還りゆく三本角甲虫

 その時、アンコールワット先生は丁度外出中でした。隣村のセヴィで子馬が生まれるという噂を聞いて、喜び踊りながら出掛けて行ってしまったのです。

そういう時に限って、あたしなんかでは手に負えないようなやっかいなコトが起きるのです。だいたい、予感みたいなものがあるんです。

『先生、いやな予感がするんですけどぉ………』

出掛ける直前、半分地から足が舞い上がっている先生に、あたしは目を潤ませながらそう訴えました。前回のいやな予感の時は、重度の花粉症にかかった六つ子の白花犬という患者が来訪しました。あの、犬の鼻水にまみれながらの診察は悪夢としかいいようがなく、もうお嫁にいけないかと思ったほどでした。

 今度の予感はそれを遥かに上回るいやな予感でした。だから先生に泣きついたのですが、

『ふ〜ん、そう………じゃ留守番よろしく』

もはや先生の心は山二つ越えたセヴィの村に旅立った後でした。

 「あーあ、何事もなければいーけど……」

むろん、そんな訳がありません。

「もし……ここはアンコールワット先生の医院でしょうか?」

物静かな老紳士が玄関に現れた時、あたしは一瞬いやな予感が外れたと思って安堵のため息をつきました。その老紳士はシルクハットとステッキ以外、なにも持っても連れてもいなかったからです。

「はい、ただ今先生は出掛けられてまして……私、弟子のアネットといいます。私でよろしければご用件を承りますが」

余計な一言だった、と後で反省する羽目になるなんて思いもしなかった。

「じつは……コレの診察をしていただきたいのですが」

そう言って老紳士がシルクハットの中から取り出したのは………『かぶと虫』だったのです。



 学術名「トライアングルホーン」。甲虫科の昼行性昆虫で、雄雌とも三本の角を持つのが特徴。平均体長10センチ。色は茶もしくは黒。大陸沿海西部からセンティア地方にかかる北方地帯に生息分布している。平均寿命は幼虫として3年、成虫になってからは10〜70年と幅が広い。100年生きたという報告もあるが、半世紀前の記録なので信憑性が低い。ただし確実なところでも89年生きた記録があり、しかも最後は病死だった。

 昆虫としては知能が高く、飼い主の区別がつくらしい。よって犬や猫のような飼い方も可能だが、実際になつくことは希でたいていは逃げてしまう。


 ………と、ここまでは簡単に調べがついたのです。先生の持っていた昆虫図鑑を調べただけですから。

「最近 、どうも元気がないのです。食事の量もめっきり減りまして、ここ二三日はまったく食してません。かなり痩せているでしょう?」

「は……はぁ」

テーブルの上をかさかさと動き回るかぶと虫をじっと見ながら、あたしは思わず気の抜けた返事をしてしまいました。正直いって、堅い殻に覆われたかぶと虫が痩せているかどうかなんて、普通は分からないと思う。

 それに……いくら動物相手の医院といっても、昆虫というのはちょっと守備範囲外です。とりあえず聴診器を手にしてみたけど、当てて看てもかぶと虫の心音なんて聞こえるわけがない。

 「とりあえず、栄養剤でも注射しますか?」

「堅い殻ごしにでしょうか?」

「………やめましょう」

 次にあたしは戸棚を漁り、いくつかのビンを取り出しました。注射がダメなら食べさせる栄養剤を、というわけです。

すると老紳士はやや感激した様子で言いました。

「甲虫用の栄養剤があるとは……さすがアンコールワット先生のお弟子さんですね」

「…………」

計画は無惨にも挫折しました。


 結局、何のお役にも立てませんでした。

老紳士は怒る素振りどころか、柔らかく微笑みながらシルクハットをかぶりました。その上にはあのかぶと虫がちょんと乗っています。

「はっはは。いや、こちらが無理なお願いをしたのですから。昆虫のお医者様なんてアンコールワット先生ぐらいなものですから」

「先生が……?」

「昆虫の研究でも有名な御方ですからね」

初めて聞く話でした。ほ乳類や鳥類の研究で博士号を取ったことは知ってましたけど、昆虫方面でそんなに有名だったなんて。この医院の名前が、ただの『動物医院』である理由がちょっとだけ分かったような気がしました。

「よろしければお泊まりになられては?狭いところですけど……」

「いや、有り難いことですが仕事を残してきてありますので。急いで帰らなくてはならないのです」

「そうですか……どうぞお気をつけてお帰りください」

「ありがとう。それでは……」

老紳士は軽く会釈をし、くるっと背を向けた。

「あっ!」

 あたしは駆け寄り、老紳士を抱え上げようとしました。老紳士の身体は思ったより軽く、あたしが肩を貸してよっと持ち上げると、まるでふわっとした綿のように軽く感じられました。

「い…いや、ちょっとした持病でしてな。もう大丈夫……」

しかしその言葉とは裏腹に、老紳士は口からドス黒い血を吐いて気を失ってしまいました。


 「いや……恥ずかしい話です」

夜になって、ようやく老紳士は意識を取り戻しました。顔はまだ青味がかってはいましたが、口調は幾分元気でした。私は軟らかく煮たコーンスープを作り、ベットで寝ている老紳士に差し出しました。

老紳士はスープに口をつけながら、ふと自分のことを話し始めました。窓の外に輝く星々は都会のものよりはるかに綺麗で、それにしばし見とれている様でした。

「周りの者は仕事をやめて隠居しろというんですが、さて……もうこんな歳になると遊び方も忘れてしまいましたからな。それに、私には遊ぶ相手はこいつしかいないですから」

ベットの横に置かれた小さなテーブルにはスープの入ったお鍋と、そしてあのかぶと虫がいました。寝ているのでしょうか、手足をやや広げたままぴくりのとも動きません。いつもならせわしなく動いている触角も、今は折り畳まれています。

 その折り畳まれた触角が、ピクリと動きました。老紳士が手を差し伸べたのに合わせて、です。皺だらけの手が横に降りてくると、かぶと虫はゆっくりと動きだし、その上へと登っていきました。

「子供の頃からのつき合いでして。結局、こいつ以外に友人はできませんでしたな。まったく我ながら不器用なことです」

手のひらでかぶと虫を遊ばせる老紳士の顔は、本当に優しく柔らかな微笑みに満ちていました。何かを悟ったような、春の陽射しのような爽やかさがそこにはありました。

「あ、あの……」

途切れがちの私の声に、老紳士の笑顔が振り返ってくる。それがまた私の胸を強く締め付けました。その笑顔が爽やかであればあるほど、私の口はどんどん重くなっていきました。

「なにか?」

「い、いえ……じ、実は……」

その時でした。

 まるで機会を見計らっていたかのように、あのかぶと虫が羽音を立てて飛んで行ってしまったのです。開いていた窓から星の輝く夜空へと、あっという間に消えていってしまいました。かすかに、羽音だけが私たちの耳に残っているだけでした。

老紳士は慌てて外へと飛び出しました。それを追って私も外へと飛び出しました。


 山々に囲まれたこのクリリアの夜では、月より明るいものはありません。悪いことに今日は新月で、月の光はまったくありません。夜空の中へと混じり消えた一匹のかぶと虫を探すには、最悪でした。

 それでも老紳士は必死の形相で辺りを駆け回り、あらん限りの声でかぶと虫の名を叫び続けました。私も老紳士に付き添ってかぶと虫を探しましたが、もはやあの羽音すら聞こえませんでした。

 ブ……ゥゥゥ……ンン

もう半分あきらめた頃、私はかすかにあの羽音を聞き取りました。老紳士も気がついたみたいで、私たちは同時にその羽音のした方へと振り向きました。

一人の男性が夜空に右手をのばしたところでした。ゆっくりと差し出されたそれに羽音の音が近づき、そしてあのかぶと虫が羽を休めたではありませんか。

「ほぅ、これは見事なトライアングル・ホーンですねぇ」

「アンコールワット先生っ!?」

そうです。丘の上の人影は、アンコールワット先生だったのです。


 次の日の朝、先生と私が見送る中、老紳士は帰っていきました。丘の下には大きくて立派な蒸気自動車が待っていて、その中に老紳士は消えました。もちろん、あのかぶと虫も一緒です。

 『このトライアングル・ホーンは、寿命です』

あの夜の後、かぶと虫を診察した先生は静かにそう断言しました。老紳士は一瞬目を見開いたものの、努めて穏やかに先生の言うことに耳を傾けていました。

『トライアングル・ホーンには特殊な習性がありましてね。鮭の習性とはちょっと違いますが、トライアングル・ホーンは寿命が終わりに近づくと生まれた土地へと旅立ち、そこで死を迎えるのです。長寿系の動物にわずかに見られるだけの、珍しい習性です』

先生はそれ以上多くを語りませんでしたが、老紳士はすべてを理解した様子でした。眠りについたかぶと虫を、静かな目で見守りながらそっと撫でました。

『そうですか……そうですね』

老紳士はそうとだけ呟き、そして先生に向かって深く深く頭を下げました。


 蒸気自動車がゆっくりと丘に沿った道を下っていくのが見えます。

「うえ…ぇ……」

「んっ、どうした?」

先生が声をかけてきましたが、とても顔を合わせられる状態ではありませんでした。

「なんだ、泣いているのか?」

「え……え−−−−ん」

私はついに泣き出してしまいました。立ったまま顔に手も当てないで、嗚咽と涙をもらし続けたのです。

「だ、だって……あの人、癌……うぇっえっ」

先生は、そっと私の頭を抱きしめてくれました。

「元気な子馬が生まれたよ。今度一緒に見に行こう」

「うえっ……ぐすっ…ぐずっ、ふぇん……」

蒸気自動車が丘の下に消えて見えなくなるまで、私は泣き止むことができませんでした。あの、かぶと虫を見つめる老紳士の笑顔……それを私は一生、忘れそうにありません。

 夏の陽射しがやけに眩しい、八月のある日の出来事でした。



 『本日午前12時頃、センティア地方の山中でシルシティ財団の会長シール・ド・マクドウェル(62歳)が死亡しているのを山岳警備隊によって発見されました。マクドウェル会長は帰郷と持病の静養を兼ねてこの地を訪れていた最中で、外傷のないところから病死ではないかと見られています。また会長の死体の右手には、トライアングル・ホーンと呼ばれる非常に珍しい種類の甲虫の死骸を握られており、この事件との関連を捜査しています………』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クリリア物語 沙崎あやし @s2kayasi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ