幸せを呼ぶ猫

あん彩句

幸せを呼ぶ猫


 あのね、私の飼い主の名前はレナードっていうの。飼い主っていうのはね、私に名前を付けて、優しく背中を撫でて、世話をしてくれて、紙の山を蹴散らしても怒らない人のことよ。


 レナードは背が高くて、とってもハンサムなの。それにもちろんスタイルもいいわ。毎朝早く起きてジムへ行って、戻って着替えて仕事へ行って、帰ってくるとまず最初に私を抱き上げるの。それが変わらない日課よ。


 彼はとっても忙しいわ。だって大学で教授をしているんだもの。何を教えているのかは知らない。趣味は写真を撮ること。結構腕がいいの。カメラは私が入れない部屋に置いてるのよ。それから、そう、日本語を勉強するのが大好きなの。


 レナードは毎日、日本語のテレビを見るわ。そして火曜日の夜は日本語学校へ行ってるの。先生は綺麗な女の人なんですって。でもね、それは先月で辞めてしまったの。なぜかはわからないけれど、きっと日本人の友達が原因だと思うのよ、私は。



 その子とどうやって知り合ったのかはわからないの。ただ、メッセージを受け取ったレニーはとっても嬉しそうだったわ。あ、レニーはレナードの愛称よ。仲の良い友達はみんなそう呼ぶの。私も同じ。


 いろんな子とメッセージをやり取りしたけど、その子とはしっくりきたんですって。毎日、おはようから始まって、おやすみってレニーはメッセージを送ってる。その子はちょっと忙しいと返事をサボる子で、でもそれがレニーは気に入っているみたいなの。


「彼女は純粋に英語を学びたいんだよ。ただそれだけなんだ」


 レニーは何度もそう言って微笑んだわ。私を膝の上に乗せて、背を撫でながらね。


 わかるのよ、レニーはとってもハンサムなんだもの。近づいてくるのは、勉強したいと言って実はそうじゃない人ばかり。でもね、その子は言ったんですって。


『どうせ英語を教えてもらうなら、イケメンの方がいいに決まってるでしょ。それが嫌ならレニーは写真にモザイクでもかけなきゃ!』


 それがまたレニーの心のどこかの何かに触れたみたいだったわ。レニーはますますその子が気に入って、自分の家族のことや、職場のこと、友人や義兄弟のことまで何でも話したの。


 その子も同じ。レニーに、自分の本当の親を好きになれないと告白したの。レニーはとっても悲しんで、その翌日はジムを休んだほどよ。


「たったそんなことで、彼女は自分を責める必要はないのに——」



 私にはよくわからないけれど、人間っていうのはとっても複雑なのよね。仕方がないわよ、いろんなところが発達しすぎてしまったんですもの。どうにかしたいなら、何かをさっぱり忘れるしかないわ。それができないならやっぱり悩むしかないのよね。それも苦痛になるのなら、見つけるしかないのよ、レニーみたいに、特別な子を。


 レニーはそれは恋ではないと言い張ったわ。だけど、そうじゃないことなんて明白でしょう? 始まりがどうであれ、見つけたその人が特別なら、それはラッキーだって笑ってやればいいじゃない?



 ある日、レニーが緊張して深呼吸なんてしてるからどうしたのかしらって不思議に思ったのよね。やたらと髪を撫で付けるし、パソコンのそれを気にしてミリ単位より細かくカメラの位置をやり直すのよ。それで、聞きなれない音が鳴って、ブルブル震えたレニーがそれに応えたの。


 相手はいつもの女の子よ。なんてことないわ、画面に映ったその子の顔はごく普通。でもね、レニーをとろけさせるような幸せに満ち満ちた顔をさせちゃうなんて、そうゴロゴロと転がって見てちゃダメな子よね?


 私は起き上がって画面の前にジャンプしたの。レニーはとっても慌てて椅子から転げ落ちそうになって、画面の向こうでは女の子が目をまん丸にして驚いてたわ。私に、というより、慌てふためいたレニーに——女の子は私と目が合うと、あははと笑ったの。


『はじめまして!』


 あら、いい子じゃない。もちろん、レニーが気に入るくらいだもの、いい子なのはわかってるわ。だけどこれは猫のカンよ。それに、そうね——残念だけど、レニーのことをだと思ってるわ。


『私はリナよ。よろしくね、ゆきちゃん』



 そうそう、私の名前はゆきっていうの。日本語でSnowのことよ。ねえ、真っ白な素敵な猫を思い浮かべたんじゃない? でも残念ね、私は灰色。コラット、っていう種類らしいけど、そんなの勝手に人間がつけた区別だわ。本当は違う呼び方でちゃんとした名前があるけど、でもいいの。私はこの名前を気に入ってる。ほら、愛称みたいなものよ、レニーと同じね。


 名前に「ちゃん」を付けるのは、とびきり可愛い子を呼ぶ時なんでしょう? 日本ではそうするんですって。レニーは時々私をそう呼ぶの。ご機嫌な時とか、すごいご褒美を用意してる時に焦らすために。でも、初対面でそう呼ばれたのは初めてよ。悪くないわね。



「そうだ、リナ。きちんとゆきの紹介をするよ」


 いつもよりゆっくりした口調でレニーがそう言って、私を抱き抱えると耳にキスしてくれたわ。わかってる、大人しくそうやって抱かれてろってことでしょう? たまには飼い主の顔を立てなきゃね。飼い猫の尻に敷かれてるなんて、聞いたことがないもの。


「ゆきは4歳だ。誕生日は10月27日。僕のところへやって来た日はとんでもない雪の日でね、そう、今日みたいに恐ろしくどっさり雪が降ったんだ」


 ほら、とレニーは画面を外へ向けてその様子を見せようとしたけど、窓は曇ってるし、その上隅へ寄せた荷物を披露する失敗にしかならなかった。可哀想だけど、掃除は常にするべきだって、身に染みたんじゃないかしら。


「ええっと、それで、そう、車から降りた時、きっとゆきは驚いたんだ。友達の腕の中から逃げようとしてジャンプしたら、その雪の中へ埋もれちゃったんだよ。僕はそれを窓から見ていたんだ。真っ白な雪の中のゆきは、美しくて宝石のようだったよ。雪がゆきの体でキラキラ輝いてね、銀色の雪の妖精だってすぐに名前を決めたんだ」



 私はレニーの腕の中からジャンプして、キーボードの上を歩いて画面に体を擦り寄せたわ。驚いた顔をしたレニーがすぐにまた私を抱えて椅子に座ったけど、「邪魔しないで」って小言を囁いたから、鼻を引っ掻いてやろうかって思ったけど止めておいたわ。リナの前だし、鼻に傷を作ったままじゃ格好がつかないもの。



「ゆきはリナが気に入ったんだね」

『違うよ、恥ずかしかったんだよ』


 リナがそう言って、今度は私が驚いたわ。


『銀色の雪の妖精なんて、私の前で自分のことをそう呼んで欲しくなかったのよ。だって恥ずかしいじゃない? そういうのはもっと仲良くなってから話すことよ。そうでしょ、ゆき?』


 私はまたぴょんと飛んで、今度はキーボードもジャンプして、画面の中のリナに擦り寄ったの。できる限り尻尾をまっすぐにすることも忘れなかったわ。



 そうよ、その通り。これだからレニーは可愛い子に出会っても上手くいかないのよ。だって、女の子の気持ちをちっとも理解していないんですもの——でもいいわ、今回は私、ちょっとだけお手伝いしてあげるわ。今日のこの日を、いつか幸せに大切な誰かに話せるようにね。


 二人の心を繋いだのが私だってことになれば、ますます私を可愛がるしかないものね。まあ、それがレニーにできる最高の恩返しってところかしら。それで二人が私を抱えるのを取り合って、とっても甘い声で「ゆきちゃん」て呼ぶのよ。


 ね、悪くないでしょ?




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