第227話 一真の発酵研究

 一真は一美と姿を変えて、ジンメルの住み込みの内弟子として、数か月を過ごしてきた。毎夜道場からいなくなるのを、ジンメルに感づかれていた。師匠から子細を聞かれる前に内弟子をやめて、セバスのダンジョンに帰ってきていた。ちょうど鑑定スキルを取る時だったので都合が良かった。


 師匠は一美(一真)のことを、何か事情のある妖であると思っていたようだ。そんなものにまで真剣に向かい合い、奥義を教えようとしていたことは本当にありがたかった。


 もう一真に戻って、以前と同じ生活をしている。カリクガルがチームの存在に気付いた様子はない。そのこと自体がチームのカリクガルへの優位だと思う一真であった。


 さてサーラのノートを解読して、エリクサーへの道筋をつけた一真たちである。竜晶石を粉末化して、サーラとショウの出会った池にばらまく。蓮がそれを吸収して、蓮の実に新しい物質を凝縮させる。


 その実から抽出されたエキスを、特殊な酵母で発酵させるのだった。サーラのノートには、酵母名が明記されていた。


 ディオニソスの宝物庫からその酵母は発見された。ジュリアスの予兆発見でも、潜在能力の鑑定でも確認したから間違いはない。 


 盗んだエリクサーからは、コピーが可能だった。しかしこれからはエリクサーが自分たちで作れ、ふんだんに使えるようになる。リンクスキルの有用性が高まる。カリクガルとの戦いで。巨大なHP損失が発生しても、エリクサーによる速やかな回復が可能になるからである。

 

 エリクサーができるのは秋になる。それまでの空いた時間で、一真にはやりたいことがあった。ディオニソスの宝物庫で見つけた、発酵菌のコレクションを使ってみたかった。


 まず一番簡単なパンの改良。イースト菌による発酵の過程を加えるだけで、柔らかいパンができる。色は同じだが、いろいろな総菜パンを考えてみた。血のソーセージをはさんだソーセージパンや、甘く似た豆を使ったアンパンなどだ。


 広く普及してほしかったので、シスターナージャに教えると同時に、ナージャの名義で商業ギルドにレシピ登録をしてもらった。レシピ使用料は1年間で1万チコリ。プロなら格安だ。


 次は大きな抽出装置をいくつか作って、ワインとエールから蒸留酒を作った。ワインからはブランデー、エールからはウィスキーやジンに似た蒸留酒ができる。


 そのままでは風味がなく、木の樽に入れて風味付けを10年以上しなくてはならない。ここでエイジングのスキルを使う。1か月で風味付けが終わる。


 最終調整は、分解・精製の魔道具だ。純粋のアルコール(エタノール)に、各種風味を足したり引いたりする。これはサンプルをネストに持ち込んで、一真の有り余る時間でやるのである。もちろん並列思考・3倍速だ。


 癖のない麦焼酎のような酒、ウィスキーのような風味の酒、ジンのような癖のある酒、ブランデーのような深みのある酒ができた。副産物でアルコール度数は低いが、きれいな色の甘い酒が各種できた。いろんな香りも心地良い。


 これはまずセバスに提供して、カクテルに使ってもらう。Barセバスと高級ワインバー「砂漠の月」の各店限定品だ。


 いきなり度数の強い酒は、アルコール中毒者を作ってしまう。砂漠の月では、このカクテルを注文した人は、ある趣向に付き合わされる。「砂漠の巡礼団」という歌を吟遊詩人に歌ってもらうのだ。


 今も砂漠を歩いている、悲しい巡礼団がいる。彼等を思いながら、美しい色をした甘い酒を飲むという趣向である。カクテルも歌も静かにヒットしていった。


 この蒸留所は数年後にレイ・アシュビーの隠れたる神の兄弟団に適正価格で譲ろうと思っている。各種スキル付きで。


 彼等の資金源になればいい。そしてエイジングのスキルは、砂漠のワインをもっとおいしくしてくれるだろう。


 麹菌があるから、焼酎や味噌、醤油、味醂もできる。一真が選んだのはやはり醤油である。大豆から油を搾ったカスを、安く買ってくる。これを原料にする。いつまでもゴミ漁りの仕事だなと、一真は思った。


 大豆カスから麹菌を使って醤油を作る。ディオニソスからもらった発酵促進と、ジル隊のエルビスからもらったエイジングのスキルを使えば早い。


 それと同時に取り組んだのが、豆腐の製造。こちらは発酵ではないが、最初は豆腐とセットで醤油を味わってもらいたかった。一真の謎のこだわりである。それに大豆はこの世界にたくさんある。


 醤油と豆腐の製造法は、狐獣人の実業家ナターシャに伝授した。もちろん適正価格だ。条件が2つある。1つは醤油を必要なだけ孤児院長のナージャに提供すること。もう一つは豆腐を作る過程でできるおからも、無償でシスターナージャに提供することだ。二人は盟友だから、この条件は歓迎された。


 何事も激変は良くない。市場の一部からゆっくり変えていく。これが一真がテッドから教わったことだった。


 一真の課題は発酵を利用して金を儲けることではない。食生活を豊かで潤いのあるものにするためでもない。当面の目的は2年とちょっと後のカリクガルとの対決である。


 見えない戦いはもう始まっている。すでに多くの味方を失った。しかし敵に打撃を与えてもいる。チームの最初の標的、ジル隊は倒した。


 カリクガルに幽閉されていたマリアガルをこちらの手に入れた。カリクガルの秘密兵器であるディオニソスは、アリアが輪廻に連れ去ってくれた。油断しているカリクガルは、まだそれに気づいていない。


 カリクガルが基盤としているカナス辺境伯領は、塩の利権を失ったことで、大きく力を削られた。逆にカナスと対抗する側の領主は、ヴェイユ家もハルミナのフラウンド家も、リングルのボルニット家も力を付けている。基盤となる国が弱体化すれば、カリクガルも強さを削られる。


 反カナスの大きな同盟も見えてきた。サーラが作り出したその同盟は、砂漠都市同盟、ドンザヒを中心とするン・ガイラ帝国、ヴェイユ家、エルフなど大きな広がりを持っている。


 しかし最大勢力であるアリアスのセバートン王家がどう動くかによって、情勢は大きく変わってしまう。王家単体で5000人の兵士を持っている。王弟のナマティ公爵は3000人の軍を許されている。


 王家が本気になれば直属の貴族軍を含めて、1万数千の軍を動員できるだろう。仮にカナス辺境伯軍と連合したら、2万近い軍に膨れ上がる。


 2000人のカナス軍を想定して戦いに備えている、東部のピュリスやハルミナの軍はせいぜい百人単位であって、本気になった王家には到底対抗できない。


 一真が雲の上のことを憂慮しても無意味だ。自分のできることをやるしかない。一真が今できることとは、カリクガルとの対決だ。


 中期的には方針は決まっている。一つは一真の前世の記憶を活用することだ。2つ目は魔法や呪術を古代語で構築することだ。古代語をベースとした新しい魔法言語を作り、カリクガルに解呪させない。3つ目は一真が進めている魔法のモジュール化である。これで新しい魔法を作る。


 しかしその前に、まず自分の攻撃魔法のレベルを上げることだ。リリエスもアリアもいない。一真も前線に出ざるを得ないのだ。


 アリアからもらった、魔法を乗せられる糸に闇魔法を乗せる。今はどちらもレベル1だが、幸いネストがある。並列思考もある。3倍速もある。


 ネストに籠る時間を増やして、闇魔法と糸術のレベルを上げよう。一真の決意は固い。ネストの虚無に、長時間も向き合うのは限界があるが、1日のうちに何回かに分けて籠れば、いくらでも体感時間を稼げるのだ。


 闇魔法の先に何があるのか。闇魔法と糸魔法を組み合わせた場合、何が生み出せるのか。時間はあと2年余りある。

 















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