《4》浮かない

 夢を見た。多分、大学時代の夢。

 舞台は研究室で、室内には懐かしい顔ぶれが並んでいた。先輩、後輩、顔馴染みの先生……学年も学部も皆まちまちで、大学で出会った人たちという以外の共通項がなかった。


 川島の姿もあった。夢の全体を俯瞰するように見下ろした先で、過去の私は、まるで私とは別人じみた顔で皆に微笑みかけている。

 不自然なほどの笑みを湛える私へ、川島が笑い返している。口元を緩めて薄く笑うその顔には、確かに見覚えがあった。


 川島は、県内有数の大企業の社長子息だ。育ちが良い上に顔立ちも整っている、とにかく周囲の目を惹きやすい御曹司。

 ただ、すさまじいまでにひねくれていた。

 恋人ができても長続きしない、愛想が良いのか悪いのか分からない、やる気がなさそう。そういう、傍目にも分かる程度の印象しか抱いていなかった。少なくとも、あの頃は。


あまみや先輩、でしたっけ』

『あ、……うん』


 ……あの頃の私は、他人に対して無防備が過ぎた。

 自分で友人を選ぶことも探すこともできない、精神的に豊かとは言いがたい幼少時代を過ごした反動も、きっと影響していた。

 元来間違えられやすい父方のこの名字を、川島に呼び間違えられたあのときも、私は笑うばかりで訂正をしなかった。


 なにか話し続ける川島の顔を、夢の私がそっと覗き込んだところで目が覚めた。


 夢の中の川島はのっぺらぼうだった。目覚まし時計がけたたましく鳴り響く中で、ぼんやりとそんなことを思う。

 見覚えのない天井が、鍵の受け渡しが済んだばかりの新居のアパートのそれだと思い至ったのは、その数秒後だった。



     *



 宇良家を訪問した翌日、単身用アパートの契約を済ませた。

 その後、出立の前にあらかじめまとめておいた段ボール箱一式を着払いで送ってほしいと、先日まで世話になっていた父の弟――北海道に住む叔父へ連絡を入れた。

 荷物は海を渡り、山を越え、三日後の午後に届いた。家具家電つきの物件に住むのはこんなにも気楽なのかと、この齢になって初めて知った。ほぼ身ひとつで引越ができる。


 せいぜい片手で足りてしまう数の段ボール箱が、私の荷物のすべてだ。

 今回の引越に合わせ、多くの荷物を処分した。荷解きが終わってさらに三日が過ぎ、ようやく新居での暮らしが心身に馴染み始めてきたその矢先、川島の事務所――ただのマンションの一室だから、そう呼んでいいのかいまだに悩むが――に呼び出された。


 アルバイトしませんか、と誘われたのだ。


『先輩は頭の回転が早いですし、知識と閃きをお借りしたくて』


 ……白々しいにもほどがある。

 知らない番号からの電話に平然と応じた私が馬鹿だった。当然のようにかかってきたそれを、少しは警戒すべきだった。

 断ろうとしたが駄目だった。仕事ないんでしょ、と見透かしたように言われ、言葉に詰まってしまったのだ。一度でも詰まればもう負けだ。口でこの男に勝てたためしなどない。


 北国に戻る気が最初からないと――今回の帰省はそういうものだとすでに知られている。加えて、急いで仕事を探しているわけではないことも読まれている。

 つくづく、嫌になる。






 指定されたマンションの一室に到着し、インターホンのチャイムを雑に押す。

 すると、間を置かずに鍵の開く音がした。勢いに任せてドアを引いてやり……しかし。


「お、来客か……って、こりゃまた見覚えのあるお嬢さんだなァおい」


 川島が出てくるものと思い込んでいた私は、耳慣れない男性の声が聞こえてきたと同時、露骨に固まった。

 眼前にはスーツ姿の、言ってはなんだが小太りな男性がひとり。苛立った素振りでドアを引いてしまった手前、私は二の句が継げなくなる。あ、と零したきり動かなくなった私を眺める彼の顔には、相手の言葉通り見覚えがあった。


「あ、す、すみません、あの……」

「いやいや。こちらこそ先日は悪かったね、あんな失礼な態度取っちゃってさァ」


 上擦った声をあげながら深く頭を下げると、低い声とともに咳き込むような音が聞こえてきた。一拍置いてから、それが相手の笑い声だと思い至る。

 テレビ局の連中に絡まれた日、川島と一緒にいた男性だ。確か田住といったか。喫煙者と思しき嗄れた笑い声――北海道の叔父も煙草たばこを吸う人で、似た笑い方をしていた――を聞きながら、あのとき川島が教えてくれた名が脳裏に思い浮かぶ。

 玄関先で立ち尽くしていると、やっとのことで川島の声が聞こえてきた。


「ちょっと田住さん、勝手に出ないでくださいよ……人んちでなにやってんですか」

「ハッ、お前が遅いから出てやったんだろ」

「そういうのいいですから、もう……」


 男性の背後にひょっこり現れた川島は、参ったように頭を掻きながらぶつぶつ文句を零している。その頭には、完全に寝起きとしか思えない派手な寝癖がついていた。

 皺にならなそうな服をあえて選んでいると思しき格好は、空港で顔を合わせたときと変わらなかった。見ているこちらが切なくなってくるほどだらしない。客人――無論、私ではなく田住氏のことだ――がいるにもかかわらず、なんてしょうもない。

 頬を引きつらせた私を一瞥した田住氏は、腕時計を眺めながら再び高らかに笑った。


「ああ、俺ァもう帰るぞ。さっきの件、くれぐれも扱いには気をつけてくれよ」

「はい。というか、田住さんも同席してもらって大丈夫ですよ。彼女には解析を頼む予定で来てもらってますし」

「いや、そんな野暮な真似はできねえよ、お前。おじさんだって空気ぐらい読みますよ」


 解析、という川島の言葉に気を取られつつ、田住の口ぶりもまた気に懸かる。

 ……野暮とは。妙な誤解をされている気がして思わず眉が寄る。そんな私を横目に、田住はスーツのジャケットを片手にいそいそと帰り支度を始めている。

 以前遭遇した際には、眉間に寄る皺が印象的なこわもてだとしか思わなかった。だが、今日は幾分か穏やかに見える。それどころか、喋り方を聞く限りでは軽快ささえ感じる。


 それはそれとして、私は川島のなんだと思われているのだろう。

 川島はどう説明しているのか……前に冗談交じりに告げられた「恋人」という言葉が蘇り、辟易してしまう。


「じゃ、後は若いふたりでごゆっくり。なァんてな!」


 ……思ったよりも性質たちが悪い。

 おじさん然とした台詞を残し、玄関に立ち尽くす私の横を、田住は笑いながら通り過ぎていく。私も、なんとか笑みを浮かべて彼を見送った。

 階段を下りていく足音が途絶えた頃、眩暈に揺れる頭を押さえ、私は玄関に足を踏み入れて川島を睨みつけた。


「お前……私のこと、なんて説明してる?」

「あはは。内緒です」

「ふざけるな!」

「まぁどうぞどうぞ」


 こいつはこいつで大概だ。

 そんなことははなから承知の上だが、田住を見送った直後だからか頭痛が増した。無性に帰りたくなる。


「今日先輩にお願いする仕事の資料、持ってきてくれたところだったんですよ、彼」

「……解析とか言ってたな、お前。電話で聞いた話と違……」

「そうそう、彼、刑事さんなんですよ。ああ見えて四十二歳、ちょっと老けてますよね。こないだ話したでしょ? 例の件、彼が担当してるんです」


 人の話を遮ってまで田住の詳細を語る必要はあるのか。正直、そこは別に知らないままで構わない。刺すような頭痛が勢いを増す。


 ……それにしても、解析とは。

 聞いていた仕事内容と懸け離れている気がしてならない。アルバイトにさせて良い仕事とそうでない仕事があると思うが、話を聞く限りでは……背筋を冷たいものが伝い落ちていく。そもそも、仕事の詳細を大して訊かず、ノコノコとこの場を訪れた私も私だ。


 頭を抱えた。

 癪だ。この男のなにもかもが。


「えっ、どうしたんですか、浮かない顔して」

「お前のせいだろうが……」


 応接スペースへ促されておとなしく腰を下ろした後、自身のデスクから呑気に声をかけてきた男へ睨みを利かせる。


「今日の仕事の内容もそうだが、わざわざ空港にまで迎えにきたお前の本意を勘ぐってる」

「本意だなんて……僕は先輩に会いたかったから会いにいっただけですよ。戻りがまだ先になるようなら、そろそろ僕が北海道に飛んでましたし」

「迷惑すぎるよ、お前……」

「いまさら」


 軽口を叩き合う間も、川島の手は忙しなく動く。書類やファイル、散らばった文房具類……煩雑を極めた彼のデスクから、やがて川島は一冊のクリアファイルを手に取り、私の対面に腰かけた。

 A4サイズのそれは、膨大な書類のせいで大きく膨らんでいる。ファイルの上部からいくつも飛び出した付箋をなぞる川島の指があるページで不意に止まり、彼は透明なポケットから数枚の写真を取り出した。

 うち一枚を視界に入れるなり、私は露骨に目を逸らした。そこに、件の絵馬と思しきものが写し出されていたからだ。


『絵馬の写真を見てもらいたいんです』


 電話越しに告げる川島の声が脳裏に蘇る。

 川島の依頼は、被害者のひとりと友人関係にあった私に、絵馬に記されている情報を確認してほしいというものだった。

 本気で断ろうと思えば断れた。だが結局、私は川島の依頼を引き受け、今日この場を訪れている。


「……では、さっそく。解析といっても、先輩が考えてるほど難しい仕事ではありませんよ。嫌だと思った質問には答えなくてもいいですし、写真も、見たくないものがあったら声をかけてください。すぐ下げます」


 淡々と口を動かす川島は、普段と同じ顔をしながらもどこか別人のような雰囲気を醸し出していて、私をなおさら緊張させる。

 数分前まで軽口を叩き合っていたことが夢かと思えてくるほど、私たちの間に流れる空気は一変していた。改めて、これは仕事なのだと思う。川島は仕事のために私を呼んだ。ならば、私も真面目に応えるべきだろう。


「報酬はもらうぞ。大丈夫だ、見せてくれ」

「はい。では、まずこの三枚を。最初の被害者の傍に置かれていたものです」


 律儀に揃えて並べられた三枚の写真に、左から順に視線を向けていく。

 井上静子――イノウエシズコ、と読むだろうか。向かって右側が拡大された写真で、そこに記載されている名を凝視する。左側には男性の名が記されているのだろうが、そちらは写真には収まっていなかった。川島が、あるいは警察側が意図的に外したのかもしれない。

 角度や大きさこそ異なる撮り方をされているが、絵馬に名前だけが記されていることは理解できた。それも、手書きではなく毛筆の書体で印刷された文字のようだ。


「これは……印刷か?」

「おそらくは。プリンタの型やインクの種類なんかは、調べを進めている最中だそうで……田住さんの話を聞くと、それなりに難航してるみたいですね」

「……へぇ」


 これほど克明に文字が読み取れるにもかかわらず、か。ひやりとした。

 本当に気味の悪い事件だ。そんなものに、なぜみゆきは巻き込まれてしまったのだろう。

 警察に調べきれていないことを私にどうこうできるとは思えない。私にできることといえば、せいぜい記された氏名に見覚えがあるかどうかを伝える程度だ。それもみゆきの件以外では役立てそうにない。


 最も大きく文字が写されている一枚を手に取ろうとしたとき、コト、とテーブルの端になにかが置かれる音がした。


「失礼します。良かったらお茶、どうぞ」

「あ……ありがとうございます」

「はじめまして、きさらぎといいます。川島さんの助手をしてます」


 茶托の位置を直しつつ自己紹介する女性を、まじまじと見つめてしまう。この事務所内に、まさかまだ人がいるとは思っていなかった。

 綺麗な女の子だ。ぱっと見ただけの印象では、二十歳やそこらといった感じか。


「暑いかなって思って、勝手に冷たいのにしちゃいました。大丈夫でした?」

「あ、ええと……大丈夫です、ありがとう」

「えへへ。良かった」


 丁寧な言葉遣いを貫くべきか一瞬迷った。

 直前まで考えごとで頭を埋めていたせいで、余計に反応が遅れてしまう。もちろん、彼女の外見に目を奪われたことも、反応が鈍った理由のひとつではあった。


 ……女の趣味、変わったんだろうか。助手に女性を採用する辺りも、なんとなく川島らしくない気がしてしまう。

 ストレートの長い茶髪、フリルがふんだんにあしらわれたガーリーなチュニック、膝上丈のミニスカート。誰が見ても可愛らしく、しかも客に対して「えへへ」などと笑いかけてしまう、見ていて心配になってくるほど無防備で、そして齢若い女性だ。

 随分と、私とは正反対のタイプの子を雇ったものだ……そんなことを口にすればその瞬間にからかわれてしまいそうだから、あえて口を噤む。だが。


「名字」

「……は?」

「『如月』って、なんか格好いいなぁって思って。それで採用したんです。まぁ熱心な子だしいいかなっていう理由もありましたけど」


 へぇ、とだけ返す。

 おそらく私はこのとき、妖怪でも見るような目で川島を眺めていたのだと思うが、川島は毛ほども動揺を示さなかった。


 ……大丈夫か、この男。理由がおかしい。

 昔からそうした傾向はあったと思うが、川島は恐ろしいまでに適当な生き方をしていて、眺めているだけで薄ら寒くなる瞬間がある。

 冷茶をひと口含み、気を取り直す。冷たい飲み物で良かった。変人とのやり取りで弱りかけた頭がすっきり冴えた感があった。


 手元の写真を一旦川島へ戻し、引き続き二件目の写真を眺める。

 絵馬の写真確認は、続いて三件目、そして四件目――みゆきに関連するものへと移り変わっていく。


せきむら……さんか」

「ご存知ですか」

「いや、知らない」


 四件目の写真のみ、男性名まで写っていた。

 絵馬の、向かって左側に縦書きで記された氏名を凝視する。関村幸宏……一般的には「セキムラユキヒロ」と読むだろうか。その隣に、同じ書体でみゆきの名が記されている。


「宇良みゆきさんの大学時代の先輩に、同姓同名の男性がいました。彼は三年前に交通事故で亡くなっています」

「……そうか」


 宇良みゆき、と書かれた文字から視線を外さないまま、うわの空で返事をする。

 私とみゆきは別々の大学に進学した。だから、私は関村幸宏という男性と面識がない。名前さえ初めて知る人物だった。


「知り合いが交通事故で亡くなったなんて、みゆきからは聞いてない」

「そうですか」

「……いや。大人になってからはほとんど顔を合わせてなかったし、単に私が聞いてないだけかもしれない。でも」


 縁結びの絵馬。まるで、死んだその男性にみゆきが焦がれ、一輪の花を手に追いかけ、そして死に臨んだとでも言いたげな。

 ぞくりとした。気味が悪いものを見る目になっている自覚はあったが、それを気に留める余裕もなく、私は手元の写真を睨みつける。


 みゆきが死ななければならなかった理由が分からない。

 線香を上げに行って、彼女の母親の疲弊した顔を見て、なお私はみゆきの死を受け入れきれずにいる。どこまでも現実味がなく、そんなふうに感じている自分こそが罪深い人間に思えてしまう。

 ぐるぐると考えが巡りすぎて痛み始めた頭を、手の甲で軽く押さえたそのとき、対面の川島が唐突に声をあげた。


「ひとまず休憩にしましょうか。顔色が悪い」


 一方的に言い放った川島は、私の返事を待たず、机上に並べられた数枚の写真を集めてしまった。トントンと机に写真の束を打って揃える仕種がトランプでも切っているように見え、場違いにもつい口元が緩んだ。

 冷茶をもう一度口に含む。幾分かぬるくなっていたが、それでも、さまざまな思考でぜになっていた頭はそれなりに冴えた。


 川島は、今回の件を事故ではないと言いきった。以前には「犯人」や「犯行」という言葉を使ってもいた。つまり川島は、この一連が事件だと――どんな形であれ意図を持って犯行に及んだ人間がいると考えている。

 布団の中で眠るように亡くなった、目立った病歴も外傷もない女性が四人。彼女たちの傍には絵馬――本人の名とすでに他界している男性の名を連ねたそれと、訪れる死を知った上で彼女たちを弔うかのような一輪の花。


 どの被害者の家も、玄関は施錠されていたという。他人が侵入した形跡もない。

 自ら準備して死に臨んだと考えるほうが自然だ。誰かが彼女たちの住まいに侵入して殺害し、絵馬と花を用意して、その後密室を作り出して逃亡したと考えるよりは、よほど。

 各々の状況があまりに酷似している。誰かが自殺を促したと、そのための用意をしたと、そう考えざるを得ないほどに。


 だが、望むだけでは人は死ねない。

 死因にしろ状況にしろ、自殺ならばそうと分かるものがなにかしら残るはずだ。それなのに。


「被害者たちに……なにか他に共通点は」

「気になるなら休憩後にお伝えします」


 うなされるような声で零した問いは、川島のひと言にあっさりと掻き消されてしまう。今の自分は相当に青褪めた顔を晒してしまっているのかもしれない。苦い気分を抱えながら、私は再び冷茶に手を伸ばした。

 腑に落ちないことだらけだ。けれど、私にできることなどない。

 みゆきと同じ絵馬に名を記された故人の男性については、単に私が知らないだけなのかもしれなかった。みゆきと彼がどんな関係だったか、私には知りようがない。


 介入はできないし、きっとすべきでもない。

 そう思い至ったそのとき、ピリリリリ、と甲高い音が室内に響き渡った。


 ……電話だ。

 無機質な着信音が、初期設定のまま使っている私の端末のそれと同じだったために、思わず鞄を見やる。だが、直後に川島が「あ」とポケットに手を突っ込んだ。


「すみません、ちょっと失礼しますね。……もしもし」


 通話に応じる川島の声は、それまでより抑揚を欠いていた。

 仕事の連絡なのかもしれない。なんだ、真面目な対応もできるんじゃないか、とつい拍子抜けしてしまう。

 そういえば、如月というあの女性はどうしただろう。手持ち無沙汰な私は、気を紛らわせるように再び冷茶のグラスへ手を伸ばす。


 ほどなくして通話を終えた川島は、「あちゃー」とわざとらしく呟いた。

 頭を抱える仕種が無駄に大袈裟で、私は彼のその所作を冷めた目で眺める。碌でもないことを考えているか面倒ごとを振ってくるか、どちらかを画策しているときのジェスチャーだ。

 新居の整頓もまだ中途半端なのだ、これ以上面倒ごとに巻き込まれている場合ではない。川島がなにか言いかけたと同時に、私は相手の言葉を遮って口を開いた。


「おい。そろそろ再開しよう、写真の件」

「あっ、面倒ごとに巻き込まれて堪るかって思いましたね、今?」

「やかましい。いちいち読むな、気色悪い」

「失礼だなぁ。別に読まなくても顔を見てれば分かりますよ、そのくらい」


 前より顔に出やすくなりましたね、と含み笑いを浮かべる川島を睨むと、彼は先ほどとよく似た大袈裟な仕種で「わぁ怖~い」と両手を上げた。

 そんな相手に胡乱な視線を向けつつ、私はふと疑問に思ったことを尋ねる。


「……お前のそれのこと、さっきのお嬢さんも知ってるのか」

「はい?」

「人の……考えを読むというか、例のやつ」


 しどろもどろに尋ねる私を、珍しく、川島は当を得ないような顔で眺めている。

 居心地の悪さを覚え、自分から振っておいて「やっぱりなんでもない」と強引に話を打ち切ろうとした、まさにそのときだった。


「あのう、『さっきのお嬢さん』ってもしかしてぼくのことです?」


 背後から愛らしい声が聞こえてきて、びくりと背筋が強張る。

 はっと視線を向けた先では、私に冷茶を差し出してくれた如月が、朗らかな笑みを湛えて佇んでいた。


「っ、あ……し、失礼」

「えへへ、お嬢さんって言われちゃった。ありがとうございます!」


 咄嗟に謝罪した私から視線を外すことなく、如月は上機嫌な様子で笑っている。

 違和感を覚えた。本人の目がないところで彼女の話題を持ち出したことへの謝罪のつもりだったが、むしろ如月は嬉しそうだ。それも、「お嬢さん」という言葉に対して浮かれているように見える。


 冷茶を運んできてくれたときとは違い、彼女は洒落たリュックを背負っていた。

 壁の時計をちらりと見やると、時刻は午後三時を過ぎたところだった。彼女の今日の仕事はもう終わりなのかもしれない。


「川島さーん。ぼく、そろそろ帰りますね」

「はいはい、気をつけて」


 やはり帰るようだ。

 川島の返事は驚くほど適当で、思わず咎めたい気持ちが芽生えたが、それよりも如月の一人称が「ぼく」であったことに、私は先刻とよく似た違和感を抱く。


「うーん、でもアメミヤさんと川島さんをふたりっきりで残してくの、なんか心配~」

「余計なお世話だよ。そもそも僕、先輩の眼中にないし」

「エッ……川島さん、めっちゃ哀れじゃん」

「さっさと帰りな。邪魔だよお前」

「わ、ひっどーい」


 口を尖らせながらも如月は楽しげだ。話の中に私の名が出てきたが、ふたりの会話があまりに調子良く続くから、口を挟む隙もない。

 どちらかというと、毒の強い川島の喋り方が新鮮だ。大学時代の川島は女性に対してそんな口を利かなかったと思うのに、如月にはいつもこうなのだろうか。


「まぁいいや、じゃあぼく帰りますね! 川島さん、ちゃんとアメミヤさんのこと送ってあげてね。今、なんかいろいろ物騒だし」

「余計なお世話、二回目」

「んもう、ほんとデリカシーゼロ」

「いいから帰れよバカ」


 すごい。川島が「馬鹿」なんて言葉を使うとは。しかもデスクに腰かけたまま、川島は玄関前の如月に視線さえ向けていない。

 如月は如月で、慣れているからなのか、川島の毒舌になどまったく堪えていなそうだ。呆けたようにふたりのやり取りを眺めながら、私はすっかり言葉を失ってしまう。


 お疲れ様でしたー、と軽快な挨拶を残して如月は去っていく。私はといえば、彼女を見送る姿勢で固まったきりだ。

 深い溜息が聞こえ、ようやく我に返った。はっと川島に向き直った私と彼の目が合う。


「送りますよ。夜に出かける用事ができてしまったので、今日はここまでです」

「……え?」


 仕事のことを言われているのだと一拍置いてから気づき、私は目元を押さえた。

 仕事と呼べない気がしてならない、自分に与えられた今日の仕事内容を振り返る。次いで、強烈に印象づけられてしまった川島と如月のやり取りが脳裏を掠めた。


「いや、いい。ひとりで帰る」

「支度をしてください。車、出しますから」

「いいと言ってる」

「そこはほら、如月から僕を助けると思って」


 ……埒が明かない。

 結局、この男が一度やると決めてしまえば、折れなければならなくなるのは私だ。とにかく癪に障る。


「いいと言ってるだろう、しつこいぞ!」


 声を荒らげたことに後悔は覚えなかった。やっていられないとばかり、ソファの端に置いておいた鞄へ、勢いをつけて手を伸ばす。

 瞬間、それまでへらへらと頬を緩ませていた川島がすっと表情を掻き消した。


「突然連絡が取れなくなったのって、先輩のせいですよね」


 鞄を手繰り寄せる手が、ぴたりと止まる。


「もう二年と四ヶ月前になります。先輩は細かい期間なんてとっくに覚えてないかもしれませんけど。メッセージを送れなかったとき、僕がどんな気持ちだったか分かりますか」

「あれは……べ、別にお前、元々まめに連絡なんて取ってなかっ……」

「悲しかったです。本当に」


 ぐ、と喉の奥で言葉が詰まる。

 謝罪すべきか言い訳を続けるべきか迷う。次の瞬間には、川島はその話を持ち出して私の罪悪感を煽りたいのだということにも気づいた。

 気づいたが、その点について言及する気にはなれなかった。川島の声が本当に悲しそうだったからかもしれない。


「……今回だけだからな」


 苦虫を噛み潰すような、とはこういうことを言うのだろう。

 溜息交じりに零すと、表情という表情を顔から削ぎ落としていたはずの川島は、先ほどまでのへらへら顔に瞬時に戻った。


「はは、やったぁ。ありがとうございま~す」


 真剣そのものといった面持ちも声も一瞬で忘れたとばかり、川島は浮かれた様子で笑い出す。私を嵌めた気でいるのかもしれないが、相手はいつでも私の内心を読めてしまうのだ。私がなにを考えて了承したのか、すでに知っているのかもしれなかった。

 今も昔も、この男相手ではとことん分が悪い。川島がなにを考えているのか、私はいつだって正しい判断をつけられない。

 被害者の共通点に関する話も宙ぶらりんだ。とはいえ、おいそれと足を踏み込んで良いものか迷いが生じてしまった今、答えを聞かずに済んで良かったのかもという気もする。


 相手から目を逸らしたきり、私はもう一度小さく溜息を落とした。

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