも灯に一番に挨拶しようとしていたし、案外二人にしか分からない友情があるのかもしれない。俺とフリジアのように。


「たぶん、フリジアさんも同じことを思っていると思っているんですよ」


 灯は、そんなことを言う。


 フリジアはレンズを毛嫌いしており、能力を評価しているようには見えなかった。いや、能力以前に性格が悪いとしか言っていなかったような気がする。


 そう考えながら、俺はレンズに言われたことを思い出していた。


「なぁ……灯。俺は、父に愛されていなかったのかな」


 ぼそり、とそんな言葉が口をついた。


 灯は、鋭い目つきになる。灯は、今まで見せたことがないような怒りに身を任せていた。それぐらいに、恐ろしい顔だった。その怒りの顔に、俺は少しばかり恐怖を覚える。灯は俺よりも小柄で一見すると弱そうだったから、恐怖を感じることは不思議だった。


「それ、誰かが言いましたか?」


 低い声で、灯が尋ねる。


 俺は、灯から少しだけ離れようとする。だが、灯はぎゅっと俺の腕を掴んで離さない。言うまで離さない、と言っているかのようだった。逃げることもできない俺は、観念して口を開く。


「レンズが……」


 全部が言い終る前に、灯が俺を抱きしめた。


 強い力の抱擁に、俺の息が止まる。


 考えてみれば誰かに抱きしめられるなど、母上にだってされたこともなかった。母上はいつもベッドの上にいる人だったから、人を抱きしめることができなかったのだ。そして、こんなに強く感情がこもった抱擁も受けたことはなかった。


「レンズさんは、馬鹿ですっ!」


 灯は、叫ぶ。


 俺は、そんな灯の言葉を茫然としながら聞いていた。灯は、怒りに震えていた。何を怒っているのだろう、と俺は思った。彼が怒ることなど一つもなかったのに。


「そんな言葉でしか、あなたの怒りを呼び起こすことができなかったんですっ!!」


 灯の手の力が、緩むことはない。


 苦しい、と思った。灯の腕の力は強すぎて、息もできないほどだった。俺は、恐る恐る灯の顔を見つめた。灯は、悲しそうな顔をしていた。今にも泣きそうな顔だ。灯のこんな顔は、初めてみた。


「前当主様は……あなたのお父様は、あなたのことを案じていました」


 嘘だ、と思った。


 父が本当に俺の身を案じていたのならば、俺の顔ぐらいは見に来たはずだ。遺言の一つでも残していてくれたはずだ。「愛している」の一言だけでも、残してくれていたはずだ。


 俺は、力づくで灯の胸を押し返そうとした。


 だが、その前に俺は自分が泣いていることに気がついた。


「あれ……俺、泣いて」


 父に愛されていないことなど、当たり前なのだと思っていた。父と母は政略結婚だった故に、愛はなかった。その間に生まれた俺も後継者以上の意味などないと思っていた。それで、いいと思っていた。


 だから、自分が泣くとは思ってはいなかった。


 なのに、俺は泣いてしまっている。


「……おかしいな、泣くなんて。……父親なんて、会ったこともないのに。愛されてないなんて、当たり前のことなのに――」


「ルロ様!!」


 灯が、力いっぱい叫ぶ。


 今まで聞いたことないぐらいの大声だった。


「あなたは、愛されていました。だから、前当主様は僕を残したんです」


 灯が、俺から離れる。


 そして、床にちょこんと座った。初めて見る座り方だった。膝を折った座り方は、きっと灯の国の正式な礼の取り方なのだろう。


「僕は、ルロ様の全てになれと命令されました」


「すべて……」


 俺は、おもむろに灯の言葉を繰り返す。すべて、というのはどのようなことなのかよく分からなかった。けれども、その言葉は何故か俺に温かいものをもたらした。意味すら、分からなかったのに。


「すべて、ってどういう意味なんだ?」


 俺は、灯に尋ねた。


 正直な話、灯の返答は何も期待していなかった。この言葉が、灯の嘘や偽りでも構わなかった。それでも、理由だけは知りたいと思った。


 灯は、真剣な声色で言う。


「はい。あなたの刃であり、師であり、親となり、兄となり、主治医となるようにと……あなたのお父様から言い渡されていました」


 だから、どうぞご自由にお使いください。


 灯は、深々と俺に頭を下げた。


「灯……おまえは」


 俺は、彼に声をかける。


 灯は、頭を下げたままだった。


「おまえが、父上の遺産なのか?」


 俺は、灯にそう尋ねた。


 灯は「はい」と答えた。俺は、灯を再び見た。灯は頭を下げて、俺のことを見ようとはしなかった。


「灯……。お前は、俺が死ねと言ったら死ぬのか?」


 灯に死んでほしい、などとは一回も考えたことはなかった。


 けれども、純粋に考えてしまったのだ。灯は、俺のために死ねるのかと。灯は、ようやく顔を上げた。灯は、何事もないような顔で答えた。


「はい」

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