第8話

 彼の背後から鈍い音がした。ドゴッ、とかゴフッ、とかそんな音。僅かに苦痛を訴えるような響きが混じっている。

 

 ガキ大将は僕を掴んでいた手を離し、振り返る。

 そこに立っていたのは、初めて目にする少女だった。やや短めの黒髪に、すっと通った鼻筋。切れ長の瞳には暴力衝動の火が燃え盛っている。


「何だあ、てめえは!」


 取り巻きたちが少女を包囲する。しかし少女は余裕のある素振り。ただし、それは緊張感の弛緩とは違う。冷静に、取り巻きたちの動きを観察しているのだ。

 倒された二人を除き、取り巻きは残り四人。それにガキ大将本人。五対一だ。どう考えたって分が悪い。


 僕だってこの三日間、ぼさっとやられっぱなしだったわけではない。取り巻きといえど、彼らの喧嘩のテクニックには(少なくとも当時の僕には)目を見張るものがあった。

 少女は、最初の二人は不意討ちで倒したのだろうが、このままではボコボコにされてしまうのは目に見えている。


「逃げろ!」


 いつの間にか、僕は叫んでいた。尻餅をついた、無様な格好で。


「逃げるんだ! 敵いっこない!」

「うるせえ!」

「がはっ!」


 ガキ大将の爪先が僕の顎に入る。両手をついてなんとか転倒は免れた。


「お手並み拝見だ、嬢ちゃん。俺たち五人を倒したら、俺たちの分の朝食は持っていっても――」


 しかし、ガキ大将は言葉を止めた。否、失った。

 少女は自分の呼吸が整ったタイミングで、一気に取り巻き四人を蹴り飛ばしたのだ。

 まともに蹴りを喰らった二人がダウン。残り二人も腕を痛めた様子。

 少女に情け容赦というものはなかった。立っている取り巻き一人の腕をぐいっと引っ張り込み、反対側の取り巻きに向かってぶん投げた。

 二人はもんどりうって転げ回り、腕が痛いと言ってべそをかきはじめた。


「こ、このアマ……許さねえぞ!」


 ついにガキ大将が少女の正面に立ちふさがった。それに対し、軽く髪をふわりとさせる少女。

 だが、この時気づいてしまった。ガキ大将がズボンのポケットから、ペーパーナイフを取り出すのを。無論、少女がいる角度からは見えていないはずだ。


「待って! こいつ、刃物を持って――」


 注意を促そうとしたが、やはり僕の言葉は無視された。

 ひゅん、と音を立ててナイフが空を、そして少女の肌を斬る。

 だが斬れたのはそこまでだ。ただ一滴の出血もなく、少女はガキ大将の懐に入った。


 そこから先、ガキ大将に為す術はなかった。連続で叩き込まれる拳。ときたま入る肘鉄。決め技は近距離からの顔面回し蹴りだった。


「ぶはっ!」


 鼻血と涙と鼻水で、無様な体たらくのガキ大将。その手元には、しかしナイフが握られている。それが目に入ったはずだが、少女は眉一つ動かさない。


「死ねえ!」


 手中のナイフが少女に届く直前、彼女の履いていたブーツが振り下ろされた。メキリッ、と嫌な音がして、ガキ大将の肘はあらぬ方向に曲がってしまった。


 教会の講堂内に響き渡る絶叫。

 ひとしきりその反響が止むと、少女は途端に興味を失った様子だ。これ以上ガキ大将たちに振り返ることなく、密かに逃げようとしていた僕の前に立った。


「ひっ!」


 この状況。命乞いをすべきだろうか? それとも感謝を伝えるべきか? 頭の中が滅茶苦茶になり、結局僕が発したのはこんな言葉だった。


「ぼ、僕を食べても美味しくないぞ!」


 全く以て頓珍漢な発言である。が、少女は僕の前にしゃがみ込み、手を僕の顎に遣った。じっと僕の顔を見つめてくる。

 母親以外の異性からこんなに見つめられたのは初めてだ。正直、ドギマギした。


 少女の目は相変わらず冷徹なまま。しかしそこに攻撃の色はなく、どちらかといえば観察している様子だ。


 しばしの後、少女は僕を一際鋭く睨みつけた。ここを動くな、とでも言うように。

 見つめていると、少女はガキ大将の分だったはずのパンとスープを持ってきた。

 ああ、あれを食べれば、少なくとも今日は生き延びることができる。

 

 そんな安堵からか、僕はそのままばったりと仰向けに倒れ込んでしまった。


         ※


 気づいた時、まだ日は高かった。寒いことには変わりないが、今日はまだマシな日だ。

 そんなことを実感しながら身を起こすと、眼前に少女の顔があった。


「うわっ!」


 女性と顔を合わせた際に取るべきリアクションではあるまい。だが、少女の顔が目の前にあったことは事実だ。

 相変わらず少女の目は冷たいものだったが、冷徹ではなく冷静といったところ。僕を敵視しているわけではないらしい。

 背中を石壁に預けた僕に対して、少女は何かを口に寄せてきた。パンだ。スープに浸して柔らかくしてある。


「これ、君の……」


 少女は首を横に振る。

 ああ、自分の分はきっちり食べて、ガキ大将の分を僕に食べさせるつもりなのか。


「どうして、君が食べないの……? 皆、栄養失調、なのに……」


 そこまで言っても、少女は頑なにパン切れを僕の前に翳し続けた。やがて、僕の唇にそって、パン切れを擦りつけ始める。

 パン切れから染み出た水分が、僕の唇を濡らす。微かに僕の喉が唸りを上げる。気づいた時には、僕はぱくり、とパン切れを口に含んでいた。

 すると、すぐさま同じようにスープに浸されたパン切れが僕の口元に差し出される。


 そんなことを繰り返している間に、僕は再び眠りに就いてしまった。


         ※


 今思えば恥ずかしい限りだ。あれではまるで餌付けではないか。

 だが、僕の生きることへの衝動を取り戻してくれたのは他でもないあの少女だ。


 その日の夕飯は一人で黙々と食べた。午後一杯皆の様子を見ていたが、ガキ大将が無様に、呆気なく倒されたあの状況を見て、誰も騒ぎ立てようとはしなかった。

 今まで不自由させられてきた皆の、ざまあみろという気持ちが空気中を漂っている。


 その後数日にわたって、ガキ大将とその取り巻き、すなわち少女に倒された計七人は、次々に命を落とした。腕の負傷が原因だ。上手く食事を摂れずに死亡する者がほとんどだったが、どうもリンチに遭った形跡のある者もいた。


 それに対して、大人たちの反応は実に淡泊だった。僕がここに来た初日同様、遺体を担架で運び出していく。

 どうやら死因が気になる様子ではあったが、誰も事実を口にはしなかった。少女を庇う意味合いもあったのだろう。


 その間、僕は時折少女の隣で時間を過ごした。どちらからともなく僕たちは互いの場所を確保し、何とはなしにふらふらとやってきて、腰を下ろす。

 何かを喋り出すでもない。増してや肩を組もうというのでもない。ただ、僕が今まで生きてきて、異性を始めて意識したのはこの時だと思う。それが恋愛とまでは言わずとも。


 少女がガキ大将を叩きのめしてから、約一週間後。

 いつまでも『少女』では不似合いなので、僕は思い切って彼女に声をかけることにした。


「あの、この前は助けてくれてありがとう。危うく飢え死にするところだった」


 少女は僕に一瞥をくれたが、すぐ正面に顔を戻してしまった。


「僕はケンイチ。ケンイチ・スドウ。十日くらい前からここにいる。君は?」

「……」


 そこまで訪ねて、僕は自分があまりにもデリカシーに欠けていることに気づいた。


「ああ、ごめん。あんまり他人のことを詮索するのはよくないよね」


 すると、少女はがしっと僕の肩を掴み、そちらに振り向かせた。


「えっ? あっ、ごめん、怒った……?」


 しかし少女は、そんなことは関係ないとばかりにかぶりを振った。それから真上を向き、その白い喉元で、両手の指を交差させ、バツ印を作ってみせた。

 そうして僕は、はっとした。


「君、喋れないのかい?」


 やっと通じたのか。そう言わんばかりに肩を竦める少女。


「じゃ、じゃあ、僕は君を何て呼べばいい?」


 すると、少女は目を見開いてこちらを見た。まるで、自分が興味の対象になっているとは夢にも思わなかった、とでも言いたげだ。


 ごめん、と繰り返そうとした僕の前で、少女は小さな瓦礫の一片を取り上げた。それで、石壁に傷をつけていく。文字を書こうとしているようだ。

 僕はじっと、その傷が描く文字を見極めようとする。


「カ……レン、ス、ミ。カレン・アスミ。そうか、君はカレンっていうんだね?」


 少女――カレン・アスミは、再びやれやれとばかりに肩を揺すった。

 しかし僕は、名前を知ったことで俄然彼女に興味が湧いてきた。


「どうして僕を助けてくれたの? って、ごめん、君は喋れないんだったね」


 じろり、とこちらを睨むカレン。やはり触れてはいけない話題であるようだ。

 もしかしたら、彼女が喋れないというのは、病気や怪我ではなく先天的なものなのかもしれない。いや、でも極度のストレスによるものだったとしたら、後天的というべきか?


 いずれにせよ、いつかカレンに恩返しができたら、という気持ちになったのは事実だ。彼女が喋れるようになるかどうかは分からないけれど。

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