第7話【第二章】

【第二章】


「もうじきね」

「ああ」


 言葉を交わしているのは、僕の両親。そして僕が座らされているこの場所は、父親の運転する車の後部座席だ。

 車といっても、随分とガタがきている。僕は子供心に、突然タイヤやドアが外れて車外へ放り出されるんじゃないかとひやひやしていた。


 そして、先ほどから繰り返し頭にこびりついていた疑問に再び対面した。

 父さんも母さんも、僕をどこへ、何の目的で連れていくつもりなのだろう?


 ふと顔を上げると、雪が舞っていた。暖房機能の停止した車内で、僕は両の掌を擦り合わせる。

 だがまさか、こんなことになるとは思ってもみなかった。外されるのはタイヤでもドアでもなく、この僕自身だったのだ。


「到着だ」


 父親が、続いて母親が車を降り、顎をしゃくって僕にも出るように促す。

 未舗装の車道に降りると、寒さが足元から急激に這い上がってきた。その僕の眼前にあったのは、自分の背丈よりずっと高い鉄柵。それに、奥には教会と思しき石造りの厳めしい建物があった。


「さあケンイチ、行くわよ」


 温かいとも冷たいとも言い切れない口調で、母親が言う。鉄格子は既に開いていて、父親は車のそばで待機していた。

 しばらく内側に入っていったところで、母は唐突に『いけない、忘れ物をしたわ』と一言。

 その言葉に胡散臭いものを感じて、僕は母親の背中を見つめた。すると、ギイッ、と鈍い音を立てて、父親ともう一人の男性が鉄柵を閉じようとしているところだった。


「か、母さん! ちょっと待って!」


 足をもつれさせながら、なんとか追いすがろうとする。しかし、僕が母親の肩に手を遣る直前、鉄柵は完全に閉じ切られてしまった。


「母さん! 父さんも、これはどういうこと?」


 がたがたと鉄柵を揺さぶりながら、僕は声を張り上げる。しかし、しゃがみ込んで視線を合わせた母親の発した言葉がこれだ。


「戦争さえなかったら、お前をこんなところに預けはしなかったんだよ」

「えっ……」


 僕を、預ける? どういう意味だ? いやそれよりも。


「いつ迎えに来るの?」


 母親は斜め下に視線を遣ったが、すぐさま立ち上がって父親と合流し、車に乗り込んでしまった。


「ね、ねえ! 待ってよ! 母さん! 父さん! 一体僕はこれからどうなるの?」


 僕がまた声を上げようと、空気を思いっきり吸い込んだその時、がぁん、という鈍い金属音と共に、鉄柵が震えた。


「ひっ!」

「ったく、ギャーピーうるせえガキだな。今日からてめえの家はあっちだ、さっさと歩け!」


 そう言ったのは、父親と共に鉄柵を閉めていた男性だった。四十代くらいで痩せ細っており、無精髭を生やしている。そして彼が指さしている方には、教会らしき建物。


「おら!」


 頭部を小突かれ、僕は否応なしに歩み出した。男性は建物入り口の木製ドアを押し開け、こう言った。


「今日からここがお前の寝ぐらだ。精々仲良くやるんだな」

「それってどういう――」


 意味を尋ねる前に、男性の姿はドアの向こうに消えていた。


 ひとまず僕は、状況を整理することにした。建物の構造からして、ここが教会である、あるいは教会だったことは間違いないようだ。

 建物の中だというのに外気と同じくらい寒く、僕はぶるりと全身を震わせた。


 だが一番の注目点は、その環境ではない。ここには、数十名の子供たちがいた。皆が汚らしい、寒々しい格好をして、互いに肩を寄せ合ったり、ぼそぼそと何かを呟き合ったりしている。


 後に聞いた話だが、ここは実際の教会だったそうだ。しかし、神父が兵士たちの安全を祈念すべく従軍を志願し、管理者不在のまま孤児院のような場所になったのだとか。


 それゆえ、管理は極めて杜撰で、それはここに集う子供たちへの直接的な打撃となった。衛生管理も不十分だったから、気づいた時には僕は鼻を手で覆っていた。


「よう」

「ッ!」


 突然声をかけられ、僕は慌てて振り返った。そこにいたのは、僕より頭二つ分はでかい、しかしそれなりに痩せた姿の大柄な少年だった。


「新入りだな? いいもん着てるじゃねえか」


 にやり、と不快な具合に口元を歪める少年。彼の言う『いいもん』とは、きっと僕が着ているジャンパーのことだろう。

 

 僕が何をどうしたらいいのか分からないでいると、大柄な少年、いわばガキ大将の右の拳が僕の左頬を打った。


「うわっ⁉」


 何の覚悟もしていなかった僕は、無様に尻餅をつく。するとその隙に、後ろで待機していたらしいガキ大将の取り巻きが、僕の両腕を押さえつけた。


「止めろ! 放せ!」


 僕は全身の力を込めて抵抗したつもりだったが、それが取り巻きたちから暴力を引き出す結果になるとは。


 こうして僕は呆気なくジャンパーを奪われた。


「ふん、大人しく渡してりゃあ子分にしてやったのによ」


 そう言って、比較的暖かい奥の方へと歩いていくガキ大将、それに取り巻き。蹴りつけられた脇腹が鈍痛を訴えている。

 僕は悟った。ここは弱肉強食の世界だ。どうにかして水分と食料を確保しなければ。


 そう思っていると、唐突に木製ドアが開いた。何事かとそちらを見遣ると、先ほどの男性ともう一人の男性が担架を持って入ってくるところだった。

 ざわり、と場が波打って、皆が道を空ける。寝そべっている一人を除いて。


「ったく、好き勝手にくたばりやがって。政府からの補助金が一人ぶん減っちまうじゃねえか」


 男性二人は、寝そべっていた子供を乱雑に担架に載せ、二人がかりで運び去っていった。

 これが、僕がこれから生きていく世界なのか。季節外れの汗が背中を伝うのを感じつつ、僕はその場で体育座りをして、ぼうっ、と周囲を眺めていた。


         ※


 教会での生活が始まって、三日目の朝。僕はここでの生活に身体を慣らそうと努めていた。

 まず、食事。朝と夕の二回、固くて黴臭いパン切れと、豆の浮かんだどろりとしたスープが配られる。

 睡眠はいつ取ってもいいが、気温によってはそのまま低体温症で命を落とす危険もある。


 だが一番の問題は、名前も知らないガキ大将の存在だった。ジャンパーを着ていたことで目を付けられたらしく、僕はこの三日間たかりに遭って飲まず食わずの状態だった。

 食事の代わりに与えられるのは、鉄拳だったり、爪先だったり、時には投げ技だったりした。


 一度、僕がスープを零してしまった時など、取り巻きの一人が床を舐めるようにしてスープに食らいついていた。


 それを見て、僕の胸中には二つの気持ちが生まれていた。

 一つは、こんな犬畜生のような生活を強いられるという絶望感。

 もう一つは、戦争とはここまで人間の品位を失わせてしまうのかという諦念。


「よう、厚着野郎。お前、自分のパンはどうした?」


 その言葉に、僕は自分の身が凍りつくような感覚に囚われた。言うまでもなく、ガキ大将だ。


 スープのトレイを取り落とした僕は、せめてパンだけでもと思ってズボンのポケットに突っ込んでいた。だが、それも見透かされていたらしい。


「厚着野郎、よーく聞けよ? 今後俺に少しずつ貢いでくれるってんなら、今日はこれで済ませてやる。お前、だいぶ血色が悪くなってるしな。まだ死にたかねえだろう?」


 確かに、こんな劣悪な環境で生きていくには必要な手段かもしれない。だが、僕にはそれがどうしても納得できなかった。

 ガキ大将の態度云々ではない。戦争という概念そのものに対して、冷徹な怒りに似た感情を覚えていたようなのだ。


 気づいた時には、僕は再びガキ大将の鉄拳を浴びていた。ばたり、と無様に倒れ込む。取り巻きたちがげらげらと下卑た声で笑う。

 しかし、そんなことはどうでもいい。戦争だ。戦争さえなかったら――。


『――お前をこんなところに預けはしなかったんだよ』


 そんな言葉を、実の子である僕に対して母親に言わせた戦争。

 人間の歴史は、闘争の歴史だったという。それが本当なら、もうどこにも救いの道はない。


 ただ、僕は抗ってみせる。どうせ死ぬのだ。だったら人間の、人間たる所以とも言うべき戦争というものに、自分なりに対抗してみせてやろうじゃないか。戦争という色に染められることなく死んで、一矢報いてやろうじゃないか。


 気づいた時には、ガキ大将は再び僕の襟首を掴み、腕を振りかぶっていた。でも恐怖は感じない。僕の目は、ガキ大将ではなくその背後、彼を暴力行為に駆り立てる戦争へと向けられている。


 殺したければ、殺すがいい。だが、僕は絶対に戦争なんてものに屈しない。

 生き延びようとも思わない。それでも、僕には僕の矜持というものがある。


 僕が妙に落ち着いて見えたのか、ガキ大将はなかなか殴りつけようとはしてこない。


「どうしたんだい、大将。僕は君の取り巻きにはならない。殺したければ、その立派な拳で好きにすればいい」


 思ったより、自分の声が明瞭だったことに我ながら驚く。


「てんめえ、舐めた口利きやがって!」


 ガキ大将が怒声を張り上げた、まさにその直後のことだった。

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