第9話 最高の好敵手や!!
高校生になってこの街に来てからウチは学校近くのマンションに部屋を借りて一人暮らししとる。
もちろん家賃は親持ちやけど…最近はバイトも初めて懐に余裕ができてきた。
定期テストも終わって梅雨に入って、試験の結果と降り続く雨に悶々とした日々を送る--
せやけど!
「今日はええもんもろてん〜♪」
コンビニで買ってきた弁当の空をゴミ袋に突っ込んでウチは紙製の箱からパックを抜き取った。
最近、温泉の素っちゅうのにハマってる。
なんか色んな温泉の気分が味わえて、家で温泉旅行気分っちゅう話やから、ついつい買ってもうた。
なるべくバイト代で生活費を工面しようとするお利口さんなウチには1箱1200円は痛い出費やけど、たまにはええやろ!
ウチ温泉好きやねん!お風呂が好きやねん!
「今日は〜登別〜♪」
確か北海道にあるんよな?地獄谷とかいつか行ってみたいわ。
……なんて。
呑気なこと考えながら風呂の用意が出来るんを待っとったその時--
事件は起きた。
きっかけは、本当に小さな物音と、視界の端を横切った何者かの気配やった。
……ん?
一人暮らし、誰も居らんでエアコンの類もつけてない部屋の中で、動くもんがあったらよう目立つ。ウチがそれに視線を向けるんは当然のことやろ。
なんの気なしに軽い気持ちでウチはそっちを見た。ウチの視線がダイニングキッチンのテーブルの脚ら辺に集中した。
そこで確かに動くもんを見たんや。
黒っぽくて、光ってて、高速で移動するそれを--
「……え?」
テーブルの下と言うこともあって、影もできとった。故に、その小さく黒い物体はウチの網膜に確かに捉えられたけど、その姿をはっきり映す前に滑るように奥に消えてしもうた。
……え?
黒っぽくて、光ってて、高速で動くもんが……
*******************
このマンション、去年の年末に建ったばかりとかでまだ大して入居者も居らんくらいの新築や。
そしてウチがこの部屋に越してきたんは3月末……
まだ汚れも溜まっとらん、入りたての新築マンションの部屋……時期は6月。ぼちぼち蒸し暑くなってきたけどまだ夏本番には程遠い。
……え?
今のって、アレよな?
あの……黒くて、ツルツルてかてかで……
「……嘘やろ」
どうしてなん?どうして?
ろくに自炊もせえへんから冷蔵庫も空っぽやで?ゴミだってちゃんと捨てとるで?臭ないで?なんでなん?
楠畑香菜、16歳……
ウチがこの世で最も嫌いなもの……それは食べる時にくちゃくちゃうるさいおっさん、勉強、運動、ナス、そして『G』。
する必要もないやろうけど、ここはあえてやつについての情報を整理すべきやな。
--ゴキブリ。通称『G』
ゴキブリ目のうちシロアリ以外の総称。
世界に約4000種、内日本には約50種。世界中に1兆を超える数が生息すると言われてる。
体調は最大で約10センチ。日本産の最大種はヤエヤママダラゴキブリ。
脚が速いが後退は出来ない。卵は一度に数十個程卵鞘に包まれて産み付けられる。
世界の広い地域ではゴキブリを食用とするらしく、飼育環境によっては臭みもなく可食部も多いとのこと。(wiki調べ)
ゴキブリの羽は海老の尻尾と同じ、1匹見つけたら30匹は居る、高い音に反応するから女性の悲鳴等に釣られて寄ってくる……etc.....
嘘かホントか分からん情報も含めて、ウチの脳内には膨大なゴキブリデータが入っとる。
人呼んでゴキブリ辞典、ゴキブリのことならウチに聞け。
嫌いなもののことは知っておかなきゃならんのや……こいつらは何時でも何処でも……どこからともなくやって来る。
現に、入居したての新居にも、容赦なくやつは現れた。
「……ふーっ……」
大きく深呼吸。『G』の居る空間で『G』と同じ空気を共有する--ってやめいや気持ち悪い。
「……なるほど?温泉気分の前に害虫退治っちゅうこっちゃ」
ええやろ……ウチが今まで何匹のゴキブリを屠って来たと思ってるん?
風呂ができるまであと3分ってとこやろ……それまでにケリつけたる!!
*******************
ゴキブリ退治--
突然発生したゲリライベント。まずは装備やけど……
キッチンの隅に部屋のレイアウトなんてお構い無しに鎮座する殺虫剤。これは使われへん……
なぜなら吹いたら床がベタベタするから。基本自宅では裸足のウチ…裸足で踏んだらそこだけキュッキュッして気持ち悪い。
故にこれは最後の手段……となると、新聞紙か?
あかん……ゴキブリは潰したら卵が飛び散る言うし……
「……仕方あらへんな」
トイレに飛び込んで掃除用のゴム手袋、ごみ捨て用のコンビニのレジ袋を手にダイニングキッチンに仁王立ち。
掴んで袋にぶち込んでベランダから逃がす……これや。
素早いゴキブリを捕まえられるかは分からへんが…そこは百戦錬磨の香菜ちゃんや。なんとかなる。
ウチにも仏心がある…ゴキブリとて命。無為に殺すこともあらへんやろ……
ただあんた次第やからな?抵抗すんなよ?
さて、装備を整えたら次はターゲットの補足や。
ゴキっちゅうやつは厄介なモンで1度見失ったら中々見つけられへん。奥に消えて行ったゴキブリは今は姿が見えへん。
かと言って見つけてしまったモンは何とかせな気になってしゃーない。そんな時に限って隙間に入り込んで見つからへん。
そして忘れた頃に現れるんや……
ただ……舐めてもらったら困るで。
幾多のゴキブリを仕留めてきたウチや。奴らの行動パターンは把握し尽くしとる。多分…
やつはテーブルの下、手前の脚付近から奥に消えてった。
スマホのライトを照らしてみてもそれらしい影は見つからへん。てことはどっかの物陰に隠れたっちゅうことや。
ここで最悪なのは食器棚の下。隙間から最下段にでも入られたら最悪や。
ただ締め切られた食器棚の隙間は皆無に等しい……中はないな……
シンクの下か……?
ゴキブリはあんまり広範囲には動き回らん。
時間が経てば移動はするが、短時間のうちなら大抵、見逃した付近に潜んどるもんや。
ウチはこのキッチンから出てないと踏んで徹底的に探す。
この場合……どっかの下っちゅうよりは、壁と物の隙間の方が怪しいわ……
食器棚の間、冷蔵庫の間……
「……っ!?」
ウチの照らすライトが冷蔵庫と壁の間に潜むやつを照らした。
やはりゴキブリやった。
薄い透けたような茶色い体色、1センチくらいの体長……
おそらくチャバネゴキブリやな。
世界中に分布する外来種……寒さに弱くて家屋よりビルみたいなとこに良く潜り込むタイプのゴキブリや。
ライトの光に反応したゴキブリがカサカサ動き出す。この独特の移動……キモすぎやわ。思ったより手前に居ったけん間近で見てもうたやんけ。
位置は壁のウチの視線より少し上。
この位置は要注意や。ゴキブリの羽はそんなに発達しとらん。1部を除いてゴキブリっちゅうのは『飛翔』やのうて『滑空』する。
つまり高い位置から低い位置に飛んでくるんや。やつらが天井近くに居る時は要注意やで。
ただ、そんなことに怯むウチやない。
チャバネゴキブリは飛ぶんが得意やない。長い距離滑空できんですぐ落ちるはず……
つまり羽を広げたら直ぐに距離を取ればええんや……
身構えるウチに対してゴキブリは両側の脚をカサカサ動かして高速で移動していく。
ゴキブリは逃げる時高い所をめざすらしい。やつも例に漏れずより高い位置に逃げようとした。
ただ甘いで!
「読んどんねんド阿呆!!覚悟せいっ!!」
事前に退路を読んどったウチがゴキブリの前に手をかざす。
構わず手に張り付いてきた。ゴム手袋越しとはいえ気持ち悪いで。
ゴキブリは色んな菌を持っとるらしいから素手で触るのは厳禁や。
そのまま捕まえたろ思たけど小さいせいで上手く摘まめん。モタモタしとる間にもゴキブリはウチの手から脱出しようとしとる。
めんどくさいわ。落としたる!!
壁から手を離したらゴキブリも引っ付いてきおった。
動く足場にパニクったか、この野郎ウチの腕の方にカサカサ上がって来おった。
「うぎゃああああああっ!?」
キモすぎや。来んどって!?
ウチとしたことが腕を振ってゴキブリを払い落としてしもた。折角手の中に居ったのに。
一瞬ひっくり返って床に叩きつけられたゴキブリが器用に起き上がって超高速でまた物陰に隠れようとする。
「させるかっ!!」
ウチの反射神経が光る。咄嗟に椅子を蹴飛ばして椅子の脚で進行を妨害。突然前に出てきた障害物にも物怖じせずやつはターンしてウチの方に突っ込んで来おった。
こいつっ!!
避けるか!?このまま来たらウチの足の甲に乗っかる可能性大やで!
突っ込んでくる害虫……並の女やったら悲鳴あげて逃げ出すとこやろ。彼氏にでも助けてもらうんやろ。
ただ生憎、ウチはそんな甘ったれた根性しとらんのや!!
ウチはあえてゴキブリの目の前に足を出す。
これは命と精神の取り合いや。ビビった方が負けるんや!
やつがウチの足の上を通ったらすかさず捕まえる。避けていっても反応できる!!
ゴキブリの無限の逃走経路に足という目印を置くことでそこを起点にゴキブリの動きを予測、反応する--
この勝負もろたで!!工藤!!
ゴキブリの触手が足に微かに触れる。さぁどう来る?全てに対応出来るわ!
ピタリ。
……なっ!?
予想外の反応にウチの体も硬直した。
やつは足を目の前にピタリと立ち止まってしまった。動き回るものと思ってたターゲットの突然の制止。
目の前で獲物が立ち止まったのにウチも固まってもうた。許されざる失態……
隙を見せたウチにゴキブリはそのまま90°曲がって足の指の向いとる方向に猛ダッシュ。
あかーんっ!!そっちは寝室や!!そこは物が多すぎる!!
逃げ込まれたら捜索は不可能……ジ・エンド。させん!
ゴキブリの足の速さは半端やない。手を伸ばしても間に合わん!
「--ふんっ!!」
両手を床に着いて思いっきり脚を伸ばす。退路を塞ぐつもりやったけどウチのイメージしたゴキブリのダッシュは現実よりちょっと速かったみたいや。
--プチッ。
……あ。
かかとら辺に何か挟まったような感触。視界から消えるゴキブリ。
「……」
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!潰してもうたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!てかっ、キモォォォォォォォォォォォォッ!!
*******************
足をどけた先には潰れたゴキブリの無惨な姿があった。
紙切れみたいに潰れて薄っぺらくなってもうたゴキブリ……そして足の裏に引っ付いた脚……
「……キモ」
風呂入る前で良かったでホンマに……
こいつオスやろか?メスやろか?卵持っとらんやろな……
てか最悪や……新居の床でもうゴキブリがシミになってもうた。
「……片付けよ」
異常な虚無感に襲われながらウチはゴキブリを片付けようと掃除用のタオルと新聞紙を持ってくる。
ウチに潰されたゴキブリは文句なしの即死。体を潰されて中身を左右からひねり出し、自慢の脚の千切れたその姿にウチを翻弄したあの姿はない。
……あのほっそい脚でウチから逃げ回ったんやなぁ……
いや、立派な脚やで……
あのちっこい顔についた目でウチの動きを読み切って逃げたんやなぁ……
あの長い触覚がそれを支えとったんや……
………………
久しぶりのゴキブリ退治だったこともあり、なんだか……
あれ?なんなんこの気持ち……
苦戦したからやろか?それとも、殺す気がなかったからやろか?
……なんか。
「……なっ……なんなん?これ…………」
元気に駆け回ってた姿がウチの中で蘇って……目の前で動かなくなったその姿が……
害虫と罵られながらも、ウチとの熾烈な戦いを繰り広げ、時に勇猛に、時に狡猾に、時に華麗に、最後まで戦い抜いたこいつが……
「……強かったで…自分……」
なんでこんな気持ちになるん?どしたん、ウチ。
……ホンマにどないしたんやろか?
『お風呂が沸きました』
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