15話 ジャブ

(……来た! )


 もちろん俺は大いに緊張していた。過去のどんな模試よりも、この学校の入試よりも断然緊張していた。

 当然だ。モブキャラの俺はケンカなんかしたことがない。殴られる痛みも想像上のものでしかない。

 だが、こうなることも半分は想定していた。残りの半分はアキラが俺の求めに応じて事件の真相を素直に話してくれるという想定だった。今にして思えばその想定の甘さに笑ってしまいそうになる。やはりどこかでヤンキーも人の子だと性善説を信じていたのだろうか?


 だが俺の緊張を差し引いても、心理的に必ずしも俺が不利というわけではなさそうだった。

 右腕を振りかぶりながら真っ直ぐ踏み込んできたアキラの表情は、怒りよりも焦りの方が色濃く見えた。

 ……それはそうだろう。こっちは半分以上ケンカになっても仕方ないという気持ちでこの場に臨んで来たのに対して、アキラはケンカをする気などさらさら無かったはずだからだ。

 こっちが散々挑発してもヤツはすぐに手を出して来なかった。ケンカの覚悟が出来ていなかったのだ。ヤンキー用語で言うならば気合が入っていなかったのだ。


(速いな! )


 体育のサッカーで感じたアキラの俊敏性は中々のものだったが、正面で対峙してみると、体感的に突進してくる速度は想定以上だった。

 だが、あまりにヤツの動きは真正直過ぎた。


 パシ、と軽い音がした。


 俺の左手が突進してくるアキラの頬の辺りに入ったのだ。


「…………テメェ……」


 最初アキラは何が起こったのか分からないという表情をしていたが、俺のパンチが自分に入ったのだということを理解すると眼の色を変えた。


手前てめえという言葉はな、元来は自分のことを指す言葉だったんだぞ」


 俺の関係のない雑学にアキラの眼はさらに怒りの色を増した。

 

「うるせぇ!うるせぇ! うるせぇ!」


 もちろん俺はアキラの後学のために雑学を披露したわけではない。

 一つは自分が冷静であることを自分に言い聞かせるためだ。初めてのケンカの緊張で暴れ出しそうな心臓を抑え、相手の動きを見て判断し練習通り身体を動かすために口を動かしたのである。

 そしてもう一つの目的はアイツをさらに挑発し、より単純な動きに限定するためである。


 俺は今度はきちんと構えを取った。

 両拳を軽く握り自分の目の高さに上げる。右手は自分の目の横辺りに留め、左手は自分の頭一つ分前に出す。そして下半身は左足を半歩左斜め前に出し、やや広くスタンスを取る。

 ボクシングのファイティングポーズのようなイメージだ。ボクサーは何も格好付けるためにあのポーズを取っているわけではない。あれには合理的な理由がある。

 俺が取っているのは左半身を前にした『オーソドックス』と呼ばれる構えだ。これが逆に右半身を前にした構えだと『サウスポー』と呼ばれることになる。

 そして俺の両手には軍手がはめられていた。薄い軍手一枚で何が変わるんだ?……と思う人もいるかもしれないが、実際素手とはかなり違う。人の骨というのはかなり硬い。自分の拳を保護しているという安心感は、より心理的ストレスなく相手を殴るのにとても有利だ。


「……クソ! 」


 アキラが再び突っ込んできた。


(……丸見えだぜ! )


 アキラはさっきよりも大袈裟に右手を振りかぶりながら突っ込んできた。挑発の効果というよりも、俺にパンチを入れられたという事態に混乱しているのだろう。

 怒りに駆られたアキラの動きは先ほどよりも力が入っていた。本人はより速く動こうとしているのかもしれないが、その気持ちが動きを固くしているのだろう。


 ビシ!


 さっきよりも強く俺の左手のパンチがアキラの顔面を捉えた。

 今度はアゴの辺りにパンチが入り、アキラは軽くよろめいた。

 最初の一発目は向かって来るアキラに対して軽く手を出しただけのものだったが、今度の二発目はきちんと左足を踏み込み、体重を乗せたパンチだった。


 ジャブ。前の手で放つ最も基本的なパンチだ。オーソドックスの構えだと左手でのパンチとなる。構えたそのままに最短距離を打つ。一撃必殺の強い攻撃ではないが、こうして相手の出足を止めたり、牽制の意味で放つ意味もあったりと、とにかく用途の広いパンチだ。

 

 ……ということを俺も最近知ったのだった。

 アキラとの決戦になるかもしれない……と考えた時、俺は戦略を様々に考えた。俺が経験不足を補い勝てる要素があるとすれば戦略の部分でしかないだろう。

 色々と調べるうちにジャブというパンチを知り、これが有効かもしれないと行き着いたのだ。


(やっぱり、何事も事前準備が重要だな! )


 狙い通りとなった展開に、俺は自分の立ててきた戦略と予習が有効なものであったことを確信した。

 この1週間、俺はそのことに精力を傾けてきたのだ。

 


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