17話 試合終了
「どうした?もう疲れたのか? 」
アキラの肩は大きく上下していた。
決死の特攻をかわされたことのショックが大きかったのかもしれない。
だがそれだけではないだろう。俺の白い軍手は朱く染まっていた。
何度か当てた俺のジャブがアキラの鼻を朱く染めていたのだ。もちろん強いパンチではないから、それで決定的ダメージを負っているというわけではないだろう。依然として衰えぬ怒りの表情がそれを物語っている。
だが鼻血というものは厄介な追加効果をももたらすのだ。
鼻血というのは少しでも心理的なストレスになるが、もっと厄介なのは呼吸を妨げるという点だ。流れ出した鼻血はすぐに凝固し空気の流入を大きく妨げる。
酸素の足りないアキラは明らかに疲労していた。まだケンカが始まってから1分程しか経っていないのにも関わらずだ。アキラは大きく口を開け呼吸していた。
1分という時間は短いようで長い。1分間全力で動き続けることは特に訓練もしていない人間にとってかなり難しいことのようだ。もちろん俺だってアキラを挑発するために余裕なフリをしていたが、息はかなり上がっていた。初のケンカの緊張感も力みも大きかった。
だがそれでもアキラと比べれば残りのスタミナ面では圧倒的有利なのは間違いないだろう。こんな所でもサッカー部の時の貯金が生きているのかもしれない。あの頃はマジでキツい練習があったからな……。
「うるせえ!なめんじゃねえぞ、雑魚が! 」
アキラが残った気合を振り絞るように再度突っ込んできた。
(……やるじゃねえかよ、ヤンキー! )
かなり肩が上下し、鼻血も依然として出続けており、もしかしてここらでギブアップするかと俺は思っていた。アキラはヤンキーたち3人の中でも腰巾着の太鼓持ちという印象だったからだ。
だが不利な状況を理解しているにも関わらず、ヤツの眼はまだ死んではいなかった。その顔には必死な表情が見て取れた。いつものヘラヘラしたうるさいお調子者とは思えぬ真剣さが見えた。
(……だがな、残念ながら攻撃がずっと単調なんだよ! )
今までの失敗から学習せず同じやり方を続けていては、どんなに必死でも成功は見えてこない。
俺は、例によって丸見えのアキラの突進を再度ステップワークで外した。
今度はアキラの攻撃の間合いの外に出るだけでなく、半円を描くように右に回った。
(ここだ!!! )
突っ込んできたアキラの左側面ががら空きだ。しかも体勢はかなり前のめりに崩れていた。
俺は軸足となる左足の母指球でコンクリートの床を強く踏みしめ、後ろ足となる右足で地面を蹴り、腰を回した。足・腰・体幹・肩・そしてその力の終点として右の拳が空中を走りアキラのがら空きの左顔面に叩き込まれた。
右ストレート。
ジャブとともに俺がこの1週間必死で練習してきたパンチだ。ジャブが主に牽制やフェイントに使うパンチであるのに対し、ストレートは必殺のKOパンチと言っていい。軸足を強く踏み込み腰をしっかりと回転させたストレートの威力はジャブとは段違いだ。
今までアキラに一度も右のパンチを出さなかったのは、これを切り札として取っておくためだ。
左こめかみのあたりに俺の右ストレートを受けたアキラは、スローモーションのように床に沈んでいった。
(おお、こんなに簡単に人は倒れるものなのか……)
俺は自室で毛布を丸めサンドバッグ代わりにしてパンチの練習に励んできた。
その時よりも今の一撃は手応えがなかった。本当に当たったのだろうか?と疑うほど衝撃を感じなかった。
だがアキラは尻餅をつき両手を後ろについていた。
何が起こったのか理解していないかのような呆然とした表情だった。
(ボーっとするんじゃんねえよ!今だろ、畳み掛けろ!)
不意にそんな声が聞こえた。
それがどこから聞こえてきたのかなどと余計なことを考える暇はない。
自分が優勢になったらその瞬間さらにギアを上げて勝利を確実なものにする。どんな勝負事でもそれは鉄則だ。
俺が順序を考えるより先に身体が動いた。尻餅をついているアキラに向かって歩数を合わせステップを刻むと、右足を大きく振りかぶった。
俺はDFで細かいボールテクニックは不得手だったが、右足のロングキックは得意だった。もちろんアキラの頭はサッカーボールのように地面の上に置かれているわけではない。だがサッカーでもボールはいつも地面の上を転がっているわけではなく、宙に浮いている時もある。
俺は左足をしっかりと踏み込むことだけに意識を集中し、踏み込みが正確に決まったことを確認すると脱力した。後はミートだけを心掛けてインパクトの瞬間にだけ力を込めれば良い。
「九条君!!!!! 」
不意に後ろから何か大きな衝撃を受け、俺は大きくバランスを崩してコンクリートの床に転がった。
イメージしていた俺の右足のキックは決まらなかった。
キックモーションに入ってからのタックル……しかも見えていない背後からのタックルなんて問答無用の一発レッドカードだろ!
「……九条君……。もう、やめて下さい。……私、ケンカのことは全然分からないですけど……多分もう勝負は付いていると思います……」
俺ともつれるようにして倒れた
いつもの細縁の黒い丸メガネは1メートル先に落ち、彼女の大きな眼と長いまつ毛が露わになっていた。
漂うフローラルの香りがあまりにこの場にはそぐわないように思えた。
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