第9話 『水と油』

 視界に収まりきらない程の異貌、大蛇の口がこちらに向かって迫ってくる。


『グロロロロ……』


 隙間から牙を覗かせて、丸呑みにしようと迫ってくる。


『グロロロロロロロロ』


 嫌だ、怖い、助けて。

 どうして誰も助けてくれないのか。


 ここに来る前だってそうだ。

 ライオンに喰われそうになった俺を、誰も助けようとなんかしなかったじゃねえか。


『グロロロロロロロロロロロ』


 ここで独りで死んでいくのは嫌だ。

 孤独な死に様なんて、悪人だけが晒すべき醜態だろう?


 ヤバい、死ぬ。もうすぐ、間もなく、次の刹那には、死ぬぞ、死ぬのか、死んで、死に、死──。





『グ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ 』


「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ────ッッ!!!」



────────────────────





 『死』。

 それは古今東西、老若男女、人間ならば誰もが抱く恐怖の象徴だ。


 今俺は、元いた世界の誰よりも碌でもない死に方をしようとしている自信がある。

 大罪を犯してギロチンで処刑されるよりも、犯罪組織から金を借りて家族巻き添えで悲惨な末路を迎えるよりも。


 ──『餌』として死ぬのは、人間の死に様なんかじゃない。



「ハァッ……、ハァ……ハァ……ッ!!」


 だから俺は、全力でそれを拒絶した。


「ぐっ……!!」


 後ろを振り返る。

 ──大口を開けた大蛇が、下顎で地面を削岩しながら追ってきていた。


「嫌だ……、死にたく、ない」



 すり鉢状の道を駆け登る。

 下から這い寄って来る魍魎から、上へ上へと出口を目指して足掻くなんて、これが悪夢以外の何だというのか。






「──そう、だ……、ハチローを……、あいつを囮にすれば……」


 疾走の中で、ドス黒く醜い考えが浮かぶ。

 ハチローは未だにトウヤの背で眠っているが、元はと言えば、全てこいつの責任なのだ。


 俺の忠告を聞かずに、大蛇が住む大穴に入っていった。自業自得ではないか。


 俺が助けに来なかったらとっくに死んでた。変わらない。俺は巻き込まれただけだ。



 元々、俺とコイツは水と油だ。

 兄弟なんて形だけで、言葉すら交わせやしない。見捨てるのだって、そんな難しいことじゃないだろう?



「──違う!! 何考えてんだ俺は!!」


 兄弟だろうと他人であろうと、自分の命を優先する為にそれらを蹴落とすのは『人間』じゃない。

 獣の姿になっても人間の、『ミクリ・トウヤ』のプライドは変わらない──それは他でもない、自分の言葉だった。

 そう自分に言い聞かせて、心の内に生じた最低の思考を上書きする。


 ……だが、逃げ切れるだろうか。


『グロロォォォ!!!』


 荒ぶる大蛇の巨躯により、大穴が崩壊を起こす。下段からどんどん崩れ落ち、大蛇と共にトウヤ達を地獄に引きずり込もうとする。


「穴が……、崩れ……ッ!」


 凄まじい音を立ててひび割れていく大地の壁。ヒビはトウヤが立つ足場にも移り、途端に崩落して闇に吸い込まれる。

 崩れる前に次の足場に、それが崩れる前に次の足場に。既に壊滅に追いつかれているのが分かっていても、それでもなおトウヤは悪足掻きを続ける。


 そして遂に、その薄汚い獣の生への執着心が報われることとなった。




「────ぁ、外……?」


 気づけばトウヤは、幾度も訪れたあの広場に辿り着いていた。

 涼しい風が周囲の木々から吹き抜け、草花の香りが鼻をくすぐる。


 大穴の壊滅からも這い寄る大蛇からも逃れ、トウヤは悪夢から逃げ切ったのだ。

 トウヤは背中のハチローを地面に下ろすと──、





「────ひ、ひひひ。ひひひひひひひ。

やったぞ……助かった。逃げ切ったんだ。」


 生き残ったという事実に、トウヤは悪人めいた笑みが止まらない。


「勝ったぞ……!! あのヘビ野郎に、理不尽な悪夢に!! 俺が勝った──」



 トウヤの時間が一瞬止まったのは、そのときだった。


「────ぇ」


 崩壊していく大穴の入口がさらに拡張され、再びトウヤを飲み込んだ。乗り越えた筈の悪夢に吸い込まれ、醜い執着心でせっかく掴んだチャンスが瓦解してゆく。



「うわあああああああああ!!!」


 咄嗟に前脚で穴の縁の地面を掴み、土に自身の爪を食い込ませて固定を図る。

 今の自分の体重がいくらか不明だが、またもや筋トレに命を救われた。が、それも時間の問題。


 崩壊でさらに大穴は広がるかもしれないし、何より──。




『グ ロ ロ ロ ロ ロ ロ ロ』


 大蛇は、まだトウヤを見逃してくれた訳ではない。


「────ひ、」


 普段のトウヤなら、「ふぐううううう、

根性ォォォォォォォォォ!!!」と、気合を入れるような場面だが、今のトウヤにはそれができない。


 『ハチローを囮にすればいい』なんて醜悪な考えが浮かんだほどだ。

 それ程までに、今のトウヤは追い込まれているのだ。


「は……、助けて、助けて……助けて」


 誰でもいい。

 俺を独りのまま死なせないでくれ。


 誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か────。


 何かが砕ける音が聴こえた。

 指先の痛みで、それが爪がへし折れる音だと分かった。

 終わる。今度こそ終わる。


 獣に転生することで繋がれた魂が、意思が、記憶が、感情が、終焉を、終幕を、終点を、終結を、終尾を、終極を────。






 ──唐突に、右腕に痛みが走る。


 爪が折れたことによるものでも、体重の負担によるものでもないことは、本能的に分かった。


 なら、この痛みは何なのか。

 そういえば、いつまで経っても、落下の浮遊感が始まらない。


 まさかもう、大蛇の胃の中に──。






「グルルル……」


「ぁ、え?」


 その事を理解するのに、何秒か掛かった。




 ──ハチローが目を覚まし、トウヤの右前脚を咥えていた事に。



「はち、ろ?」


「グルルァァ……!!」


 トウヤが落ちないようにする為か、昼おちょくられた事へのリベンジか、ハチローは更に噛む力を強める。


「痛ッ……!!」


 しかし少しでも緩められれば、どんな凄惨な結末になるかは想像に難くない。


 ハチローがトウヤの脚を噛んだまま後ろに下がり、トウヤも爪の折れた左脚で地面を掴み直し、トウヤの命はどうにか繋がった。




「あ、う、え……」


 何を言えば良いのか分からなかった。

 本来なら、言うべきことは決まっているというのに。

 助けてくれて、俺を一人にしないでくれてありがとう、って。

 トウヤは心を落ち着かせ、ハチローに向き直ると──、





「──礼は言わねえ。そもそもお前助けたの俺だし。貸し借りプラマイゼロだ、バカ犬」


「ガァッ!?」


 どこまでも素直になれない天邪鬼者トウヤに、ハチローは青筋を立てて吠える。

 そんなやり取りがどこか懐かしくて、嬉しかった。


「オイ、これじゃ何か俺がツンデレみてーじゃねーか、こんなとこ誰かに見られてたらその人に勘違いされちまうよ」


「ガゥガゥガゥ!!」


 『知ったことか』と牙を剥いて、トウヤに反論するハチロー。

 水と油だったはずの二人に、激しい試練の末、友情が芽生えるといった展開はトウヤ的にも胸アツだが、実際に当事者になってみると案外面白くない。というか気持ち悪い。


「──まあ、正直助かったし、救われた」


「ガ?」


 口の中だけで感謝を呟き、改めてハチローの方を向くと、


「うし、今度こそ帰んぞ。トモコも心配してワンワン泣いてるからな、マジで」


 今はあの巨獣の優しさが恋しい。人間だろうと獣だろうと、やっぱり家族は良いものだ。


 そんなトウヤの、ささやかな気休め

は──。



『グロロロロロロロォォォ──!!!』


 再度の大蛇の出現によって、阻まれることとなった。




 月の光を銀鱗で弾く大蛇。それに対しハチローは際限なく吠え、いつもの調子を取り戻したトウヤは──、


「しつッッけーんだよ!! そんだけ目ェデカくても空気読めねーのか、このヘビ野郎…………いや、コレよく見るとウツボじゃね?」


 改めて、大穴から上半身を覗かせる巨躯を目でなぞる。そして確信した。


 ──あ、ウツボだコレ。



『グロロロロロロロ……!!』


「ん? 何かアイツ喉光ってね? 軽くヤバくね、アレ」


 喉元から朱い光を漏らす大蛇──改め大ウツボ。

 開かれた大口から謎のエネルギーがほとばしり、光は更に強まる。

 ゲームで見慣れた、ドラゴンの代名詞とも言えるモーション……、それは──、



「マズい……、ブレス攻撃が来る!!」



 トウヤの懸念通り、大ウツボは超高密度のエネルギーを圧縮させたビーム状のブレスを放つ。


 その範囲内に居たトウヤとハチローはもちろん、その脅威は森を越えて草原にまで及ぶ──。



「…………アレ?」


 劫炎に身を晒し、影も残さず焼き払われる……、そんなトウヤのイメージを覆すように、砂色の結界が二人へのブレスの被害を最小限に、否、無害にまで抑えた。



 その結界を張ったであろう救世主は、純白の巨体を翻してトウヤ達の前に舞い降りた。


「まさか……、お前……」


「ワン、ワン!!」





 白き巨獣──トモコが、二匹を庇うようにして大ウツボの眼前に立ちはだかる。


 またもや命を救われたトウヤは、今度こそ礼を──。



「え、いや、なに、お前ってバリアーまで張れんの?」


 言うことは無く、純粋な疑問を口にした。


 魚捕りの際、地面から岩を生やす魔法は確認済みだが、まさか結界術まで習得してるとは思わなんだ。


 トモコはそんなトウヤの質問に答えることは無く、代わりに二匹に一瞥する。


「時間稼ぐから、ハチローと一緒に逃げろってか……。まあ、あんなの相手に俺ができる事も無さそうだからそうさせて貰うが……、──勝てんのかよ、お前」


 大ウツボは、その頭部だけでトモコの全長に匹敵する巨躯を持っている。

 魔法が使えると言っても、ブレスさえ吐くあれを相手にトモコがどこまで──。


「──ガル」


「信じてっからな、母ちゃん」


 不安は拭えないが、今はトモコに任せるのが最善とトウヤは判断。

 ハチローと共に森を駆け出し、一目散に草原へ向かうことにした。


「よし……。行くぞ、ハチロー」



 雨が、降り始める。

 さっきのブレスで木々が燃え、生じた上昇気流が積乱雲を集め、嵐が起きようとしているのだろう。




 豪雨の中、白と黒の獣が走る。


 その背後で、純白の巨獣と白銀の大鱓が今、激突する。

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