第20話
「もう少し様子を見よう」
そう呑気に言ったのは、誰あろうスルズ・バルナ准将だった。その表情も立ち姿も、相変わらず冷淡だ。まるで無関心に、他人同士がプレーする盤上のゲームを眺めているかのように見える。
僕にも少しはそんな冷静さがあればよかったのかもしれない。だがそんなことを考えても、気づいた時には後の祭りだった。
「貴様、何をする!」
「手を離せ、曹長!」
憲兵たちから怒号が響く。僕はぐっと背伸びをし、そのまま腕を上に突き出していた。その手先には准将の襟が握られている。
僕に跳びかかろうとした憲兵を、しかし准将は片手を上げて制する。その目は相変わらずひんやりとした温度を保っていた。
「上官への暴力行為は軍法会議ものだが、そんなことを私は脅しには使わないよ、スドウ曹長」
「……」
「問題は、一体何が君をこんな行為に駆り立てているのかということだ。考えてもみたまえ。私の部下たちとて、この狭い空間で君を射殺することは困難だろう。だが、関節技だけでも君を殺すことはできる。それを知らん君ではあるまい?」
その言葉を受けながらも、脳の片隅ではカレンが苦戦しているのを感じ取っている。するとそれを察したのか、微かに首を傾げて准将はこう言った。
「君は軍人には向かないのかもしれないな。争い事は嫌いだろう? それも、自分の親しい人物が巻き込まれているとすれば。だが実際問題、君は何をしている? 立派な戦闘支援行為だよ? 相手が敵国のパイロットだからといって、あまりに殺傷しすぎではないかね?」
「それは……、それは僕たちが望んだことじゃない!」
「だが抵抗もしなかった。違うか?」
「……」
「君は随分と必死なように見えるけれどね」
その一言が、僕の脳裏に火を点けた。自分を止めることも叶わず、僕は腕を引っ込め、その反動で勢いよく拳を突き出す。
しかしというべきか案の定というべきか、そんなものは通用しなかった。准将は軽く身を捻って拳を回避し、ごく軽く、しかし的確に僕の足首を蹴りつけた。
「うあ⁉」
僕は呆気なく転倒する。勢いそのままに、鼻先をしたたかに床に打ちつける。
直後、ぶふっ、という声とも音ともつかない空気の振動が感じられた。僕の顔面から発せられたことは間違いないようだ。
強烈な血の臭いに襲われる僕の頭上で、准将の声が響く。
「総員、聞いてほしい。本時刻を以てアルバトル強襲作戦は失敗と認め、中止する。全機、各発進基地へ帰投せよ。小隊隊長機は最後尾を警戒、味方が追撃されぬように。以上」
「う、あ……」
大した出血量ではないはず。だが、僕の眼前は真っ赤に染まったように見えた。それほど僕が、本物の血を見慣れていないということなのだろう。あるいは、暴力行為に直接触れてこなかったということなのかもしれない。
カレンは。カレンは無事なのか? そんな暴力の嵐の真っ只中から、無事に帰って来られるのか?
僕はくらくらする頭で、必死にテレパシーを練り上げた。
(カレン……、作戦中止だ。撤退命令が出た)
(……)
カレンのやつ、応答もせずに何をやっている? 味方がどんどん現場空域を離れているのに、このまま孤軍奮闘するのは危険すぎるではないか。
僕は再びカレンとシンクロを試み、直後に彼女が窮地に陥っているということを理解させられた。
カレンの呼吸は荒く、アクランの一部パーツはパージされている。被弾したのか、燃料切れか。いずれにせよ、使えなくなってしまえばそれはカレンにとって枷に過ぎない。
問題は、機関銃の予備弾倉があと一つしかないことと、ヒートサーベルのエネルギー残量が僅かだということ。
それに、カレン自身も無傷ではなかった。致命傷こそないものの、掠り傷は四肢に及んでいる。頬も煤で黒ずみ、また、疲労も蓄積していた。
(もういいカレン、止めるんだ! 撤退してくれ!)
(まだ戦える。何のために電磁スパイクを履いてきたと思ってるの?)
(まさか敵機を蹴りつけて撃墜するつもりなのか? 馬鹿はよせ!)
と僕が念じる間に、カレンは被弾させた敵機に突撃した。ぎゅるりと身を捻り、電磁スパイクでコクピットを蹴りとばす。
接触と同時に風防を粉微塵にし、高圧電流を敵機のコクピットに流し込む。操縦系統を滅茶苦茶にされた敵機は、呆気なく墜落していった。
次の敵機を迎撃しようとして、カレンの脳裏に焦りと苛立ちが雷光のように煌めく。機関銃の弾丸が尽きたのだ。
(畜生!)
カレンは機関銃を捨て、サーベルを放り投げた。迫っていた敵機は見事にコクピットから真っ二つにされる。これで身軽になったと言わんばかりに、カレンは急上昇と急接近を繰り返し、電磁スパイクをお見舞いし続ける。
カレンは死ぬ気なのではあるまいか。
そんな考えが胸中に芽生え、僕は鼻血を拭くのも忘れて再びレーダーサイトに見入った。冷房の利いている管制室内であるにもかかわらず、僕は全身から汗が噴き出すのを感じている。
カレンに死なれるわけにはいかない。こうなったら――。
(カレン、敵機の一部が君の頭上を通過した! 速度と方角から、この空軍基地を狙っているようだ!)
(何ですって?)
はっとした気配のカレンに、僕は大きな罪悪感を抱く。
今僕がいる空軍基地が狙われているなど、明らかな嘘だ。そんなに東進できる爆撃機は、ヴェルヒルブ空軍にも存在するかどうか疑わしい。
しかし、僕はさも怯えているような様子をテレパシー上で演出してみせた。
こうでもしなければカレンは戻ってこない。そんな強迫観念に囚われていたのだ。
戻ってこなければ、それは戦死したと判断されることになる。
後にどんな判断が下されようとも、このままでは確実にカレンは命を落としてしまう。
だからこそ嘘をついたのだ。もしカレンが少しでも僕たちを味方だと思ってくれていたら、間違いなく帰ってくる。僕たちの命を救うために。
そしてその時になってようやく、カレンは自らの無事を確認するだろう。誰も感謝しろとは言わないけれど。
「全機、敵機群の射程からの離脱を完了しました」
「よし。私はお暇しよう」
中佐の報告を受け、准将はそう答えた。って、何だって?
僕が鼻先を押さえながら振り返ると、准将もまた踵を返すところだった。
「ま、待ってください!」
「何かね、スドウ曹長?」
「まだ皆が帰投していません! 作戦は終了していないんです! それなのに――」
「そんなことは分かっている」
ぶがぶがと鼻づまりの声で訴えかける僕に背を向けたまま、准将は軽く肩を竦めた。
「私も多忙の身でね。今作戦の報告書を書かねばならないんだ」
「前線の兵士たちは、命を懸けて戦っています! 彼らが帰ってくるというのに、司令官であるあなたが真っ先に管制室を後にするなんて!」
本当は、カレンを労うべきだと言いたかった。彼女こそ散々敵機を退けてきたのだから。
そう思うと、つい封印していた言葉が出てしまった。
「あんたたち大人はいつもそうだ!」
一瞬で、管制室が静まり返る。
「僕たち子供を危険に晒してきて、守ろうともしないで自分たちばかり逃げ回って! 戦争を起こしたのはあんたたちだろうに!」
鼻血が周囲に撒き散らされる。それ以上に、僕の怒号が空気を震わせた。
「子供を矢面に立たせて、責任も取れずにいるなんて恥ずかしくないのか! この臆病者!」
「ケンイチ・スドウ曹長」
僕の怒鳴り声がマグマなら、准将の発した僕の名前は氷河のごとき冷気を纏っていた。そしてそれは、怒鳴り声の熱気を吹き散らすのに十分な威力を誇っている。
「この場で君を断罪することもできるが、控えておこう。やはり君は、軍人には向いていないようだ」
「な、何を今さら……」
「今だから言うんだよ。君は軍人である以前に、人間として力不足だ。自惚れるのもそこまでにしておいた方がいい。君に誰かを救うほどの力は、これっぽっちもない」
「ッ!」
僕は無意識のうちに、しかし本気で准将の背中に跳びかかった。足の裏で床を蹴り飛ばし、思いっきり腕を振りかぶる。
もう一度床に叩きつけられたって構わない。僕を止めることはできないと思い知らせてやる。
しかし響いたのは、拳が肉を打つ音でも、僕の頭が床に激突する音でもなかった。
音はしない。僅かたりとも。
准将は振り返ることなく、僕のこめかみを片手で掴み込んでいた。
「……」
宙ぶらりんで完全に動きを封じられた僕。准将は僕を放り投げるでも、何かに叩きつけるでもなく、そっと床に足が着く高さまで下ろした。
「憎むべき相手に拳すら届かないのか」
口元を歪めながら僕を一瞥し、憲兵を伴って去り行く准将。そんな彼に再度殴りかかる余力は、僕には残されていなかった。
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