第142話 サエカ宣言
8月中旬、ついに定期航路が開通した。ン・ガイラ帝国の東端の都市ドンザヒから、ボルニット家の支配するリングルと、新しい都市カナスを経由し、セバートン王国の西端、ヴェイユ家の領都ピュリスへ。大きな貿易船がやってきた。
積み荷は大量の紙、海産物の干物や塩漬け、宝飾品や工芸品、魔道具などだった。その一部はサエカにも降ろされた。
サエカの民衆の目を引いたのは美しい2頭の馬だった。前に一真が砂漠の南端の牧場で、メシュトというケンタウロスから買ってきた馬と同じ種類だ。農耕用の小さい、我慢強い馬とは大違いだ。都会的なスタイルのいい馬だった。
「ええケツしとる」
「足も長くて細い。わしの好みじゃ」
「目が大きくて、純粋そう。しびれる」
カナスのでの2頭の馬、評判は高い。彼等は11月のピュリスでの競馬に出かけるに違いない。ピュリスは天使降臨の群衆が畑を踏み荒らし、収穫は6割と予想されている。ヴェイユ家の長男ダレンは今年の税の免除を公表した。ピュリスは塩で潤っているので、1年くらいの免税は耐えられる。競馬は盛り上がるだろう。
11月に行われるピュリスの競馬のためにダレンとアデルが購入し、もう1頭はダレンからハルミナの二コラに贈られる予定の馬だった。ダレンの馬以外の2頭はカナスで船を降り、民衆の前を通り新しいカナス郊外の牧場にひかれて行ったのだった。
民衆は馬に目を奪われていたが、本当に大事だったのは紙と紙生産工場の設備だったかもしれない。それはピュリス近郊の川港プリムスで降ろされた。領主の長男ダレンはプリムスを工業都市にするつもりなのだ。何人かのドワーフが積み荷と共にプリムス郊外の工場用地へ歩いて行った。
ピュリスでは定期航路開通の正式な式典があった。そこでも新しい馬は民衆の人気を集めた。広場で開かれた宴会ではドンザヒのうまい酒、リングル経由で運ばれた砂漠産のワインが振る舞われた。
そのしばらく後、王都アリアスで、ヴェイユ家の次男アデルの男爵叙爵が行われた。最初の予定からは少し遅れたが、いろいろあったからやむを得ない。領地はサエカである。貴族の次男が領地を得て爵位を持てるのはとてつもない幸運だった。しかもサエカは塩の生産都市であり、国際定期航路の港湾都市になった。
今後発展し人口が増えれば、子爵になれるかもしれなかった。アデルはジェビック商会がアデルを擁して、サエカを5万都市にしようとした計画を知らない。もしそんなことをしたら兄弟の不和が起こっていただろう。
理想家アデルには、ヴェイユ家支配地域での時給250チコリの、給付付き学校の開校を発表できるのが誇らしい。この学校を6カ月先行して始めたのはサエカなのだ。歴史にアデルの名前が残る。
アデルの頭の中では、この学校を開設したのは自分だと思っている。自分しか見えていない。チョークを作ったのは誰だったのか。黒板やイス、教科書は?サイスの図書館や地道な識字教育は?それ以前に10年以上前に、西端のある村で始まった、庶民の学校のことは?アデルは何も知らない。
アデルは王都で、男爵叙爵祝いの宴を開いていた。主だった貴族は招かれている。カナス辺境伯も妻のカリクガルとともに出席していた。アデルは宴の終わりの挨拶でこういった。
「ヴェイユ家は全支配地で、10月から給付付きの学校を始めます。今まではサエカだけで行っていた事業ですが、10月からは全領地で、どんな貧しい子でも学校に行ける、そんな夢のような場所が生まれるのです」
人々が一斉に拍手する。貴族たちの表情は冷たい。アデルは続ける。
「それだけではありません。ヴェイユ家では獣人差別を厳しく禁止しています。サエカではそれを一歩進めて、獣人やエルフ、ドワーフを含めた全人類の平等を宣言したいと思います。これをサエカ宣言として、一切の差別が無くなるように、これからも努力することを誓います」
会場は氷ついた。カナス辺境伯夫妻は平然としていたが、人々は戦争の予感に震えた。多くの貴族たちにとって獣人やエルフへの差別は当然の事であって、それを疑うものなどいなかったのだ。
中でも激しく獣人を差別しているのがカナス辺境伯であった。貴族たちは密かにカナス辺境伯を伺う。もし辺境伯の反感を買えば、2000人の軍勢が攻めてくる。それに抗えるものはいない。セバートン王家すら、兵の数では勝っているものの、魔法士部隊の実力ではかなわないのだ。
後日サエカでも、アデルの祝いの宴が行われた。こちらは庶民を巻き込んでの広場での焼肉パーティーである。広場にステージが作られて酔っぱらった住民が、ステージで歌ったり踊ったりする楽しい宴だった。
そこに神が現れた。会場は静まり返る。正確には神であるはずがない。石化したエルフの男性だ。彫刻のような姿は、神だと言ってもみな信じるだろう。
「私はユグドラシルの使いです。男爵アデルのために歌いに来ました」
サエカを舞台にしたハリハという王女とディオンという王子のちょっと切ない恋の物語だ。吟遊詩人の使うガアーズという弦楽器を弾きながら、男は歌いきった。その場にいた吟遊詩人たちは幸運に喜んだ。この歌を覚えたら自分も人気が出るのが確実だからだ。
歌い終わると、民衆の喝采の中、アデルが近づき、感謝の言葉を述べる。エルフの男は会場を鎮め、こういった。
「エルフとしてアデルとヴェイユ家に感謝します。ユグドラシルは感謝のしるしとして、アデルにエルフの友の称号を与えます。そして友情の証として、毎年1本のエリクサーを贈与することを約束します」
エルフが約束を破ることはありえない。エリクサーは値段のつかないほど貴重な薬である。それを持つだけでステータスだ。会場は熱狂に包まれた。ヴェイユ家とエルフが手を組んだ瞬間である。
エリクサーは最高のポーションでエルフ以外作ることができない。どんな病も癒し、死からも蘇ると言われる霊薬である。アデルはその場でこのエリクサーをセバートン王家に捧げると宣言した。サエカの民衆は熱狂した。
セバートン王家には不治の病に苦しむ王女がいた。この王女の顔を見た人間はいない。何かの呪いで王女の皮膚が鱗に覆われていたのだ。エリクサーをセバートン王は必死に求めていた。それは公然の秘密だった。
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