第十四話 いい母親の顔

 ま、まさか。いやまさか。

 冷や汗がダラダラ流れる。血の気が引いていく。

 アカゲの心の中は、どんよりと激しく渦巻いていた。


「つ、ツキ」


 彼には、想定外の事態にめっぽう弱い癖がある。

 何が何だか分からないフリをして、頭の中に薄らと浮かぶのは、想像したくない光景。


「中は、どうなってるんだ」


 いや、信じ難い。まさかそんなことが。

 しかし、アカゲの鼻でも感じ取れる生臭い鉄の香りは、まだ微かに見えている希望の光には、決してそぐわないモノであった。


「どう、なってる……?ツキ。……教えてくれ」


 アカゲの声に応えて、部屋の中からツキが言った。


「───死んでるよ。二人とも」


「……あ……そう、すか───」


 項垂れるでも絶叫するでもなく、ただ頭をそっと下げて、目を閉じた。

 えっと……ああ……。そうか。オレが……あの二人に……二人は……オレは……。


「……」


 コレは、と中でサガミの声がする。

 ザリザリと室内をゆっくり歩く音が聞こえる。

 しばらくして、また。ツキが中から呼びかけた。


「アカゲ。───炭化人間の仕業だ」


 その声にハッとするアカゲ。


「どうして分かるんだ」


「……二人とも、鼻を中心に顔が食い破られておる。炭化人間が脳を啜り出す時の特徴じゃよ」


 サガミは答えた。


「……その特徴を誰かが真似して、炭化人間のフリをしていたりするのは……」


「それは無理。顔の骨ごと食いちぎれるのは、炭化人間の顎だけだ。……つかお前、何をそんなに疑ってんの」


 ツキは尋ねる。

 アカゲは思い出していた。少女の言葉を。

 出立の前、約束したのだ。そう……。

 ───知ってる人の声じゃなければ……


「(開けてはいけない……)」


「何か言った?」


「……何でも、ないです」


 アカゲの知らない何かが、それも恐ろしい何かが、ひっそりと蠢いているのかもしれない……。

 最初に出会った“不思議な様子の炭化人間”を思い出す。

 ぎこちない感じだが、アイツは確かに喋っていた。

 そしてツキの言う通り……それ以降炭化人間が喋るところを見ていない。

『ない。マジ、無理。コイツらは喋らない。喋ったように聞こえたのは、ただの呻き声───』

 ……蹴破られたでも破壊されたでもなく綺麗な扉を見て、再度確信する。

 もしこれが人間の策略でないとすると、答えは一つしかない。


 ───“ヒトの模倣”が可能な、“知能”を持った炭化人間が存在する。


 喉元過ぎていつの間にか平常心を取り戻したアカゲは、ツキに呼びかける。

 ツキは隠れ家から出てきてアカゲを見た。


「何」


 アカゲは真剣な表情をして言う。


「ヒトに匹敵するくらい頭の良い、“ヤバい炭化人間”がいるかもしれない」


「何言ってんだ?」


 ほう、とサガミも顔を出し、その心は、と促す。

 アカゲは自身の体験と姉妹の言葉を挙げて、事態の説明をした。

 アカゲの説明を聞き、サガミは何かに気付いたように口を開く。


「……昔から、そのような“惑わす者”の話は存在する。子どもを寝かしつける恐いウワサ程度じゃったがな。しかしそれが事実じゃとするのなら、ワシでも恐ろしい」


「まあ確かに。見た目とかも人間のフリできちゃったりしたら、ちょっとキモいな」


「っていうか……全員元は人間なワケですよね。そしたら、それはもう……」

「───人間なのでは?」


 アカゲは考える。まだ何かが引っかかっているような気がした。

 コレは……まさか。


「おい、アカゲ」


 不意にツキが呼ぶ。アカゲが顔を上げる。


「アレは……」


 ……薄汚れたロングのワンピースを着て、長い髪の女性が、向こうに立っている。

 右手には何かが入った薄い金属のバケツを持って、静かに立っている。

 ボサついた黒髪で、歳は20代後半。


 こちらを警戒しているのか、立ったまま遠くからじっと見ている……。


「もしかして、お前が母親?」


 向こうまで届いたツキの問いかけにビックリして、女性は返す。


「あなた達、誰なの……一体何の用……!……あの子達に、何かしてないでしょうね……!」


 まだ若々しい声で答えた。どうやら母親で間違いないようだ。

 参ったな……とアカゲはツキの影で頭を抱える。

 この事態、どうするべきか。

 年長が、鉄のメットを脱いで前に出る。


「───我々は下界のパトロールをしておる団体じゃ。あなた方の住まいは、元々は我々が設置した仮拠点でな。久しぶりに立ち寄ってみたのじゃが……」


「……」


 事を丸く収めるため、少し嘘混じりに説明するサガミ。

 一体どうオブラートに包んで説明してくれるのだろうか。

 しかしそこに横からツキが言い放つ!


「───お前の娘、二人とも死んでるよ」


 瞬時にその場の空気がシンと静まりかえって一同驚愕した。

 合わせてツキを見るアカゲとサガミ。

 動揺と困惑の母親、理解するのに数秒かかり、思わず駆け寄ってきた!

 足取りはおぼつかない、不健康そうな細い脚。

 ツキの真ん前まで来た。

 だいぶ息を切らしている。


「え……え、今……なんて……?」


「娘は死んだ。お前が留守にしてる間、炭化人間に殺された」


「!」


 母親はガタンとバケツを落とした。

 玄関に走り寄り中を確かめようとする!

 サガミが止めに入った。母親の肩を掴んでいる。


「まずは落ち着きなさい」


「離して!……離してよッ!!」


 バッとサガミの手を振り払う!

 見ない方がいい、という呼びかけも無視して、母親は部屋へ入ってしまった。


 ……絶句する声が聞こえた気がする。

 しばらくして、暗い部屋の中から漏れ出る嗚咽の声。

 アカゲは壁に背をつけ、それを外から聞いていた。静かに目を瞑る。


 サガミとツキは、中でうずくまる母親をそっと部屋の外へ連れ出す。

 肩を支えられながら、う……う……と深く呻く母親。

 泣いている……いや。

 何か様子が……?


 う……うぅ……。

 うう……う……ふ……うふふ……うふふあははは……。


 あははははは!!アハハハハハハハ!!


 「!」


 突如として狂ったように笑い転げる母親、豹変した彼女を三人は驚いて見る。

 大丈夫かと声をかけるサガミ。

 何だか分からず、ただ息を呑むアカゲ。

 母親はなおも笑い続ける。


「……あははははははは!やっと!穢らわしい子が!いなくなった!!うふふあははははははは!!やったわ!アハハ!!」


 一体どういうことだ?

 サガミ、アカゲは言葉を失っていた。

 そっと荷物を下ろすツキ。


「汚い子!穢らわしい子!忌々しい!!あはははは!!ざまあみろ!!」

「いなくなって清々した!!死ね!死んじまえ!!」


 凄い剣幕で罵声を浴びせ続ける母親に、ツキはゆっくり近づいた。


「おい」


 と彼女に呼びかける。


「アハハハ……ハ……?」


 振り向いた母親の右頬に、勢いよく振り放ったツキの左の拳が抉るようにヒットした───!!

 ドゴッ!!


 悲鳴を上げる間も無くぶっ飛ばされて、ズザザと地を擦る母親の身体。

 ツキはそのまま歩み寄り、どかっと馬乗りになった。


「ごめん、手が滑って」


 仰向けで、右頬は薄赤く腫れ、ボサボサの髪を左右に揺らして抵抗する母親。

 静かに深呼吸するツキ。左の拳を用意する。

 頭を左右に振る母親!


「やめて!やめてよッ!!」


「また滑る」


 ガン───!!一発。


「いだい!!」


「滑った」


 泣き顔になる母親。やめてやめてと懇願する。

 躊躇わず拳を振るうツキ。


 ガン!!二発目。

 ガン!!三発目。


 ガン!!ガン!!ガン!!ガン!!


 母親の顔はツキの殴りでボコボコになる。

 サガミは流石に止めようと思ったのか、駆け寄ろうとしたが。

 アカゲに肩をポンポンと叩かれ、そっと……静観することを決めた。


「うっ……ぐ……ゆるじでぇ!!死んじゃう!!いだい!!死んじゃう!!」


「───ごめんね、死ねば止まるよ」


「やだあ!!ずみまぜんでじたあぁ!!ゆるじでくだざいいぃ……!!」


 泣き腫らした目とボコボコの顔で必死に訴えている。

 はあ、とため息をついてツキは母親の髪をガシッと掴んだ。


「死にたくない?」


「死にだぐないぃ……!!死にだぐない、です…………」


「───2人は、今のお前と同じ恐怖を味わって死んだ」


「……!!」


 母親は、ハッとした表情になる。

 ……絶句する。

 なあお前、と母親に呼びかけるツキ。


「言葉の通じないヤツに、一方的に殺される。そんな体験をしたんだ」

「死んだこともないヤツが、死んだヤツを悪く言うなよ。悲しいだろ」


「……!」


 母親は、さっきまでとは違う涙を、じんわりと流していた……。

 ツキはその様子を見ると、ゆっくり立ち上がって解放した。

 母親は肘をついて起き上がり、そのまま四つん這いで部屋を覗く。

 

 声にならない後悔を、必死に絞り出しながら、うずくまっている。

 やがて大粒の涙は溢れ出し、彼女はいつの間にか大声で泣いていた。

 ───ミキ、ヒカリ。どうやら死んだ二人の名前みたいだ。

 ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し名前を呼びながら、抱えきれない懺悔を……。

 ツキは何も言わず……ただ少しだけ、安心したように表情を緩めた。


 ……ご老体、とアカゲが静かに呼びかける。

 アカゲの意図をすぐに察したサガミは、リュックを下ろしてゴソゴソと漁り始めた……。

 母親の様子をしばらく見ていたツキも寄ってきて、それに加わる。

 事情を把握したツキ。そのうち母親の方へ歩いて行った……。


────────────────────


 一時間後……。

 隠れ家の横。

 小さく二つ建ったお墓の前で、四人はゆっくり目を開けた。

 痣だらけの顔をこちらに向け、俯きながら話す母親。


「……さっき……本当に、すみませんでした」


「気にすんな」


「……」


 静かに頷く。

 彼女の名はアサノという。

 蓋を開けてみれば、慎ましく優しい母親であった。

 彼女を取り巻くどうしようもない環境が、心を蝕み続け、ついに今日……決壊してしまった。


 ご老体、とアカゲは声をかけた。


「なんじゃ」


「果たしてオレに、人の心はあるんでしょうか」


「ほう?」


 唐突な質問じゃな、と言わんばかりにサガミは少し頭を捻る。鉄のメットを抱えながら言った。


「───ワシは仲間の死を数え切れん程経験した。恐らくツキ殿も、例外ではないじゃろうな」

「……そんなワシは今、死をごく当たり前のモノだと感じておる」


「当たり前のモノ」


「生者である限り、いずれ死は平等に訪れる。じゃから、もう何も感じない。新しく出会う者がいれば、次の瞬間にはその死に顔を嫌でも想像してしまう……」

「冬崎よ。───お主は、適応能力が極めて高いんじゃろうな。だからすぐ立ち直れる。水に流せる」


「まあ、確かに」


「それを薄情だと感じて心配しておるのじゃろうが。ワシはな、そのぐらいで生きていくのがちょうどよいと思うぞ」


 ふむ、とアカゲは考え込んだ。


「人の心を保つのに、一番の理想系とも言える。───自信を持てい、冬崎」


「わかりました」


 ツキはゆっくり母親の背中をさすっていた。

 どんな気持ちなのだろうか。

 ……出発の支度が整ったサガミが腰を上げる。


「ワシはこれより帰投する。イノシシ型の炭化生物についての報告に参らねばいかん。彼女の護衛も兼ねてな」


「───これから……私、は……」


 アサノが戸惑うように言った。


「本部までワシが送り届けよう。数日歩くが、大丈夫ですかな」


 ゆっくり頷く。


「しっかり護ってあげてくださいよ」


 アカゲが言った。


「甘く見るでないぞ。先ほどはツキ殿の影に霞んでしまったがな、ワシそこそこ強いんじゃ」


 ゴン、と金属板の鎧に覆われた胸を叩いて見せるサガミ。

 そうじゃ、と何かを思い出し、分厚いグローブでポケットをゴソゴソと漁った。

 出てきたのはノートの切れ端が折り畳まれたもの。


「コレを」


 そう言ってツキに差し出した。

 受け取ったツキはパタパタと開いていく。


「地図か」


 中に描かれていたのは何かの地図。

 サガミが描いたものだろう。


「下界連合本部までの道のりです。今はここでお別れですが、何かあればお立ち寄りくだされ」


「ああ、あそこか。デカいダムみたいな要塞」

「喉が渇いたら行くかもね」


「ホホホ、お待ちしておりますよ」


 ツキはベルトポーチの蓋をパチっと開いて、そこに再度折り畳んで仕舞い込んだ。


「───冬崎よ」


 サガミに呼ばれ、なんでしょうと返すアカゲ。


「ツキ殿の、支えになってあげなさい」


 二人は驚いた。


「え、オレが……すか?」


「……こいつが?」


 怪訝そうな顔をするツキ。

 サガミは、うむ、と深く頷いた。


「記憶を取り戻すというお主の目的には、ツキ殿のお力が欠かせんじゃろう」

「───きっと、逆もまた然りじゃ。ワシには分かる」


「な、なるほど……」


「お主には、入門試験を課したな」


「はい」


「正直、お主が冤罪だとかいう話をマトモに信じる気はない。冬崎アカゲの命なんぞ、ワシにはどうでもいい。怪しげな男をわざわざ救う義務は無いからのう」

「───じゃから、お主が隠れ家から飛び出して勝手な行動をしようが、ワシは何も咎めんかった」


「……」


「だが、今は違う。ツキ殿にはお主が必要じゃ」

「ワシは冷酷な人間じゃが、お主はどこか暖かい。……ツキ殿には、その暖かさが視えておるのでしょうな」


「……ご老体は、冷酷な人間なんかじゃありませんよ」

「炭化人間に襲われた時も、デカいイノシシが出た時も、アンタはオレを助けてくれました。ツキがどうとか、関係無しにです」


「ホホホ、そんなモノは───年寄りの、ただの気まぐれじゃよ」


「ただの気まぐれだろうが、オレは感謝してます」

「どうも、ありがとうございました」


「うむ」


 遠くに見える空が、オレンジ色を差し始める。日暮れは来ていた。


 では、と鉄のメットを深く被ったサガミ。金属のバケツを持つアサノ。

 よく見ると、生活用品や食料などがバケツには雑に詰まっていた。

 ……そろそろ彼らは行くようだ。帰るべき場所へ。


 ───そんな時、アサノがツキに振り向く。

 頬にはまだ痛々しい痣が無数に残っているが。

 彼女は口を開いた。


「……ツキさん」


「?」


「───その……。ありがとう、ございました」


「……」


 優しい顔で微笑むアサノ。

 少し照れるツキ。


「あんた今、いい母親の顔してる」


 ツキの言葉にアサノは感極まったような眼差しで、ゆっくり頷いた。


「じゃあな、バイバイ」


 左手を振って別れを告げるツキ。

 アカゲもその横に立ち、胸の前で手を振っていた。少しにこやかに。

 ……サガミとアサノは振り返る。


「死ぬでないぞ、冬崎アカゲ」


「ツキさん、お元気で」


 彼らは歩いて行き、やがて瓦礫の影に隠れて、見えなくなった───。

 強く西日が差し込む。近く夜の訪れを告げていた。


 アカゲは手で目元に影を作りながら、夕日を眺める。

 ツキはその横に立っていた。デカい肉の荷物を肩から下げている。

 ふとツキが言う。


「なあアカゲ」


「なんすか」


「何でアサノは、途中であんなになったんだ?」


 頭を抱えるアカゲ。


「自分で殴っておいて分かってねーのかよ……」


「うん」


 まあ、とアカゲは言った。


「大体見当つくけど、アンマリ深く考えなくていいですよ」


「ふうん」


 陽は赤く照らし眩しい。

 さてと、とツキは肩の荷物を背負い直して後ろを向いた。

 アカゲはツキに合わせるように影を向き、あくびをした。

 オレンジ色の光を背に立つ二人。二人の影はびよんと長く伸びている。

 アカゲが横を見て言った。


「オレ達は、これからどうします?」


 そうだな、とツキは悩んだ。そのうち顔を上げて言う。


「───とりあえず、帰るか」


「ですよね」


 帰り道。次第に辺りは、夜に染まっていく。

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