第3話
「あの人は、きっと愛人を作っているのよ」
母は、ことあるごとに父への不満を語っていた。そして、自分の元に父が寄り付かないのは愛人がいるからだと言っていた。
父が色々な戦争に参加している噂は、俺たちにも届いていた。戦が忙しいと知っていたのだから、それが理由で寄り付かないと考えることもできたはずなのに。それでも、母は愛人がいるから父は帰ってこないと俺に呪いをかけ続けた。
俺は、父には負けたくないと思った。
母がこんなふうに呪いをかけ続ける男に、負けたくはないと俺は思ったのだ。
額に、冷たい布が当てられる。
そよぐ風が涼しくって、呼吸がしやすい。とても、心地が良い環境だ。全てのことから、解放されたような気分だった。呪いを吐く母からも、戦争ばかりに行っていた父からも、その全てが俺の目の前から消え去ったかのようだった。
俺は、静かに目を開ける。
今まで見てみていた夢がウソみたいに、綺麗に晴れ渡った空だった。
空の次に俺の視界に入ったのは、深くフードを被った人物だった。ゆったりとした服を着ており、体形はよく分からない。ただ俺の額に冷やした布を当てる指は、細くて頼りない印象を抱かせた。その指は、ひどく荒れている。母のような貴族階級の指ではなく、労働者の指であった。一体、どんな職業の人間なのだろうかと俺は考えた。
「目が覚めましたか?」
フードの人物は、そう尋ねた。
涼やかな声だった。
「あ……ああ」
俺は、そう答える。
フードの人物が誰だか予想が付かなかったので、俺の返答はかなり言いよどんだものになった。だが、それでもフードの人物は満足そうだった。
「……ルロ様、よかった」
フリジアの安心したような声が聞こえた。
視線を動かすと、そこにはフリジアの顔があった。彼は、安心したような顔をしている。乗っていたはずの馬は道の端に繋がれており、その馬の面倒を見ているのは見知らぬ少女だった。銀色の髪を長く伸ばした少女は、俺の様子に気が付いてこちらに寄ってくる。
「灯様、気が付いたんですか?」
少女は、フードを被った人物にそう呼びかける。
灯と呼ばれたフードを被った人物は、優しげに俺の額をなでた。その撫で方は、子供に対するもののように優しいものだった。
「うん、頭を打ったわけじゃないから良かったです。熱中症ですね。この土地の気候になれていないのに、厚着なんてするからですよ」
穏やかな声に、俺は自分の胸元に手を当てる。しっかりと着込んだはずの服装は、胸元が開けられていた。どうやら、灯があけたらしい。
「シュナ、ちょっと水をくんできてください」
勝気そうな顔をしたシュナという少女は、素直にうなずく。シュナは、灯のことを慕っているらしい。様をつけて呼んでいることから、彼らは子弟関係なのだろうかと俺はぼんやりと考えた。
シュナが流れる川に向かうと、風が吹いた。
涼しい風だ。
その風が、灯がかぶっていたフードを落とした。
そこから現れたのは、漆黒の長い髪と黒曜石の輝きの瞳だ。それらは、海を越えたところに住まう東洋人の特徴だった。職人が作った人形のように整った顔立ちはどこか幼さがあり、まるで何かに甘えているような印象を受けた。
「灯さん、ルロ様はもう大丈夫ですか?」
フリジアが、灯に尋ねる。
「水を飲ませて、もう少し休ませたほうがいいですよ」
灯は、そう答えた。
シュナがくんできた水を飲ませてもらいながら、俺はフリジアと灯の様子を見ていた。灯は落ち着いていたが、俺たちとそう変わらない年齢に思えた。言動から察するに医者らしい。それも弟子まで従えているのならば、かなり優秀なのだろう。
「ところで、この方は誰ですか?」
灯は俺の方を見て、首をかしげる。
「この方は、新しい領主のルロ様です」
フリジアの言葉に、灯は眼を見開いた。
そして、灯は俺の顔をじっと見つめた。灯に見つめられた俺は、少し恥ずかしくなる。灯は滅多にないぐらいの美形であったし、そもそも人にまじまじと見つめられる経験があまりなかったのだ。
「ああ……当主様の面影がありますね。失礼」
灯は、膝をついた。
俺に礼をとったのだ。突然の光景に俺は驚いたが、灯は落ち着いた様子でシュナにも礼を取らせる。それが、とても自然に思われて俺は言葉もでなかった。だが、同時にこれからはこのように礼を取られることも多くなると思い、驚きを顔に出すわけにはいかないとも思った。
「あなたのお父様に仕えていた、灯と申します。こちらは、弟子のシュナ。今後とも、よろしくお願いいたします」
俺は、どうするべきか分からなかった。
そんな俺の心情を見抜いてか、何も言わないうちに灯は立ち上がる。シュナも、それに従った。
うつむいたシュナの表情が、ちらりと見えた。その表情は、俺が領主であるということに納得しているようには思えなかった。どうやら、シュナには歓迎されていないらしい。灯はそれを見越したかのように、保護者のようにニコニコと笑っていた。
「僕たちは診療所にいますから、いつでも来てくださいね」
灯はそう言って、微笑んだ。
可憐な笑顔だった。
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