第8話 『激震』

 夜空に浮かぶ異世界の月。その下で、気高き純白の巨獣が吼える。


「ワオォォォォォォ────ン……」


 それは、猛獣が自身の血肉を掛けた戦いに勝利したことへの凱歌ではなく、魚を捕るための土壁を築き上げる魔法の詠唱でもない。

 ──ただ、突然姿を消した我が子を呼ぶ、悲痛な母の声だった。


 そのひどく儚い呼び声は、全力で森の中を駆けるトウヤの耳にも入っていた。



「──良い母ちゃんを持ってんだから、あんま心配かけてんじゃねえよ、バカ兄弟」


────────────────────



 ──居場所を知ってるのは俺だけだ。


 ハチローが姿を消して、トモコや他の兄弟たちが混乱する中、トウヤの脳内にはその言葉が浮かび、気づいた頃には森を疾走していた。


 ハチローが居るのは、森の奥にある大穴の中。


 夜の森は3メートル先も見えない程の暗闇に包まれており、ここを迷わず抜けられるのは、毎日トレーニングでここを通るトウヤぐらいなものだ。

 一刻も早く広場に辿り着く為に、スタミナガン無視のペースで終始全力で走る。


「──着いた」


 記録・2分14秒。

 自己ベスト更新──なんて呑気な事を言っている暇は、今のトウヤには無かった。


 昼間でさえ底が見えない大穴は、その闇を更に深くして、トウヤを待ち構えている。


「ミイラ取りがミイラに……だけは勘弁だな」


 なにぶんこの視界だ。ハチローの下に辿り着けたとしても、結局トウヤも迷子になって、二匹でワンワン鳴いてトモコの助けを待つのは遠慮したい。


 下に何があるか分からない以上、策も無しに救助に向かうのは非常に危険──。




『────グロロロロォォォ……』


「ッ!!?」



 ……今、大穴から聴こえてきたのは幻聴じゃない。

 それだけがトウヤに理解できた。


「今のは……!?」


 ハチローの鳴き声ではないのは確かだ。だがそうなると、大穴の中にハチロー以外にも何かしらの生物が居るということになり……、


「こ……この下に、一体何が居るってんだ……!?」


 まるで亡者たちが、この世の生きとし生けるものに地獄から呪いをかける怨嗟の声のような、そんな不安を煽る声だった。

 ……もしかすると、この下にはとんでもないものが潜んでいるんじゃないか。


 右も左も分からないような暗闇と、大穴の底に存在する、得体の知れない声の主。

 単独で大穴に入るのは危険、と本能が警鐘を鳴らすが──、


「……だったら尚更、早く助けに行かねーといけねェだろ……。認めたくはねーが、今の俺とアイツは兄弟なんだからよ」


 トウヤはそれでも、ハチローの救助を決意する。

 別にハチローが心配とかじゃない。ただ、兄弟の居場所が分かってるのに見捨てるのは、『人間』のやることじゃないと思ったから。ただそれだけのことだ。


「一番隊隊長、ミクリ・トウヤ──参る」


 名乗り、勢いよく大穴に飛び込んだトウヤ。すり鉢状に続く道の一段下に着地し、そこからグルグル回って下へ下へと向かってゆく。


 恐怖心も憂いも捨てた。

 唯一、心残りがあるとすれば、それは未だに何の一番隊か決めてないことだけだろう。


────────────────────


 大穴の中は、淡い光を放つヒカリゴケがびっしりと壁に生えているおかげで、想像よりも幾分明るかった。むしろその所為で、自分が今、地下何メートルの地点に居るのかすら判別がつかない。

 下を見ても闇、上を見ても闇、今にも消えてしまいそうな儚い光だけが、トウヤに進むべき道を教えてくれた。


 闇の中をしばらく進むと、やけに広い場所に出た。

 一瞬、知らない内に広場に戻ってきてしまったのかと錯覚するトウヤだったが、それは杞憂に終わる。



 ──大穴の最深部、地下空洞。


 暗さ故か、元々そういう色なのか分からない黒い地面を踏みしめ、トウヤは眼前に広がる幻想的な風景に、場違いな感動を覚えていた。


 そこは、大穴の入口がある広場よりも広い空間だった。何本もの鍾乳石の柱がその空間を支えており、特に目を奪うのは、青白く光り輝く広大な地底湖だろう。シン、とした静寂も、その地底湖のファンタジーさを助長する原因の一つだ。


 トウヤが元々いた世界でも、青く光る洞窟というのは存在する。

 それは水中に生息する大量のプランクトンが原因だとか、湖底の石灰岩が日光を反射するからだとか、そんなのを謎解き冒険バラエティー的な番組で見たような気がする。もしかしたら全く違う要因で光っているのかもしれないが。一応ここ異世界だし。


「思い返してみれば、現時点でのこの世界の異世界要素って、トモコの魔法ぐらいしか無くね?」


 それも、魚を捕るという粗末な目的で。

 自分では使えなくとも、魔法初見のイベントぐらいは大事な場面に取っておきたかったトウヤだったが、あの面食らった思い出は掘り起こすまいと忘れることにした。


「つーか、異世界だったらそろそろスライムやゴブリンの1匹ぐらい出てきたりしねーの?」


 これだけだだっ広い洞窟なのだから、魔物の一匹や二匹とエンカウントしてもおかしくない。

 一瞬、「アレ、もしかしなくても今のフラグ?」という危機感をトウヤは抱いたが、それは直後にトウヤの目に映ったものに掻き消されてしまった。



「あれは──、ハチロー!!」


 そこに倒れていたのは、大穴に入ってから行方を眩ませていたハチローだった。

 白い体毛を血と砂埃で汚してこそいるが、

息はしているし、脚を折っているような重体でもなく、只の軽傷で済んでいる。

 今は気絶しているので、トウヤにとっては貴重な敵意の無いハチローの表情を眺めることができる。


「ったく、心配かけやがって……。このツケは目ェ覚めてからにでも払って貰うからな」


 気絶したハチローをしぶしぶ背に乗せて、洞窟を後にしようとするトウヤ。早速、普段の筋トレの成果が出た。


「……入ってこれたのは良いけど、引き返そうとすると呪い掛けられたりとかしねーよな……」


 某漫画の巨大縦穴では、一旦下に下りると、上へ戻る際に悪質な呪いを掛けられるという。

 流石にそれと比べると遥かに浅い穴だし、元の世界の概念がどこまで異世界に通じるかは分からないが──、



「そういや、あの鳴き声……」


 大穴に入る前に聴こえた謎の声。その正体が未だに分からない。


 思い出した途端、急にトウヤの心に捨てたはずの恐怖心が芽生え、焦燥感が湧き始める。早く、早く戻らなければ。



 ──ここに居てはいけない。




『──グロロロロロロォォォ!!!』


 耳が張り裂けるような轟音と共に、美しい地底湖からそれが浮上する。


 身震い一つで海を荒らせてしまうのではないかと思うほどの、途方もない巨躯。


 トウヤたちが米粒のように見える、スケールが違いすぎるプレッシャー。


 地底湖の光を乱反射する、銀色の鱗。

 凶悪な牙を覗かせる大口は、下手をすればあのトモコでさえも丸呑みにしてしまいそうだ。


「こんな、の、アリか……? ハハ……。

ふざけろ……、よ……」




 ──大穴の主、白銀の大蛇が、深紅の双眸でトウヤ達を睨んでいた。

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