《2》弔問
結局は予定外の送迎を受け入れ、予約のホテルまで送ってもらった。翌日――今日は、目的地に電話を入れてから客室を出た。
予定通り、今日、私は彼女の家へ線香を上げに向かう。
昨日購入したビニール傘を手に部屋を出る。荷物は置いたきりだ。用が済んだら、今日はまたここに戻る予定だった。
外は細い雨に濡れている。エントランスから一歩足を踏み出すと、途端にじめじめした空気に全身を包まれた。伸びかけのショートヘアがじわりと湿り、私は慌てて傘を開く。
バス停まで歩き、幾らかの待ち時間の後にバスに乗り、降りた後は見覚えのある景色の中を進む。
何年も訪れていない懐かしい街は、道路や店、街並みなどがところどころ変わっていたが、迷いはしなかった。昔よく歩いた道だ、少々変わった程度では戸惑わない。
ほどなくして、目的の場所へ到着した。
大通りから細い道に入った先の、閑静な住宅街に佇む平屋の一戸建て。今では少し珍しくさえ感じる引き戸の玄関……あの頃となにも変わっていない。
「ああ、伊織ちゃん。来てくれたんだねぇ、ありがとうねぇ」
呼び鈴を鳴らして間もなく、みゆきの母親が出迎えてくれた。やはり懐かしく感じる声だ。
居間に通され、ああ、こっちも全然変わってないなと感慨に耽りそうになる。玄関も廊下も居間も、中学時代にたびたび遊びに訪れた宇良家のままだ。
遺影のみゆきは、私が知る彼女よりも大人びた顔をしていた。
それを目にして、みゆきは本当に死んでしまったのだとようやく理解する。実感ではなく、理解だけ。
「……失礼します」
「ええ、どうぞ」
短い応酬の後、仏壇の前に敷かれた座布団へ腰を下ろした。
紺色の線香を一本手に取り、微かに揺れる蝋燭の炎へ近づける。
……どうしたらいいか分からなくなってくるくらいに現実味がない。
火を灯した線香の先を片手で小さく扇ぎ、香台へ立てる。横たえるのではなく立てるという作法を初めて目にしたのは、この家の仏壇を見た日だ。私が中学二年生だった頃。もう十年以上前になる、古い記憶だ。
黒塗りの位牌が安置されている仏壇にも見覚えがあった。広い居間の奥にひっそりと佇む、代々の位牌や遺影などが納められた大きな仏壇。意匠の凝ったそれの仰々しさに、私はこの家に招かれるたび目を惹かれていた。
そんな場所に、漢字で掘られた文字の羅列――みゆきの戒名が刻まれた位牌がある。ただただ不思議な感覚に包まれてしまう。
葬儀を終えた直後だと聞いているが、骨箱が見当たらないのはすでに納骨を済ませたからではない。遺体が戻っていないのだ。みゆきの死が不審死と判断されたためだという。
遺影のみゆきと目が合った気がした。私が最後に見た彼女よりも大人びた、それでいて今の私よりは若く見える写真だ。直近の写真がなかったのかもしれない。
こんな形で死を迎えるなんて、みゆき自身も想像していなかっただろうに。
『伊織』
みゆきの声を思い出す。それが本当に彼女の声だったのか、古くなった私の記憶ではどうしたところで曖昧だ。
中学二年生のとき、私は生まれ育った街を離れ、父とともにこの街へ引っ越してきた。そんな私が、この街で初めて親しくなった子がみゆきだった。
互いの家を行き来したり、メッセージのやり取りをしたり、それでは足りず通話が始まったりと、暇さえあればお喋りに興じていた。同じ高校に進学したから、その関係は高校生になってからも続いた。
元々、私は友人関係を制限されがちな環境で育った。その反動もあった。
だからか、父は私を止めなかった。夜遅くまで部屋の電気が点いていても、そんな時間にひそひそと通話を続けていても、一度も。
昔のことは、思い返すたび苦い気分になる。
「今日はどうもありがとうね、伊織ちゃん。この街にはもう残ってないって聞いてたから、連絡していいものか迷ったんだけど、伊織ちゃんにはどうしても……直接伝えたくてね」
「……いえ。あの、お悔やみ申し上げます。もう少し経ってから来ようかとも思ったんですが」
座卓を囲うように用意されていた座布団はふたり分だ。私と、みゆきの母親の分。
みゆきは、隣町にアパートを借りてひとり暮らしをしていたという。普段はこの家にふたつ必要ない座布団……みゆきの母親がわざわざ私のために出しておいてくれたのだと思うと、胸が痛んだ。
みゆきの両親は、私が転校してきた年の初頭に離婚したそうだ。形は違えど、私も父親とともに新しい生活を始めることになった矢先だった。ひとり親の子供同士、なおさらみゆきとは込み入った話をする仲になった。
みゆきの母親の顔は、再会するまで正直うろ覚えだったが、顔を突き合わせた途端にするすると記憶が蘇ってきた。
当然ながら昔より皺が増え、だが淡く浮かぶ微笑みには確かな面影がある。仏壇に手を合わせ終えた私に向けられる彼女の笑みは、疲弊が色濃く滲みつつも優しく温かかった。
「伊織ちゃん、ほんとに綺麗になったねぇ」
「っ、いいえ……そんな」
電話で聞いたそれと同じ声で語りかけられ、どんな顔をすればいいか分からなくなる。
沈黙を生まないためにと事前に考えておいた言葉のどれも、口には乗せられなかった。結局沈黙は避けられず、そんな中でみゆきの母親と遺影のみゆきだけが笑っている。
こぢんまりとした居間に流れる空気はあまりに物悲しく、鈍い痛みが喉を走る。居た堪れなくなった私は、早々に「ではそろそろ」と切り出した。
どんな言葉も、今の相手には虚しくしか響かないだろう。同時に、そんな言い訳をしてこの場から逃げたがっている自分に吐き気がしていた。
「気をつけてね」
「はい。お母さんも……お身体に気をつけて」
愚にもつかない言葉をなんとかひねり出し、私は宇良家を後にした。また来ます、とはどうしても言えなかった。
玄関の引き戸を閉め、まだ我慢すべきだと溜息を噛み殺す。
せめてこの場を離れてからにしたかった。不謹慎な気がしてならなかったのだ。誰に見られていなくとも、私自身がそう思ってしまえば、それは焦げつくように心にこびりついて容易には拭えなくなる。
重い足を無理に動かし、そのまま帰路に就く。
みゆきの家は、私たちが通っていた中学校の近くにある。その辺りを散策してからホテルに戻ろうと考えていたが、そんな気分はすっかり失せていた。
『帰り道、気をつけてね』
玄関口で労ってくれたみゆきの母親の顔が、はっきりと脳裏に蘇る。
力なく笑う彼女は、見るからに疲弊していた。私という客人を迎えるために笑みを絶やさずにいてくれたのだろうが、顔色は終始青褪めていた。あの家、あの空間に彼女をひとり残して帰路に就くことが薄情な気さえしていたが、私にできることなどなにもない。
とうとう、溜息が零れた。
朝には薄く地面を濡らす程度だった雨は、本降りと呼べるまで強まっている。重い内心を引きずり、私は傘の柄を握り直した。
実家へも、そろそろ連絡を入れておいたほうがいいだろう。父を頼っての帰省ではない分、自分から行動を起こすことに躊躇を覚えてしまうが、いつまでも心配をかけ続けているわけにもいかない。だが。
二度目の溜息はなんとか堪え、小さな交差点を曲がる。
振り返ったとしても、みゆきの家はもう見えない。そう思ったと同時に、背後から急に声がかかった。
「あのー、お急ぎのところすみませぇん。ちょっとよろしいですかぁ?」
甲高い女の声が耳を刺し、はっと後方を振り返る。そこには、マイクを手にした女と、カメラを構える男の姿があった。
反射的に顔を背け、傘で自分の顔を隠す。透明なビニール傘では碌に隠せないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
その直前、わずかな隙間から覗いたのは「すみません」と言うわりにさして悪びれた様子のない厚化粧の女だ。女は不自然なほど眉尻を下げ、逆に口角をぐっと持ち上げて佇んでいる。背後の男はカメラマンらしく、機材を手に女の後方へ控えていた。
……なんだ、こいつら。
傘の内側で眉をひそめる。街頭インタビューの類だろうか。いや、だとしたら
聞き覚え程度はあるテレビ局名を口にする女の声が、煩わしく耳に入り込んでくる。顔は背けたままだ。返事もしていない。私がまともに話を聞いているかさえ分からないだろうに、女は浮かれた声で続ける。
「私たち、現在県内で発生しております連続不審死について取材しておりまして……」
傘の内側で、私は目を見開いた。
不審死……連続? 降って湧いた混乱に煽られながら、嫌な予感が嵩を増していく。
このふたりがなにを訊きたがっていようと、断る以外の選択肢はない。
だというのに、断りの文句はなかなか口をついて出てこなかった。困惑、動揺、そういった感情に、先ほど対面したみゆきの母親の顔が無駄に重なる。
連続不審死。もし、それにみゆきが関係しているとしたら。そのためのインタビューだとしたら。みゆきの母親が疲弊を滲ませていた理由に、こういった連中の存在も影響しているのだとしたら。
傘の柄をきつく握り締める。
この手の強引な人間は苦手……いや、嫌いだ。震える息を小さく吐き出した、そのときだった。
「やれやれ、そういうやり方ってどうなんです? 度が過ぎるなら通報しますよ」
低い声が聞こえ、はっと目を見開いた。
一瞬、なにか通報されるようなことでもしただろうかと肝が冷える。それが自分に向けられた言葉ではないことと、声の主の正体、それぞれに思い至ったのはほぼ同時だった。
はっと振り返った先には、口元にだけ挑戦的な笑みを浮かべて佇む川島と、見覚えのない男性の姿があった。
壮年の男性だ。スーツに包まれた身体はやや太めだが、派手に眉を寄せたその顔はとにかく厳つい。睨みを利かせたきり、例の男女を見据えながら、彼はときおり私にも胡散くさそうな視線を向けてくる。
一方の川島は、首から下げたIDらしきカードを指で挟み、見せつけるようにして男女へ示していた。それを見るなり、彼らの顔が派手に引きつる。
「あっ、いえその、私たちは……」
「すみませんでした、失礼します。行くぞ!」
慌てた様子で浅く会釈し、やはり浅い謝罪を口に乗せ、ふたりはバタバタと立ち去っていく。後には呆然と立ち尽くす私と、逃げ去る男女の背を嘲るように眺める川島、そしてスーツの男性だけが残った。
じろじろと私を眺める男性の視線はかなり不躾だ。さっきと同様に傘で遮ろうかと考え始めた頃、彼の視線は川島へ向いたらしい。
「……知り合いか」
「ええ。まあ」
あの連中のせいで滅入りかけた気分はそのままに、私は眼前のふたりのやり取りを眺めているしかできない。
また連絡する、と川島に言い残し、それきり男性は私に目もくれず去っていく。相手にしてみれば、私こそが急に入った邪魔だったのだろう。近くのパーキングへ向かう彼の背から、やっとのことで視線を外す。
震える吐息が零れた瞬間、肩になにかが触れ、私は伏せかけていた目を見開いた。
「ったく、昔からあの手の連中に好かれがちですよねぇ、
「……要るわけない」
「そうかなぁ。偶然僕が居合わせて本当に良かったですね」
再会して以降、初めて「あめみや」と正しい音で呼ばれ、つい調子が狂ってしまう。
肩に載る手を雑に払った拍子に、川島があのふたりに見せつけていたIDが覗き見えた。所轄の警察署の名が目に留まり、なんとなく納得する。川島の職業を考えれば驚くことでもない。先刻のスーツの男性、彼の職業についてもある程度想像がつく。
「良かったのか。さっきの人」
「ええ。もうお別れってところでしたので」
「……そうか」
「それより、ご実家には寄らないんですか」
さりげなく問われ、ぎくりとする。
話の流れとしては唐突だが、実家への連絡については先ほど考えたばかりだ。つまり、川島は私の思考を読んだのだ。
スーツの男性と一緒にいた手前、この男が私を尾行していたとは考えにくい。とはいえ、私がこの道を通ることを事前に知っていた可能性はある。報道関係の人間に待ち伏せされていることも、もしかしたら察せていたのかもしれない。
ふつふつと苛立ちが湧いてくる。
微笑む川島を、私は振り返りざまに睨みつけた。
「さあな。お前には関係ない」
「これからどこに先輩をお送りするか、僕にとっては重大な問題です」
「歩いて戻るからお前も帰れよ、ひとりで」
「戻る、ってことは今日もホテルかな。昨日と同じところ?」
相手に聞こえるよう舌打ちしてやる。
しかし、川島が気を揉む様子は毛ほども見られず、私は余計苛立ってしまう。
「車、すぐそこに停めてるので送りますよ。
言いながら、川島は傍のコインパーキングを指差した。スーツの男性――田住という名らしい――が向かったパーキングだ。
胡乱な視線を向けてもあっさりスルーされてしまう。相変わらず巌のような神経だ。
黙って後ろをついていくのは癪だったが、逃げようとすればおそらく手を引かれる。平然とそれをやらかすだろう男だ、鉢合わせてしまった以上は私に逃げ道などない。
雨道を歩いて帰るのは、正直つらい。
どうせ、そんな内心まで読まれて微笑み返される――その辺が関の山だ。
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