第16話
洗面所で冷水を顔に浴びせる。それでは物足りず、身を乗り出すようにして頭から冷水を被る。
これで顔は綺麗になったが、目が充血しているのはどうしようもなかった。まあいいか。大尉の前で空元気を発揮するほど、僕は強い精神を持ち合わせているわけではないし。
噂をすれば、件の人物の気配が洗面所の出入口から感じられた。
「すっきりしたか、ケンイチ?」
「ええ、まあ」
僕は中途半端に答えながら、タオルで顔を拭う。
「屋上へ行こう。まだ星が見えるかもしれん」
その大尉の提案は、僕にとってはちょっぴり意外だった。大尉はそんなロマンチストではないはずだが。
そんな僕の疑念など知ったことではないのだろう。大尉は僕に先立って地上一階へ上がり、そのまま階段を上って屋上へと姿を消した。
僕は全身脱力状態のまま、だらだらとついて行く。
屋上への出入口は、バールでこじ開ける蓋が載せられた構造になっている。僕が下から押し上げようとすると、大尉が引っ張り上げてくれた。
「大丈夫か?」
そう尋ねられて、はい、と答えられたら幾分楽だったかもしれない。だが、僕はこちらに手を差し伸べる大尉の瞳に、何某かの含みがあるのを感じた。
大尉は僕が屋上に出ることについて、確認を取ったのではない。昨日の会話の続きとして、僕のことを心配しているのだ。
でなければ、こんなに目元を歪めているわけがない。僅かな月明りの下でも、そのくらいは見えた。
僕が無事屋上に這い出てきても、大尉は目元の緊張感を崩さない。やっぱりそうか。
「大尉、過度な心配はしないでください。僕だって軍属の端くれです。戦う覚悟はできてます」
「いや、昨日の一悶着を見るに、俺にはそうは思えんが」
「それは僕が、僕自身の力で解決します。ご心配なく」
すると大尉は両眉を上げて、分かった、と一言。納得したというよりは、僕のことを強制的に自分の脳内から叩き出した、と言った方が正しいかもしれない。
「それで、何のお話なんです? 昨日の一件を蒸し返すのが狙いではないんでしょう?」
「おう」
そう言うと、大尉は屋上中央まで無造作に歩き、どっかりと腰を下ろした。
僕に座れと言いたいのだろう、自分のそばを叩いている。大尉はあぐらで、僕は体操座りで尻を屋上につける。
「昨日カレンが回収したボックスから、二つの事実が発覚した」
「というと?」
「一つ目は、カレンが二度目の出撃時に交戦したヴェルヒルブの新型機のことだ。あれはⅤ型戦闘機。複座式で、絶大な射程と誘導機能を有するミサイルを搭載している。一機に搭載可能なミサイルは三基だ」
僕は膝の間にぐいっと顎を埋めた。
「二つ目の事実だが――。これはまだ曖昧な部分が多いんだが、アルバトルでの化学兵器工場の再稼働が確認された」
「化学兵器工場? アルバトルで?」
「ああ」
アルバトルは、歴史上最も流血で汚されてきた土地だ。ずっと昔からエウロビギナとヴェルヒルブは、この資源豊かな山脈麓の土地を取り合ってきた。今現在はヴェルヒルブに占拠されてしまっているが。
「そこに、航空機での攻撃作戦が計画されている」
「た、確かに地理的な問題はないでしょうが……。あの鉄壁の航空防衛線を破れますか?」
「やるしかあるまい。化学兵器? そんな危なっかしいものの製造を、みすみす指をくわえて見ているわけにもいかんだろう」
「ふむ……」
「その作戦会議が明後日に開かれる。場所は中央都市・メリドだ。質問事項は?」
「いえ、特には――ああ、いや。大尉、どうして僕を屋上に連れ出したんです?」
「星が綺麗だろう」
そう言われて、僕は少し背を伸ばして顔を上げた。
すると、ちょうど一筋の流星が視界を横切るところだった。
「あっ……」
「願い事は唱えられたか?」
やや悪戯っぽい口調で大尉が言う。こんな一瞬で、無理に決まっているだろう。
だが、僕は不思議と不快感が湧いてこない自分に気づかされる。
「また誘ってやるから、次は覚悟しておけ」
そう言って大尉は立ち上がり、屋上と一階を繋ぐ階段の蓋を引っ張り上げた。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。真剣な話題が終わって、大尉の方も肩の荷が下りたのだろう。
階段を下りながら僕は考える。
僕は、流星に関することは大いなる迷信だと思っている。大尉だって、本当はそうだろう。
それでも彼は迷信に頼り、僕を勇気づけようとしてくれた。
もしかすると、人を殺す以外にも生きていく選択肢はあるということを伝えたかったのではないか。
「どうした、ケンイチ?」
「いえ、何でもありません」
大尉は僕に続いて自身の身体を滑り込ませ、がたん、と勢いよく蓋を閉めた。
※
翌々日、明朝。
「皆、揃ったな?」
「はッ!」
ぴしりと両足の踵をつけて、ユウジが大尉に敬礼する。その隣には僕とカレンが並び、こくこくと頷いていた。
「では、これより機密会議が実施されるメリドに向けて出発する。皆、水と最低限の武装は持ったな?」
「はッ!」
再び敬礼するユウジ。だが、僕はそんな彼のこめかみにデコピンを食らわせた。
「ちょっ、何すんだよ!」
「そんな勢いよく敬礼したら、僕たちが軍属だとバレるぞ。それに、上着が浮き上がって腰に差した拳銃が見えるじゃないか。もうちょっと注意してくれ」
ちらりと隣のカレンに目を遣ったが、何とも思っていない様子で首をくるくる回していた。会議なんかを開くより、さっさと任務にあたらせろ。そう言いたがっているかのようだ。
大尉はそんな僕たちに構わず、さっさとトラックに向かっていく。生憎、僕たちが乗れるのは荷台になるが。
「気分が悪くなったらすぐに言えよ。荷台を汚されたら、困るのは俺だからな」
背を向けたまま、大尉はそう言った。そのまま運転席に乗り込む。ちなみにトラックの幌は、来た時とは違って市街地迷彩のものに取り換えられている。濃緑色でなく、灰褐色だ。
不満げな顔をし続けるユウジのそばを通り抜け、僕は最初に荷台に乗り込んだ。ついて来たのはカレンだ。退屈極まったのか、大口を開けて欠伸をするのを憚る様子もない。
僕と向き合うように座り込んだカレンを見て、隣にいたユウジがすぐさま彼女の隣に移動した。
まったく、二人共恥じらいというものがないのだろうか?
いや、戦いの中に躊躇いを感じている僕の方が無様だろうか。夕食時のことが思い出されたが、しかし僕は頬をぱちんと叩き、あの遣り取りを脳内から追い出した。
僕がふっと息をつくと、何の前触れもなくトラックは発車した。思いの外身体が傾いたので、僕は片腕を立てて身体を支える。
「おっと! カレン、大丈夫?」
そう言ったのはユウジだ。余計な心配をするユウジに、頷いてみせるカレン。何もそんな気遣いをし合うこともなかろうに。
(ケンイチ、あたし寝るから。着いたら起こして)
(ああ、分かったよ)
するとカレンは、べったりと背中を荷台の内壁に預け、すぐさま眠りに落ちてしまった。
「ん? ケンイチ、今カレンは何か言った?」
「いや、何も」
さらりと受け流す。ユウジの癪に障るようなことを言って、無駄に疲れることもあるまい。
「あっそ」
するとユウジも、うつらうつらし始めた。先ほどの気合いはどこへ行ったのか。
ことり、とユウジの頭が傾き、カレンの上腕あたりに触れる。僕は思わず、そして不覚にもはっと息を飲んでしまった。
決してユウジを妬んでいるわけではないと自分に言い聞かせるのに、少々時間と労力を費やした。
※
「到着だ」
大尉の声と共に、ぎしり、と音を立ててトラックは停車した。
すぐさま目を覚ましたカレンが立ち上がる。お陰で頭を預けていたユウジは横転し、側頭部をしたたかに床に打ちつけた。
僕も腰を上げて荷台を降りる。既に背中は汗びっしょりだ。
「痛いじゃないか! カレン、せめて一声かけてくれよ!」
「馬鹿だなユウジ、暑さで頭がやられたのか? カレンは喋ることが――」
できないんだ。そう続けようとして、僕は言葉を失った。それほどの惨状が、眼前に広がっていた。
まず目についたのは、生々しい空襲の傷跡だった。
いくらカレンとて撃墜できる敵機には限りがある。僕たちの探知できない空域を抜けて、この街に多くの爆撃機が襲来したのだろう。
歩み出そうとして、慌てて足を引っ込めた。目の前の地面が陥没している。間違いなく爆弾によってできたクレーターだ。
加えて、建築物の上部には無数の銃痕が見受けられる。低空から戦闘機の機関砲を浴びたようだ。
「酷いな……」
そう呟く間にも、多くの避難民が視界を横切っていく。ひたすら東へ、東へと。
皆みすぼらしい格好をして、着の身着のまま、あるいは大きな鞄を持ったり担いだりして重い足取りで流れてゆく。
一際大きな荷物を背負っているのは商人だろうか。商品が自分の命より大切なはずがないだろうに。
僕はふーーーっ、と長い溜息をついた。
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