君のいない日々を生きる。

土蛇 尚

一人の

 妻が急逝した。私は一人になった。


 結婚して40年、ずっと二人で生きてきた。妻がいなくなって家は広く、静かになった。私の耳が遠くなったのもあるが家は、ほとんど無音と言っていい。


 私が23の時、妻が28の時に結婚してからずっとこの社宅に住んできた。全体的に老朽化はひどく日常でも不便が増えてきたから、一度引っ越そうかと聞いたことがある。定年退職を機に社宅を出て妻の故郷で部屋でも探そうかと思った。だけど妻はここが良いと言った。だから会社に頼んで不動産屋と話をつけてもらい契約を続ける事にした。


 ああ、そうだ。この社宅も法改正で耐震工事があるからと、2ヶ月だけ賃貸の一軒家に住んだ事がある。

 その短い間は楽しかった。どうせすぐ出るのだからと、食器は余りおかないで毎日の様に外食に行ったし出前なんかも取ったりした。

 そうだ、確かスーパーでパックのお寿司を二つ買って帰ったことがあった。二人でインスタントの味噌汁を飲みながら食べた。妻はサーモンが好きで私のほうからヒョイっとサーモンをとったのだ。


「言えばあげたのに」


 そう言うと妻は悪戯をした子どもの様に笑った。それに君が好きな事は知っているからサーモンはおいていた。

 私たち二人はこの家を極力汚さない様に、物を置かない様に、ここが自分たちの住む場所ではないと確認しながら工事が終わるまでの2ヶ月を過ごした。

 あの家には子ども部屋があった。私たちには子どもがいない。二人で幸せだった。だけど望んでいなかったわけではない。あの家は私たちの住むべきところではなかったのだ。


 タブレットに残っている妻からのメッセージをひたすらスクロールして読み返す。目が悪い私もこの大きな画面なら見える。ずっとそうしていると間違って最新のメッセージに戻るボタンを押してしまった。


『君の作ったロールキャベツが食べたい』


『では、今日はそうしましょうか』


 ダメな男の妻は平均よりも早く死ぬと聞いたことがある。妻は急病で瞬く間に私の前からいなくなってしまった。

 ダメな男とはどんな男なのだろう。朝起きた時におはようと言わないとか、洗い物を手伝わないとか、そういうのだろうか?毎日の様にメッセージを送るのはダメな男なのだろうか。自分の好物を夕飯に所望するのはダメな男なのだろうか。私は別にロールキャベツが好きだったわけではない。妻が作るロールキャベツが好きだった。

 いっそ私に何か落ち度があって欲しいと思う。妻はなぜ先に逝ってしまったのか。


 私には趣味がない。これから何年も一人で生きて行かなければならないのに。

 カメラを持っていたが、それは妻と旅行に行く時と金曜日に一緒に散歩に出る時にしか使った事がない。私には撮りたいものがない。いつもは妻と、妻が見ているものを撮っていた。世界一妻を綺麗に撮れるのは私だと思う。妻は世界一綺麗なのだから。その視線にあるものを写真にしたかった。喜んで欲しかったから。


 妻は私によく何か趣味を見つけてくださいと言っていた。


 でも私の趣味は妻におはよう、行ってきます、ただいま、ありがとう、おやすみ…そう言って生きることだったのだと思う。


 リビングで一人ぽつんと座っている。二人でよくいたソファには近寄る気も起きなかった。そうして長い時間を過ごしていると自分が空腹である事に気がついた。


 冷蔵庫を開けると妻が作りおきしてくれていたタッパーがあった。この数日、冷蔵庫を見れば妻が作ったものがそのままある事は分かりながら意識しない様にしてきた。食べたら無くなってしまう。それでも妻の作ったロールキャベツが食べたかった。


 冷蔵庫からタッパーを取って電子レンジに入れる。


 電子レンジの静かな回転音が止んでタイマーが止まった。蓋を開けると湯気が上る。器に移さないで食べると妻に怒られるだろうか。


「いただきます」


                  終わり

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君のいない日々を生きる。 土蛇 尚 @tutihebi_nao

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