第3話

 ふと、妙な言葉が僕の口からそっと顔を出した。


「……綺麗だな」


 一瞬の間を置いて、リアクションが湧き起こる。


(はぁ? ケンイチ、突然どうしたの? ってかどこ見てんの? 変態?)

「ちょっ、待って! 違う! そうじゃない!」

(何がどう違うの?)

「いや、カレンの首筋が――」


 そう言いかけた直後、強烈な回し蹴りが僕の頭部を粉塵にせんと迫る。直撃。


「がぼっ⁉」

(やっぱりあたしを見てたんじゃない! 変態! いや、ド変態!)


 ううむ、流石にカレンも外見に全く気を配っていないわけではないらしい。だが、僕は純粋に綺麗なものを綺麗だと言っただけだ。下心があったわけではない……と信じたい。


 側頭部を押さえながら、やっとこさ立ち上がる。眼前には、腕を組んで殺人的な視線を寄越すカレン。それでも僕は、先ほどの準セクハラ発言を撤回する気にはなれなかった。


(ちょっと、立ったまま死んだわけじゃないんでしょ? アクランの残りのパーツ、さっさと外してくれる?)

「あ、ああ」


 僕は片膝を立てるようにして腰を下ろし、背を向けたカレンの背部と腰部、それに踵のジェットエンジンを外した。もう何百回と繰り返してきた所作だ。


「外したよ」

(それじゃ)


 それだけ伝えると、カレンはさっさと階段を上っていってしまった。

 礼の一言? そんなものを期待するほど、僕は自惚れてはいない。いや、カレンの優しさに対して期待をしていない、というべきか。

 七年前の『あの日』、僕はこれ以上ない優しさをカレンから授かっている。それだけで十分だ。


 すると、予想外のことが起こった。カレンの足音が止まったのだ。

 その違和感に、僕もエンジンを格納する手を止めて振り返る。立ち上がって階段の方を覗き込むと、カレンの背中が目に入った。同時に下りてくる小柄な人影も。

 その正体を察し、僕は声を荒げた。


「おいユウジ! 格納庫は立ち入り禁止だと言ったはずだぞ!」

「ずるい! ケンイチはずるいよ!」

「お前、何を言ってるんだ?」

「自分だけカレンと二人っきりだなんて! 怪しい!」

「あ、怪しい……?」


 どういう意味なのかと尋ねるより早く、ユウジは言い放った。


「どうせ二人でイチャイチャしてるんだろ!」


 吹き出す僕。固まるカレン。


「どうなんだい、二人共! 答えられない? 返事ができない? ほーら、やっぱりだ! 何かあると思ってたんだよ、カレンが出撃する度に。帰ってきたら地下に直行、そして俺だけ立ち入り禁止だろ? 怪しいったらありゃしない!」


 あまりにも突飛な考えに、僕の脳みそが再起動するのにしばしの時間を要した。


「誤解だ、ユウジ! 馬鹿なことを言うのはよせ!」

「そんなこと言えるのか、ケンイチ! 馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ!」


 って、そうしたらお互い様じゃないか。僕はなんだか疲れがどっと出て、深い溜息をついてしまった。

 

 ユウジを格納庫のある地下二階に入れないのには、ちゃんと理由がある。何でもかんでも触りたがるからだ。


 僕とカレン、それにユウジがこの基地に配属になった当初。ユウジは幼いながらにカレンの装備品を弄び、ジェットエンジンの出力設定を滅茶苦茶にしてしまった。

 もし僕がそのままカレンの出撃を許していたら、僕たちは基地の壁ごと木端微塵になっていたはずだ。僕の注意深い(カレンに言わせれば臆病な)性格の美点が発揮された瞬間でもある。ちゃんと出撃前の確認を怠らなかったのだから。


 まあ実際のところ、その件でユウジの手先の器用さが証明されたとも言える。この件を受けて、僕たちの親代わりであるアラン・マッケンジー大尉は、『せめてレーダーの整備くらいは任せてやってもいいのでは』と勧めてきた。

 僕たちそれぞれの命の恩人である大尉に言われては、少なくとも僕には反論の余地はない。


 結果、地上設備はユウジが、地下の装備品は僕が整備するということで決着がついた。

 ……はずだったのだけれど。


「なあケンイチ、俺だってずっと子供じゃない! ちゃんとアクランの整備もできるんだ! 銃器のメンテナンスだって、エアコンの調整だって、冷蔵庫の修理だって! それなのに、どうして俺にカレンの装備品の整備を任せてくれないんだ? やっぱり二人っきりになる口実を作るために――」


 そこまで言われた時、僕はテレパシー下で凄まじい熱が膨れ上がるのを感じた。


「カレン、よせ!」


 直後、ぼこっ、という鈍い音がした。

 これは、二人の間に起こった一種の悲劇だ。カレンは感情の表し方を知らず、ユウジは彼女の怒りの度合いが分からない。結果、カレンに頭部を掴まれ、壁に叩きつけられることとなった。


 こんな状況を正確に把握できたのは、恐らく僕だけだ。


「ぐ、あ……」

「ユウジ! 大丈夫か!」


 僕は階段を駆け上がり、倒れ込むユウジを支えた。危うく僕まで背後から落下するところだった。


「やりすぎだよ、カレン!」

(……)


 あれ? どうしたんだ? いつもの彼女ならウザいとか邪魔だとか、そのくらいのことはテレパシーで発信するだろうと思っていたけれど。

 ユウジがテレパシー能力者ではないから、能力を使わないでいるだけだろうか? でも、ここで怒りを露わにすることは、僕を通してユウジを牽制することにもなる。何故そうしない?


(カ、カレン……?)

(やりすぎた。ユウジには代わりに謝っといて)


 それだけ言って、カレンはカツカツとコンバットブーツの音を立てながら、階段を上っていってしまった。

 僕の腕には、白目をむいて気を失っているユウジ。


「階段に置くわけにはいかないよな……」


 僕は自分の非力さを恨みながら、どうにかユウジを抱えて階段を下り、非常用の寝袋の包みを枕代わりにして寝かせてやった。


「まったく、無茶するんだから……」


 ふと、自分たちの年齢が脳裏をよぎった。まるで、その未熟な年数を思い出してくれとでもいうかのように。


「そうか。そうだな……」


 僕とカレンは十六歳、ユウジに至っては十三歳。僕はともかく、ユウジはまだ甘えたりない年頃なのかもしれない。

 僕はユウジの瞼を閉じてやってから(縁起でもない所作だな)、開戦から現在までの戦況について考えを巡らせた。


         ※


 事件は僕やカレンが産まれて三年後、十三年前の春先に起こった。僕たちのいるエウロビギナ共和国に対し、国境を接するヴェルヒルブ帝国が宣戦を布告、軍を東進させ始めたのだ。

 

 戦争の目的は、エウロビギナの領海にある油田を確保するためだと言われている。あるいは、さらに東部の海峡を挟んだ第三国に圧力をかけるのが目的だったとも。


 ヴェルヒルブ軍は破竹の勢いで進撃し、エウロビギナを圧倒した。開戦後、三ヶ月までは。

 その後に何が起こったのか? それは、エウロビギナの戦略的方針転換だ。

 一言で言えば、ゲリラ的な戦闘形態の展開。正面切っての戦闘を回避し、緻密な情報網と迅速な小規模部隊の派兵能力を活かした奇襲。


 この起伏に富んだ地形を知り尽くしていたエウロビギナ軍は、さらに地の利があるのをいいことに、凄まじい反撃を見せた。

 また、戦闘機の開発に注力したのも、大規模都市に空爆を行うというヴェルヒルブの戦法を押さえ込むのに大きく貢献した。


 その一つの特異な、そして完成系が、カレンの装備するアクランというわけだ。

 こうも偵察機や対空戦闘機をバッサバッサと落とされては、ヴェルヒルブ側も制空権がどちらにあるのか分からないだろう。


 開戦から十三年。国境線はエウロビギナの西側三分の一を侵食し、しかしそこでぴたりと止まっている。まるで、時計の針が固定されてしまったかのように。


         ※


 自分の瞼が微かに震えるのを感じて、僕は思索の沼から這い出した。

 視界の中央には、気絶したまま眠ってしまったユウジの顔がある。

 ああ、そうか。こいつはずっと『平和』というものを実感できずに生きてきたのだ。産まれた時には既に開戦していたのだから。


「まったく、こんなにおでこを腫らして気の毒になあ」


 言ってから、僕はその言葉が全く的外れなものであることに気づく。

 だが、それが間違っているわけでもない。僕にもカレンにも、『平和』を享受した時期があったのだ。ただ、あまりに幼かったがために記憶にないだけで。


 ユウジが産まれてから、ずっとこの世界は暴力に染め上げられてきた。狂気に溢れてきていたのだ。他人事ながら気の毒だな、と思う。


「……なんとか一階までは運んでやるか」


 僕は目の前にせり上がったコンクリートの段差の群れを睨みつけた。

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