命の30分間疾走

片田真太

第1話

命の30分間疾走

                 内田啓太




  時は1960年代後半。川上正太(しょうた)は大学生になっていた。春なのに最近ではいつものように日差しの熱い日だった。いっそ夏に早くなってしまえばいいのにと正太はふと思った。田舎の夏は退屈だったが、正太はそんな田舎の夏の風景が好きだった。特に想いれがあるわけではなかったが、夏の田舎は風鈴の音があちこちで鳴り響いて聞き心地がよく、何かを忘れさせてくれた。通り道では水はきをするおばさんたちや、夏祭りのみこしをかつぐおじさんや若者たち、夏祭りの花火大会、そしてそんな夏を清子(きよこ)と静かに過ごすのが好きだった。都会の若者はおそらくこんな退屈なものに目を奪われる暇もないのだろう、と感じていた。時は経済成長期の真っただ中だったので、正太の若者の仲間たちは将来のためにみな東京など関東圏や大阪や神戸、名古屋など大都市の大学に進学していた。将来はきっと東京に出て日本経済発展のために彼らは貢献するのだろう。それはそれで素敵な野望、というか夢なのだろう。だが、正太は田舎の地元の大学に進学した。いずれ東京に出ることもあるのだろうが、大学ではこののんびりとした田舎に留まりたいと思った。それに、母のことが心配であった。父を病気で失ってから地元の居酒屋を一人で切り盛りしていた。そんな母が一人で頑張って自分のために大学の学費を払ってくれていた。川上家は小さな田舎町の地元の自営業の居酒屋にしか過ぎなかったが、父の父、つまり正太の祖父の代から切り盛りしていた老舗の居酒屋だった。だからこそ母はその居酒屋をつぶしたくなかったのだろう。祖父は正太の小さい頃に亡くなったので、よくはっきりとは覚えていなかったが、正太をよく可愛がってくれていたし正太もおじいさん子だったらしく、そんなおじいさんの代から続く居酒屋を正太もつぶしたくなかった。だから大学の授業やアルバイト以外の空いた時間には居酒屋の仕事を手伝ったりもしていた。

  今日は午前中から大学の授業だった。午前は普通に一人で授業を出て、昼食を取った後は午後からスペイン語の授業だった。いつものようにはじっこの真ん中あたりの席に座りノートと筆記用具を机の上に取り出した。時は学生紛争の時代だったが、こんな田舎の平和な大学にはそのような紛争を起こそうとするものなど一人もいなかった。都会の大学に進学した友人から大学の授業のストライキなどの話はよく聞いていたが、正太はそんな話を聞いても自分とは無縁の世界だと思った。田舎の大学の世界は平和そのものだった。

「おはよう」

そういって正太の肩を叩いて隣の席に清子は座った。清子は正太の初めての彼女だった。澄んだ瞳ときれいな笑い方をする女性だった。清子という名前がぴったりだった。彼女とは大学の授業で知り合った。その時代は結婚するのがいいこととされていたし、さらに田舎ではできれば早く結婚して親を安心させるのが当然のような慣例だった。だから正太の友人たちはみな高校時代からそういうことに慣れるため、というかそれとなく恋人を作る人たちが多かった。だが正太はバカ正直で自分の気持ちに素直だったので、本当に好きな人が現れまで時間がかかった。それにそういうのが照れくさくて苦手だったところもあり、大学になって初めて恋人らしき恋人ができたのだった。

授業が終わると二人は教室を出た。

¬今日は正太くんもう授業終わりなの?」清子がそう聞いてきた。

「うん終わりだよ」正太は特に何も考えずになんとなくそう答えた。

「おいしい喫茶店の店をみつけたの、一緒に行かない?駅前なんだけど・・・」

「いいよ。今日ちょうど自転車で大学に来たから自転車で一緒に行こう。ついでに駅まで送るよ・・・ほらそこに自転車」

正太はバスで自宅から大学まで通っていたがバスで通学するほどの距離でもないので

前から自転車が欲しかった。だが、高校時代まで両親に自転車をある事件をきっかけに乗ることを禁止されていた。

「正太君自転車持ってたんだ・・・」

「うん。今まで乗れなかったんだけど。ずっと乗りたかったんだけど・・・無理だったんだ。」

「無理・・・?」

「あ・・・いや、今思えば馬鹿げた話なんだけど。昔はよく無茶をしたからな。」

清子は不思議そうに正太のことを見た。

「どうしたの?」

「ううん・・・なんか私の知らない正太君を見てしまったみたいで・・・私聞いてはいけないこと聞いてしまったのかな。」

「いや、誰かに話したかったんだ。あまりに馬鹿げていて笑われると思っていたから大学からの新しい友人には誰にも話したことがなかったのだけど。でも話すよ。その喫茶店についたら。」

  二人は駅前の喫茶店まで自転車で二人乗りをして向かった。今までこんなことをしてみたかったと正太は思った。清子の言うとおり新しくできた喫茶店は田舎町には珍しいくらい洒落ていた。ブッラクとアイスティーをそれぞれ注文した。

「自転車の話なんだけど。なぜか君には話したくなったんだ。」

「うん。なぜ自転車を今まで乗れなかったの?」

「話せば長くなるんだけど、正確には禁止されていたんだ。ある事件があってから」

「事件?」

「そう・・・もう中学生くらいの頃の話。今思えば親にはずいぶん心配をかけた。」

正太はその事件について話し始めた。






  その頃正太は中学生だった。時代は1960年代前半。日本がまだ高度経済成長に入る前の時代でどこの家もまだ貧しかった。正太の家も決して裕福でなかった。当時まだ父は生きていて両親は必死に居酒屋を切り盛りしていた。田舎町だったから正太の友達もみんなそんなものだった。お小遣いをもらえる子供なんてほとんどいなかった。正月のお年玉が唯一のもらえたくらいのお金だった。だが正太はおじいさん子でおじいさんには可愛がられていたので時々お小遣いをおじいさんから内緒でもらっていた。そのお小遣いで駄菓子を買うのが楽しみだった。アイスの当たりがでるのが楽しみだったが大概は外れだった。日本中が豊かになりたいと願って東京を夢見て田舎を出て都会に進出する人が増え始めた時代だったが、正太の両親はマイペースで田舎が好きな人だった。だから世間のことなど両親には関係なく思えた。もちろん小学生だった正太にはそんな両親の考え方など知る由もなかったが、そんなのんびりした両親の性格を受け継いだのかもしれない。

  正太という名前は正しく正直でいる、という想いを込められて両親から名づけられた。その名の通りに正太は成長して素直で正直で曲がったことが嫌いだった。当時は現代と違ってガキ大将というのが必ずいた。喧嘩もみんなよくした。いまでいういじめみたいなことも頻繁に行われていた。しかし、陰湿ではなく正々堂々と喧嘩をするのが男らしいとされていた。正太の通っていた中学校にももちろんガキ大将がいた。しかし、ガキ大将は普段は陰湿ないじめのようなことはせず番長的に子分をたくさん従えていて命令をしていた。ガキ大将は普段は表立って現れなかった。しかし、その子分たちがどこかで強いやつがいる、という噂を聞きつけると、番長であるガキ大将に報告した。

すると大将がその強いやつと決闘をする、というのが慣例だった。

  正太はそのような番長グループには属していなかったが、ガキ大将に決闘を申し込むようなことは興味がなかった。別段番長グループは汚い卑劣なことをしているわけではなかったし、喧嘩するほど仲がいいというか自分を全てさらけだして決闘をする慣行も別に嫌いではなかった。ただ、自分はそのようなことはしたくなかった。決闘すればみんな大けがをすることだってあるのだ。だから誰かがターゲットにされて決闘が始まるとそれを心配したり横目でみたりしていた。空き地や校庭でその決闘の場面を何度かみたことがあった。決闘では、慣例では子分たちは全く手出しをせず、ターゲットにされた強い男とされるやつと親分であるガキ大将の正々堂々の1対1の戦いをすることになっていた。そのガキ大将は負け知らずといわれるくらい強い男だったので大半はガキ大将の一人勝ちだった。しかし、ある日隣町から引っ越してきた植村というのがいた。背はすらっとしていて中学生の割には大人びていた。とても喧嘩は強そうには見えなかったが、隣町の学校の番長との喧嘩で勝ったことがあるという噂があった。子分たちはその噂をさっそく聞きつけた。

「大沢さん、隣町から引っ越してきた植村というやつ喧嘩が強いようなんです。」

大沢というのはガキ大将の名前だ。

「そうか、でもまたどうせ大したことないんだろ」

ガキ大将はあまり興味を示さなかった。この所強いものと喧嘩ができないのでやる気が失せているようだった。

「でも隣町では番長をぶちのめしたらしいです」

「何だと?そいつは面白いやつだ。やってやろう。よし、そいつを空き地に呼べ」

ガキ大将の腕は久しぶりに鳴った。


植村ははじめ決闘には興味がなかったので、子分たちの申し出を断っていた。

「何であいつは決闘を断るんだ?」

「何でも前の学校で番長はすでに倒したから決闘にはもう興味がないそうです」

「面白い。俺が直接会う」

ガキ大将は植村に直接会いに行った。

「俺と勝負しろ、真剣勝負だ」

「もう興味ないんだ、そういうこと」

「前の学校で番長を倒したそうだな」

「そうだよ。だからもう決闘には興味がない」

「自慢じゃないが俺はこの学校では負け知らずだ。負けは一度もなしだ。」

植村は少しの間だけ考え込んでいた。そしてしばらく間を開けてからやがて答えた。

「それなら面白そうだ。いいよ。いつやるの」

「明日学校の近くの空き地でやる」

「転向してきたばかりで場所がわからないよ」

「俺の子分たちが案内してやるから大丈夫」


次の日になって植村は放課後に子分たちに案内されて空き地へやってきた。空き地には親分が待ち構えていた。正太は植村が心配になって空き地へ見に行った。その他にも野次馬もたくさんいた。どっちが勝つか賭け事をして面白半分に見に来た連中もいた。

「よく来たな」

「言われたから来ただけだよ、さあさっそく始めよう」

ガキ大将は植村の言い方に少しむっときたが、そこは親分としての威厳を保ちたいがためにぐっとこらえた。

ガキ大将大沢と植村は互いに見合って構えた。正太はその様子をかたずを飲んで見守っていた。

少し間があったがやがて決闘が始まった。野次馬たちはただやれやれと無責任に騒いでいるだけだった。

はじめは植村はガキ大将のパンチやキックを受け止めたりよけたりしていて防戦一方だった。ガキ大将が勝つ方にかけた野次馬たちや子分たちはそれを見て喜んだり興奮していた。しかし、正太はあの負け知らずのガキ大将の攻撃を全て受け流している植村をすごい、と感じた。

何分かそんな攻防戦が繰り広げられた後にガキ大将は打ち疲れたのかよろめきはじめた。息も上がってきた。

「なかなかやるじゃないか・・・」

ガキ大将は最後決めてやるとばかりに大ぶりのパンチを仕掛けたが、植村はそれをすらりとよけてガキ大将がバランスを崩したところを飛び蹴りした。ガキ大将は瞬く間に吹っ飛んだ。そこをすかさず植村はガキ大将に何度もびんたやパンチをした。ガキ大将も負けずと植村の胸元をつかんで反撃しようとした。しかし、やがて植村に首元をつかまれて負けそうになった。そのときガキ大将は近くにあった空き瓶を空いていた手で拾い上げて植村の頭に思いきりぶつけた。

「わー」

植村は思いきり叫んだ後その場で倒れた。頭から血を流していた。その場の野次馬たちは大変だ、というばかりにざわざわしはじめた。ガキ大将と植村はお互いに離れた。

ガキ大将は震えるように言い放った。

「負けじゃないからな・・・俺は負けてなんかないからな・・・」

そういい残して子分たちを連れて帰ってしまった。

正太は植村の近くに寄っていった。

「大丈夫?」

「これくらいたいしたことないよ。ただのかすり傷さ」

正太は植村は男らしいと思った。それにひきかえガキ大将はいくら負けたくないとはいえ卑怯だと思った。ずっと男らしいと思っていたのにその卑怯さにこの決闘の慣例が許せなくなってきた。それ以来正太はガキ大将に立ち向かいたくなってきた。



  

どこの学校にも浮いた存在とはいるものだ。そういうものはいじめの対象になりやすい。昔の時代は陰湿ないじめというのはあまりなかったがそれでもあることはあった。

正太の学校はガキ大将が喧嘩をしたりやりたい放題だったが、ガキ大将は強いものを倒すことにしか興味がなかったので、弱いものいじめをする連中にも決闘をしかけた。だから正太の学校にはいじめがガキ大将のおかげでなくなっていた。だからこそ正太はガキ大将の無鉄砲さを許していた。

  しかし、植村との決闘に敗れて以来ガキ大将は急変した。いじめをする連中をほっときっぱなしにした。決闘も全くやらなくなった。子分たちは今まで親分が怖くて弱いものいじめをしなかったが、親分の目を盗んで弱いものいじめをするようになった。

  正太の学校には去年都会から引っ越してきた金持ちの芳川君という同じクラスの子がいた。この芳川君というのが家が大の金持ちで田舎町では珍しかった。車を一家に一台もっているなんて珍しい時代に、時々家から車で学校まで何者かが迎えに来ていた。

正太の学校は田舎町でみんな貧乏だったから芳川君を珍しがった。中には金持ちに嫉妬するものや敵意を抱くものもいた。なぜこんな金持ちがなにもない田舎町に引っ越してきたのかは謎だったが、なんでも芳川君の父は高齢で本業の都会での事業を右腕に任せて自分は引退気分で田舎でのんびりと余生を過ごそうというような噂だった。しかし詳しいことはよく分からない。

  その芳川君が子分たちのいじめの標的にされ始めた。はじめはただの噂なのかと思っていたが、放課後に体育館の裏に芳川君が子分たちに呼び出されている場面を正太はたまたま見てしまった。子分たちに蹴られたりボールをぶつけられたり、ひどいときには殴られたり首をしめられたりしているようだった。周りの人たちは見て見ぬふりをしていた。教師ですら見てみぬふりをした。ガキ大将は知らぬ顔をして子分たちをほったらかしにしていた。しかし、正太はそういうものは絶対に許せない性格だった。自分は喧嘩などしたこともなくはじめは立ち向かうのが怖かった。しかし、1月か2月ほどたったときに子分たちにもういじめはやめろ、と話を持ち出すことにした。

「おい、お前ら芳川君をいじめているだろ」

「それが何だ。お前に何の関係があるんだ」

子分たちの一人がそう言い放った。

「なぜそんなことをするんだ」

「あいつは金持ちで貧乏な俺たちをバカにして見下すやつだからちょっと罰を下してやってるんだ。」

「そんなことないだろ。変ないいがかりつけて。お前たちがやってるのはただのいじめだ。」

「この学校は芳川のことみんな嫌いなんだよ。みんなのために俺たちは働いてるんだ。」

正太は彼らを許せなかった。芳川君のことはよくわからなかったが、貧乏人を見下しているようでも鼻につくような人には到底みえなかったからだ。           

   ある日放課後にガキ大将の子分たちに正太は体育館の裏に呼び出された。そこには芳川君の姿もあった。何の用なのか正太は分からなかったが、自分が抵抗したから呼び出されたのだろう、ということは分かっていた。

「何の用だよ」

正太は子分たちに言った。子分たちの一人が言った。

「お前生意気なんだよ。俺たちに立てつくやつらはとっちめてやる」

「親分がいないからっていじめをするのは許せないからだ」

「親分がいないからだって?」

「そうさ、お前らは大沢という親分がいて逆らえないから今までいじめをしなかっただけだ。親分が何も言わなくなったらいじめしたい放題だもんな」

「何だと!」

子分の別のやつが怒り狂ったようにそう言った。

「とっちめてやろう」

正太は内心怖かった。相手は3人もいるし喧嘩など初めてだったからだ。でも芳川君のためには逃げるわけにはいかなかった。何より悪に対して逃げたくなかった。

決闘は3対1だったので正太が勝てるわけがなかった。決闘が始まっても芳川君はただびくびくと眺めているだけだった。何とか奮闘したものの、結局負けてしまった。

でも子分のうちの一人には怪我を負わせることができた。

芳川君が正太に近づいてきた。

「正太君大丈夫?」

「大丈夫これくらい大したことない」

以前卑怯なやり方で負けた植村の気持ちが正太は分かった。でも気持ちがよかった。例え負けても3人がかりで卑怯なやり方をやる相手に一人で闘ったのだ。悔いはなかった。自分も植村みたいに勇敢な男になれた気がした。

隣で芳川君はしくしくと泣いていた。

「ごめん、僕のせいでこんなことに」

「泣くなよ。俺たちは正義のために闘ったんだから。3人相手に2人で闘ったんだ。喧嘩自体は負けたけど負けじゃない。」

その言葉を聞いて芳川君は不思議な目で正太を見たがやがて、

「そうかな・・・」

といって泣きながら笑ったように見えた。

その喧嘩以来我々は友達になった。


  ある日の休日正太は芳川宅に招待された。田舎の町には到底不釣り合いなくらいな豪邸だった。何十坪もあるような土地に日本式庭園があって錦鯉のようなものが庭の池のようなところを動いていた。こんな家は見たことなかったので正太はめんくらってしまった。うちの両親にはこんな豪華な庭絶対に建てられないと思った。

「こっちが父の書斎で、リビングで風呂場で、と色々と案内してもらった。どれも正太

の知る家庭の家の世界とはかけ離れたものだった。どれもが別次元の世界に見えた。

正太の家は居酒屋だったの居酒屋で使っている台所と家庭の台所も同じだったし風呂場と洗濯場が一緒になってて着替えるのも大変なくらいスペースが狭いものだった。

休日だったので芳川君の父親がリビングにいた。

「これはこれは、譲(ゆずる)の友人かな?いらっしゃい。」

ゆずるというのは芳川君の下の名前だ。ハイソな家庭出なのでこの時代にしてはモダンな名前だ。特に田舎町でどろんこになっている少年でゆずるなんて名前の人は聞いたことがない。

「こんにちは芳川君のお父さん」

正太は挨拶した。

「正太君だっけ?ゆずるは転向してまだ一年だし、都会から出てきて何かとこちらのことはよく分からないことが多い。仲良くしてもらうと助かるよ。」

中学生には難しい話だから分からないかな、という顔つきをしてるように見えながらもそう言った。

「いえ、そんな。」

正太は褒められてるようになり少し照れくさくなった。

「もう部屋に行こう」

芳川君がそう言ったので二人で部屋に行くことにした。

芳川君の部屋はものすごく広かった。正太は兄と二人で6畳もないような部屋でぎゅうずめになって暮らしていたのに、芳川君の部屋は一人部屋なのに、6畳以上、あるような広さだった。

「すごい部屋だね」

「大したことないよ」

芳川君はあっさりとそう言った。

「ゆっくりそこにこしかけてよ、座布団もあるし。」

「ありがとう」

しばらく沈黙した後、芳川君が口を開いた。

「この前は本当にありがとう。助かったよ。」

「いやそんなつもりじゃ。ただあいつらが許せなかっただけだよ。」

「うん、僕もあいつら嫌いだ。金持ちってだけで僕をいじめてくるから。」

「そうだね。」

「金持ちの何がそんなにいけないの?確かに僕はこの田舎の町じゃ珍しいかもしれないけど。でも金持ちでいいって思ったことなんて一度もないし。」

「そりゃあこんな田舎町でみんな貧乏だから嫉妬はすると思うよ。俺も兄貴とは喧嘩してばっかりだから時々自分の部屋がめちゃくちゃほしくなるし。」

「自分だけの部屋なんて孤独だよ。兄弟もいないし」

「そうなんだ、でも兄弟なんかうっとおしいだけだよ、うちは二人兄弟だけだから珍しい方だけどそれでも時々うっとおしいもん。」

「喧嘩できるだけうらやましいよ」

しばらく沈黙が続いた。

すると芳川君が今まで話したかったといわんばかりに父親のことを話し始めた。

「うちって金持ちなのになんでわざわざ都会から田舎に来たって思われてるでしょ?」

「うん」

「うちの親が東京で始めた会社を去年引退するから田舎に隠居することになったんだ。」

「それは噂で知ってる。そうなんでしょ?」

「確かにそこまでは正しいんだ。でも・・・本当の理由はそれだけじゃないんだ。」

芳川君はまた黙ってしまった。そしてしばらくしてからまた話し始めた。

「本当は父親はこっちに愛人がいたんだ。取引先の都合で知り合ったらしくて。母が亡くなって間もないのに、もう愛人を作って。今度たぶん再婚するんだ。ちょうど引退するし田舎暮らしもいいと思ってこっちに来たんだと思う。」

「そうなんだ。でもお父さんがいいと思ったんでしょ?」

「でもお母さんのことあんなに愛してるって言ってたのに。そもそもうちの親がこんな高齢なのは元々再婚だからなんだ。以前の母親は戦時中の東京大空襲で亡くなってしまって。だから今の僕の母親とは再婚なんだ。でもその母親もまた病気で亡くなってしまったからまた愛人を田舎に作ったんだ。」

「そういう難しい話はよく分からないけどお父さんも色々と寂しかったんじゃないの?」

中学生の正太には難しい別世界の話に聞こえた。少なくとも自分の両親は田舎生まれで田舎育ちで平穏な生活を送ってきた。両親にはこのような派手な愛人関係の世界などとは縁が全くなかった。父も母も地元出身者だし愛人だの浮気だの話は全く聞いたことがなかった。

「寂しいというならそれはそれで分かるけどね。でもなんかそんな父が冷たく感じる。母親がしょっちゅう変わる自分の身にもなってほしい。」

しばらくしてからまた話始し始めた。

「それに、都会で成功した仕事って女性でいやらしい体をうる仕事みたいなんだ。それで大金もちになったんだ。そこの仕事の女性とも関係があったみたいだし」

「そうなんだ」

正太には返す言葉がなかった。

「そんな父親が僕は好きじゃないし。だから金持ちに生まれてよかったと思ったことなんて一度もない。うらやましいだなんて思われたくない。」

「そうだよね。」

正太には難しい話だったが何となく分かった気がした。芳川君は中学生なのに色々と大人の世界を知っているようだった。

しばらく談話した後、正太は帰ることにした。

「今日はありがとう。言いたいこと言えた。きみにしか話せなかった。ありがとう。」

芳川君の家を出て表に出たところにガキ大将と子分が待ち構えていた。

「お前の家に電話したら芳川の家に居るって聞いたもんでな。」

「何の用だよ。」

正太は身構えるようにそう言った。

ガキ大将が話始めた。

「ここのところお前俺の相棒たちを可愛がってくれてるそうじゃないか。」

「お前らの手下たちが芳川君をいじめてたからだ。」

「そいつらがそんなことするわけないだろ。」

「本当だって。」

「そんなことはどうでもいい。相棒を傷つけるやつはやり返さないとな。」

今度は子分を5人も連れてきていた。3人でも敵わなかったのに5人では勝負にならない。

「芳川逃げろ」

芳川君はおどおどしてその場で立ちすくんでしまった。

「やっちまえ」

子分たちがいっせいに襲いかかってきた。

正太はぼこぼこに殴り倒されてしまった。

「思い知ったか」

子分たちは吐き捨てた。

「どうだ!正太」

「どうだって?・・・お前かっこ悪いよ。大沢」

ぼこぼこの傷だらけの顔で正太はガキ大将にそう言った。

「かっこ悪いだって?」

「そうさ、昔のお前は確かに乱暴だったけど、弱いやつとは闘わなかった。強いやつとだけ闘った。それに弱いものいじめしているやつもとっちめていた。今のお前は弱いものいじめしている部下をやられた恨みでやり返す卑怯ものだ。」

「何だと?」

「本当は知ってるんじゃないのか?芳川はお前の子分たちにいじめられてたんだ。それを見て見ぬ振りしてたんじゃないのか?」

「うるさい、黙れ!」

「植村にやられてからのお前は正義の番長なんかじゃない。ただの卑怯な負け犬だ。」

ガキ大将は怒り狂ったように言った。

「あれは俺の負けじゃない!俺は負けたりしない!」


「かっこ悪いよお前」

正太は言った。

「本当にかっこいいやつは喧嘩に強いやつじゃない。正々堂々と闘えるやつのことを言うんだ。あのとき喧嘩に負けてもお前はいさぎよく負けを認めてればかっこよかったんだ」

ガキ大将は怒り狂った。

「喧嘩が弱いやつは番長になれないんだよ。」

「卑怯なやり方ででも勝ってもかっこいいのか?」

「うるさい、黙れ!」

その時子分の参謀のような長谷川と言われているやつがガキ大将にこそこそ何かを耳元で話し始めた。

「なるほど・・・」

話終わると正太の方にまた向かって言った。

「正太よ、喧嘩が強いのがかっこいいわけではなく正々堂々としたものが強いのなら、俺と度胸試しをしろ。どちらが本当にかっこいいか勝負だ。」

番長は何やら手下に何かをアドバイスしてもらったらしくそう話しはじめた。

「今度の日曜宮下坂の線路前の丘の土砂で度胸だめしをしよう。」

思わぬ提案に正太は驚いたが何をするのか聞くことにした。

「何をするんだ。」

「宮下坂の線路の上には土砂の断崖絶壁がある。そこに向かって自転車を一斉にこぐんだ。先に怖くなってブレーキをかけて止まった方が負けだ。」

芳川君はもごもごしたように

「そんな危険なことやらない方がいいよ。乗せられちゃだめだよ。」

確かに怖かったがこれ以上芳本君がいじめられるのが許せない自分もいた。

「いいよ受けて立つよ」

正太は即答してしまった。


決闘は来週になった。



来週の日曜日に宮下坂近くの丘の上に全員で集合した。朝の午前10時を回ったところだった。日差しは相変わらず春なのに熱く照っていた。正太と芳川君は時間前に集合したが、ガキ大将たちは少し遅れてやってきた。子分は5人ほど連れてきているようだった。あの長谷川というやつもその中にいた。

「よくびびらずに来たな。それだけは褒めてやる。」

「当たり前だ。」

正太は言い返した。

ガキ大将が子分の長谷川になにか指示を出したようだった。長谷川というのがガキ大将の代わりにルールの説明をし始めた。

「まず、この木のスターラインから一斉に自転車を走らせる。向こうの崖の上まで一直線で走る。先に止まった方が負けだ。向こうは電車の線路になっているが高さは10mほどしかないから死ぬことはない。だから飛び出したとしても大丈夫にはなっている。ただし落ちたときはものすごい怪我をするだろうけど。」

正太は

「それだけ?」

長谷川は続けた。

「辞めたいなら今のうちだよ。負けたくないなら。」

長谷川はわざと正太を挑発した。

「辞めるわけないだろ。」

正太はガキ大将に向かっていった。

「もし負けたら負けた方はどうなるんだ?」

ガキ大将は言った。

「負けたら度胸のない烙印を押されるんだ。」

長谷川が横から入ってきた。

「しかし、大沢さんそれだけじゃ面白くないですよ。何か条件をつけましょう。」

「別に男の勝負に条件もなにもないだろ。」

「もし正太たちが負けたら二人とも大沢さんや俺たちの言うことなんでも聞くっていうのはどうですか?」

正太はふざけるな、と思った。だがその代りに芳川君を助ける方法を思いついた。

「いいよ。ただもし俺たちが勝ったら二度と芳本君に近づくな。いじめるなって意味だ。」

長谷川はにやっと笑った。

「いいだろ。よし始めよう。では大沢さんお願いします。」

ガキ大将もその条件で納得したようだった。男の勝負ができればなんでもいいようだった。


  正太とガキ大将はスタートラインに自転車をまたいで構えた。二人とも緊張していてその緊張感が今にも周りを張り裂けそうな雰囲気にさせていた。芳川君は心配そうに正太のことを見ていた。長谷川が進行の指揮をとった。

「それでははじめます。いいですか大沢さん?」

「ちょっと待て」

ガキ大将は思いのほか緊張しているようで急いで手を拭いた。おそらく手が汗でびっしょりだったのだろう。だがそれを悟らせないようにあわてて手を振り払うように服を乱暴にこすった。

「いや、服にただ虫がついていただけだ、何でもない。」

ガキ大将は嘘をついた。

長谷川が言った。

「いいですか?始めますよ?」

二人は緊張し始めた。

「位置について・・・・よーい・・・」

長谷川が合図を始めた。一瞬だけ陽気な風が吹いた。

「どん!」

二人は一斉に自転車をこぎ始めた。向こうの丘までは100m近くある。自転車ではあっという間の距離だが正太にはものすごく長い距離に感じた。

二人はお互いをけん制するようにこいでいる。

「止まるのなら今のうちだぞ、正太」

「そっちこそ先に止まれよ。」

お互いに譲らなかった。

芳川君は相変わらず心配そうだったが、半分くらいの距離を走り終わるといよいよゴールの崖が近づいてきたのをみておどおどし始めた。もう見ていられない、といった感じだった。長谷川を除く子分たちもみんなおどおどし始めた。

「大沢さん大丈夫かな」

そんな会話をし始めた。

いよいよゴール目前になった。先にどっちが止まるか。

「おいまだ止まらない気か・・・後悔するぞ。」

「そっちこそ」

ガキ大将は本当は正太がすぐに止まると思っていたが、思いのほかなかなか止まらないので焦りだした。

ゴール10m前。もう崖は目の前に見えている。それでも二人とも止まらない。

「おいまだか・・・」

ガキ大将はだんだん怖くなってきた。だが負けるのも嫌だった。

ゴール直前2m前。

長谷川が急にガキ大将の前に現れてガキ大将を止めようとした。

「おいどけ邪魔だ!」

大沢はびっくりして急ブレーキをかけて、長谷川にぶつかってともに地面に崩れ落ちた。

一方正太はそれを見て驚いてしまったが、自分は崖のすぐ近くにいることを忘れてしまった。

「おい危ないぞ止まれ正太!」

ガキ大将は正太に向かって叫んだ。

「あ!」

正太が気が付いた時にはもう遅く自転車は崖から重力で落ちようとしていた。

「止まれ、ブレーキをかけろ!」

ガキ大将は叫んだ。

芳川君も

「正太君!」

と叫んだ。ほかの子分たちもぎゃーとかわーとか声を張り上げた。

正太は何が起きたのか分からなかったが、崖から転落しようとしていた。目の前の線路に一直線で落ちた。

「わー!」

「正太!」

みんな叫んで崖の方へ向かっていった。

正太は下に自転車ごと落ちて横に倒れていた。幸い命に別状はなかったようだ。

「いたた・・・」

正太は足に血を流す傷を負ったのと落ちたときの衝撃で頭がガンガンしていた。

「大丈夫か?」

ガキ大将は叫んだ。

「なんとかね・・・」

ガキ大将は一体なぜ長谷川が急に飛び出してきたのか分からなくなった。

「何で急に止めたりしたんだ長谷川!男の勝負の邪魔をするとは!」

長谷川はにやりと一瞬笑ったあと、不気味に笑い声を上げた。

「何がおかしい」

長谷川は笑いながら急変したように話しだした。

「男の勝負だって?バカバカしい。大沢さん。俺はそういうのに反吐が出るんですよ。」

「何だと?」

「あなたは学校で弱いものいじめをするやつらを取り締まっていた。だから学校の平和は保たれていた。俺は前の学校でいじめられていたんですよ。だから強い番長についていればいじめられなくてすむと思った。だからあえてあなたの子分になっただけです。今まで俺をいじめてきた弱いものいじめをする連中に仕返ししてやるためにあなたのグループに入った。でも俺はそれだけじゃ満足できなかった。弱いものをいじめたかった。強者の気分を味わいたかった。だが、あなたは弱いものいじめをさせてくれなかった。俺は強い番長グループに入れば弱いものをいじめられるのかと勘違いしてました。だが、あなたは植村に負けて腑抜けになってから弱いものいじめを取り締まらなくなった。そこで俺は弱いものいじめをしようと他の仲間を募って芳川をいじめ始めたんです。

弱いくせに金持ちを気取ったやつが許せなかった。そんなやつは排除すべきなんです。

その芳本をかばう正太にも反吐がでた。だから今回罠にはめてやろうと思って。」

ガキ大将は長谷川の本性に愕然とした。忠実な子分だと思っていたのに裏切られた気分になった。

「罠にはめるだと?線路の下に落とすことか?」

「そうですよ。これで少しは恐怖を味わえばいい。これから地獄のショーが始まりますよ。」

「地獄のショーだって?」

「そうですよ、ここらは全く舗装されてないさびれた田舎の線路です。断崖絶壁に囲まれた線路、上には登れない、いつ電車が来るかも分からない。まさに地獄でしょ。」

ガキ大将は怒りが込み上げてきた。

「お前それを計算してこの計画を持ち出したのか?男の勝負だとかいって」

「ええ、そうですよ。でも大丈夫ですよ。ここは田舎、電車なんかめったにこないしそれまでには崖の上を這いつくばって上の方へ登れば何とか助かりますから。多少の恐怖を与えてやるだけです。車掌さんに事情を話せば助けもそのうち来ますよ。」

長谷川はなんでもないという風にあっけなくそう言い放った。

「ふざけるな!」

ガキ大将は思いきり長谷川をぶん殴った。

長谷川は吹っ飛んで地面に倒れた。だが痛くもかゆくもない、というような様子でまたにやりと笑った。

ガキ大将は、ふと我に返って崖の下の線路の正太を見下ろした。

「おーい大丈夫か?まだ電車は来てないか?」

「あーまだ来ないみたいだ」

「何とかそこからこっちへ登れないか?」

「あー試してみる」

正太は助走をつけて線路から土砂の絶壁を登ろうとした。しかし、角度がほぼ90度なので非力な正太には上まで登りきることは無理だった。

「手を出すからなんとかここまで来い!」

何度も挑戦したがだめだった。

少しの間は土砂の上の方に登ることはできても、土砂は全く舗装されていない土なのですぐに滑り落ちて下の方へ引き戻されてしまった。おまけに土砂は線路のギリギリ横を囲うようにそびえたっていた。もし電車が来たらひかれてしまう可能性だってある。

長谷川の言うとおり、田舎の線路で全く舗装されていないので一度落ちたらアウトであるような危険な構造になっていた。

ガキ大将は長谷川の胸ぐらをつかんだ。

「おい、話が違うぞ。上までちっとも登れないじゃないか。」

さすがの長谷川もあわて始めた。

「おかしい・・・計算ではこんなはずじゃなかったのに・・・・」

冷静な長谷川が急にしどろもどろになってきた。

芳川君も天に祈るように正太を見守っていた。自分のせいで彼をこんな目に遭わせてしまった。

ガキ大将は腹をくくった。

「おい、聞こえるか?そこに留まっててももう助からない。いちかばちかで駅のホームへ向かうんだ!確かそっち方向へ行けば俺らの自宅のある境町駅の方面のはずだ。俺は今から宮下坂のおじさんの家へ行って電話を借りてお前の自宅へ電話して親御さんを堺町駅に向かってもらうように頼む。親御さんが駅員さんに事情を話せば電車を止めて貰えるかもしれない。」

正太はうなずきながら

「分かったやってみる」

と言った。

ガキ大将はさらに

「お前の自宅の電話番号を教えろ!」

正太は下から叫んだ

「02―xxx―xxxxだ!」

「02―xxx―xxxxだな?分かった。お前らメモあるか?今の番号書き写せ!」

しかし、子分たちはメモや筆記用具など持ち合わせていなかった。

「くそしょうがねー覚えるか」

ガキ大将は暗記が苦手だったので不安になった。

「俺は今すぐおじさんの家へ自転車で走る。お前も境町方面へ全力で走るんだ!」

正太は叫んだ

「分かった。」

正太は自転車を起こして、境町駅のホームへ向かい始めた。

芳川君は正太に向かって叫んだ。

「頑張って!絶対助かるから!」


ガキ大将は子分の中で一番勉強のできる田中と一緒に大急ぎでおじさんの自宅へ向かい始めた。距離的には2~3kmだから5分もあれば着く筈だった。ガキ大将は田中に

「番号を覚えてろ、絶対忘れるんじゃないぞ。」

「分かりました、大沢さん」

そういいながら必死にペダルをこいだ。

そうは言ってもガキ大将もペダルをこぎながら02―xxx―xxxxと頭の中で繰り返した。忘れないように必死に。

  正太は怖かった。だが芳川君を心配させないように平気を装って必死に堺町駅方面に向かった。田舎は駅と駅の距離が長く、一駅区間は30㎞ほどはあった。宮下坂は境町駅と反対方面の堤下駅のちょうど中間地点くらいだった。だから境町駅までもちょうど15kmくらいはあった。自転車でこいでも30分ほどはかかる。30分間必死の全力疾走だった。春なのに線路には熱気がこもっていて走ると汗が出てきた。途中暗闇のトンネルなどは蒸し暑かった。暗い雰囲気だったが怖がらずにただただ必死にこいだ。他の子分たちと芳川君は天に祈った。


  5分が立った頃ガキ大将と子分の田中はおじさんの自宅に着いた。

おじさんは決死の表情のガキ大将に向かって

「おい大輔どうしたんだ、そんなに慌てて」

「おじき、いますぐ電話を貸してくれ!」

「ああいいが・・・何か急用なのか?」

とおじさんが話してるまもなく

電話のところへ走りついた。

ガキ大将は田中に向かって

「番号は02―xxx―xxxxで合ってるよな?」

「はい、そうです合ってます。大沢さん」

そういって正太の自宅へ電話をかけた。

電話はすぐに繋がった。

「はい川上ですが・・・」

幸い自宅にお父さんがいた。

「あの川上さんのご自宅でしょうか?私正太君の同級生の大沢といいます。あの、すぐに正太君についてお話しなければならないことがあります。」

「何ですか?何か正太にあったんですか?」

「はい、正太君が宮下坂の断崖絶壁から落ちて登れなくなったんです。」

「何だって?なんでそんなことになったんですか。」

父親の形相は険しくなり話し方も焦燥感に満ちていた。

「事情は後で詳しく話しますが、とにかく事故で転落してしまったんです。上は断崖絶壁になっていて登れません。とにかく正太君は今境町駅に線路沿いに走って向かっています。すみませんが、境町駅に向かって電車を止めてもらうように車掌さんに話してもらえませんか?」

父親は厳しい言い方で

「分かった、事情は後でゆっくり話してもらう。しかしそれにしてもそんなところに正太を連れまわしてどういうつもりだ?あそこは自殺の名所で有名なんだぞ。一度落ちたらねずみ返しになっていて助からない。」

「本当にすみませんでした!」

ガキ大将は誠心誠意謝った。

しかし、謝っている途中で電話は切られてしまった。

「大沢さん・・・話は通じましたか?」

「ああ大丈夫だ」

少し考えた後、大沢は田中に向かって

「よし俺たちも境町駅へ自転車で向かうんだ。」


  川上家では父勝則が母多恵に向かって事情を話した。お母さんはその話を聞いて気が転倒しそうになってしまった。

「とにかく今はもう時間がないんだ。正太は境町駅に向かっているそうだ。我々も行こう。宮下坂から境町駅まで15kmはある。30分はかかる。それまでに電車が通らなければいいが・・・とにかく正太が境町駅にたどり着くまで電車を止めて貰うんだ」

父勝則と母多恵は大急ぎで駅へ向かうことにした。自宅から駅までは自転車で大体10分くらいはかかる。急いで家を出た。



  その頃正太は薄暗いトンネルを抜けてかなりの距離を自転車で走っていた。ただただ必死にこいでいた。いつ電車が来るか分からない恐怖と闘いながら・・・電車が来ないように祈っていた。


  正太の父と母は大急ぎで駅に辿りついた。まず、車掌さんを探した。小さな駅なので探すのには全く苦労はしなかった。

「あの、ご迷惑を承知でお願いがあるのですが・・・」

車掌さんはにっこりと笑って

「何でしょうか?」

と答えた。

「実は私たちの息子が宮下坂の崖から不慮の事故で落ちてしまいまして、線路の上を今こちらに向かって走っているんです。」

「そいつは大変だ!。あそこは舗装されてない土砂で囲まれていてその先も山で囲まれてますから一度落ちると大変なんです。しかしなぜそんな危険なところに」

車掌さんもびっくりしたようだった。

「ええ、私もおかしな話だとは思うのですが・・・自殺の名所にもなっているとか。まさか自殺するためでもあるまいし。あの・・・途中から線路の外に抜け出す方法はないのですか?」

父はそう聞いた。

「いえ、あの辺りは一体土砂と山の絶壁になってますからこちらのホーム付近になるまではおそらく抜け出せないと思います。」

父は、いくら田舎とはいえそんな危険な構造になっている線路の横の土砂と行政の建築のずさんさに心底腹が立った。

父は本題に入ることを忘れていた。

「あの今電車はどちらからどちらに向かっているのでしょうか?」

「先ほど前の駅を出発したと聞きましたからおそらくあと10分ほどでこちらの駅に電車が来るかと思います。」

「あの・・・電車をいますぐ一時的に止めることは可能なのですか?」

「そうしたいのはやまやまなんですが・・・この田舎駅ですからホームに到着したとき以外に運転手と通信手段を取る方法がないんです・・・本当に申し訳ありませんが。それに・・・」

車掌は続けて話をしようとしたが、父は遮って

「ではこの駅に停まった時にときに電車の運行を休止するようにお願いできませんか?」

「それが・・・」

父の中で不安がよぎった。

「そうしたいのですが、今走ってこちらに向かっている電車は各駅ではないのでこちらには止まらないのです・・・」

この当時は田舎の電車の設備や通信機器の在り様は非常にお粗末なものだった。

父は焦った。

「何とかならないんですか?」

何度もそう聞いた。

「はい・・・残念ですが・・・早く息子さんがこちらに到着してくれることを願いたいのですが・・・」

父と母は心配そうにホームから線路の向こうを眺めた。早く。頼むから早く来てくれ。

そう願った。



  その頃ガキ大将と田中は必死に境町駅まで向かっていた。

「俺たちがたどり着く方が後やから正太には何もできないけど、何かせずにはいられないからな・・・」

「はい、大沢さん」

そういって二人とも一心腐乱にペダルを漕いだ。


長谷川を除く子分たちと芳川君も堺町駅へ自転車で向かっていた。正太の無事を見届けるために。

「正太君頑張って」

芳川君は心の中でそうつぶやいた。



  もう何分立っただろう。時間がたつのがこんなに長いとは長い人生の中で初めてだと父は思った。こんなことで息子に死なれたくない。その想いが必死だった。母は祈るような気持ちでホームの先のはるか向こう側を見ていた。

「まだですか?まだ正太は見えないんですか?」

「まだ来られてないようです。」

車掌さんは心底残念だという顔でそう言った。

「電車はあとどれくらいでここを通過しますか?」

「おそらくあと5分くらいです・・・」

あと5分。あと5分で正太は来なかったら・・・





  それから5分近くがたった。もうそろそろ電車が来てしまってもおかしくない時間だ。父と母は焦燥感に駆られていてもたってもいられなかった。父はホームの間を行ったりきたりじっとせずにはいられないようだった。母の顔は涙目になっていた・・・

その時・・・電車が来る時間にちょうどなってしまった。

正太の姿はまだ見えない・・・

「もうダメだ・・・」父は心の中でそうつぶやいた。ホームにぐったりとしゃがみこみ下を向いた。そのとき・・・

遠くの方で陽炎がかかったようなもやの中から人の姿が現れた。

「あれ・・・正太よ・・・きっとそうよ・・・」

母は叫んだ。

ホームにしゃがみ込んでいた父も急いでその人の姿が見える方をみた・

はっきりと正太の顔だとは分からなかったが確かに自転車に乗っているようだった。

父と母の中に希望が見えた。

「そうだ、正太だあれは!そうに違いない!神様が最後の最後に救ってくださった。」

だんだんと顔が見えてきた。その姿は正太に間違いないようだった。車掌さんも嬉しそうに「やった」と叫んだ。急げ、正太!父と母はただそういう想いだった。

しかし、電車はもうそろそろ来る頃だった。

「車掌さん電車の来る時刻にはもうなってるはずですが大丈夫なんですか?」

「ええたぶん時間が遅れてるんだと思います。ですが、もうそろそろ来てもおかしくないはずです。」

正太の姿がはっきりと見えてきた。残りはあと数百メートルの距離だった。

「はやく、正太急げ!」


  正太も駅のホームがやっと見えたのが分かった。電車が今まで来なくて本当によかった。長い長い30分だった。まるでマラソンを走ったような気分だった。でもやっとゴールだ。ホームには誰か人影がこちらを見ているのが分かった。

「あ、お父さんお母さん」

ホームには両親が自分を待っているのが見えた。正太はそれが分かって少し勇気づけられた。ずっと一人で疾走していた不安から解放された。



しかし、その時電車も向こう側から見えてきてしまった。

「ああ、電車がまもなく来てしまいます。」

車掌さんは慌てふためいた。

電車も残り数100メートルの距離だった。正太は残り100メートルを切っていた。

「はやくはやく、正太こっちよ。」

母は叫んだ。

「自転車を捨ててこのホームに飛び乗るんだ!」

父も叫んだ。

数秒後正太はホームにたどり着いた。

「お父さんお母さん」

正太は自転車を持ち上げてホームに上がろうとしたが、父が

「そんなものは捨ててしまいなさい、さあ早く手を」

もう電車は駅の目の前に迫っていた。

正太は父に引っ張られてホームに飛び乗った。

電車はその10数秒後に駅を通過していった。自転車はものの見事に電車によってぐしゃぐしゃに粉砕された。


父と母は涙目になっていた。

「よかった、本当によかった。なんでこんな無茶をするんだ。心配かけさせて」

三人で抱き合った。

正太は事情を話そうとしたが、父も母も聞く様子がなかった。ただ無事でいてくれたことを喜んでくれた。

車掌さんも本当に心から「よかったですね」と言った。


  それからしばらくしてガキ大将や田中や他の子分や芳本君が現れた。


「正太君!」

「芳川君・・・」

二人は抱き合った。


その後ろにはガキ大将と子分たちがいた。

ガキ大将は照れくさそうにも後ろめたそうにも思える感じで正太に話しかけてきた。

「ほんまによかった。」

二人は握手した。

「大丈夫、これくらいじゃ俺は死なないから・・・」


父はガキ大将に話しかけた。

「君が大沢君か・・・」

ガキ大将は普段らしかぬ慌てた態度で

いきなり土下座をし始めた。

「本当に申し訳ありませんでした。」

ガキ大将はぶんなぐられてもすまないくらいのことをしてしまったのだと自覚していた。

「いや土下座はやめてくれ・・・別に怒るつもりもない。」

てっきり怒られるのかとおもっていたが正太の父は穏やかだった。

「怒ったところで仕方がないし・・・もしかしたら正太にも問題があったのかもしれないし・・・」

「あのいえ、これはおれの子分・・・あ・・・いや・・・友達が全部しでかしたことなんです。全てぼくらの落ち度なんです。」

ガキ大将がそう言っても父は事情をさらに聞こうとはしなかった。

「いや、無事だったからいいんだ・・・。ただ・・・もうこのような無茶は二度としないと誓ってくれるか?命というものは一番大切なものなんだ。それを粗末にしてはいけない。」

「はい・・・」

父は正太が無事でいてくれたことが何よりだったし、心配で疲れ果てたので事情を聴く気にもならなかったのだろう。


そういって僕らは別れた。



  それからしばらくたっても父はあの事件のことは一切聞かなかった。聞きたくても聞けなかったのかもしれない。しかし数か月後たったときに正太は自分から事情を全部話した。

「そんなことだと思ったよ。多分お前のことだから度胸試しでもしたのだろうって。ただ前にも言ったが、友達を助けることも重要だが自分の命を守ることが何よりもまず大切なんだぞ。自分の命あってこそ他人も初めて守れるんだ。」

父は全てをすでに見通していた。

「なぜ怒らないの?」正太は聞いた・

「なぜ・・・?いやな父さんは昔不良だったんだ。親にもずいぶん迷惑かけた。喧嘩なんか日常茶飯事だった。喧嘩で意識不明になって親に心配かけさせたこともある。だから身に覚えがあるんだよ・・・」と照れくさそうに自分の過去を話した。

そのあとしばらくして

「さすがに崖から落ちる度胸試しはしなかったがな」

そういって大声で笑った。

父は全てを許してくれた。ただ、自転車だけは大人になるまで乗ってはいけないと言った。そして危ない度胸だめしは二度とするな、と。



  学校ではあの事件以来ガキ大将は子分を従えたり喧嘩をしたりすることもあまりなくなった。ただし弱いものいじめをするようなやつにだけは相変わらず喧嘩をけしかけていた。長谷川はあの事件以来保護観察と停学処分になった。殺人の意思はなかったわけで、それに未成年ということもありそれだけの処分ですんだ。復学した後も、二度と正太やガキ大将たちに話しかけてくることはなかった。卒業まで。いつも孤独に一人で過ごしているようだった。いじめをすることもされることも喧嘩をすることもなく。

「悪かったな長谷川のことは」

ガキ大将は正太にそう言った。

「俺別に恨んでなんかいいないよ」

「そうか・・・でも本当にすまなかった。本当だったら保護観察なんかじゃすまされないんだろうけど。何しろまだ未成年だし、殺人未遂とまではいかないし。」

「長谷川の気持ちも分からなくはないけどね。いじめられたらいじめかえしたくなるんだよ。でもそれは心が弱いのかもしれない。いつかあいつが心が開けるような人が現れるといいんだろうけどね。」

ガキ大将は驚いた表情で正太のことを見た。

「お前は本当に心が広いな。芳川を助ける時もそうだけど。」

「弱いものいじめを撃退しているお前も同じじゃないのか。」

「いや俺はさ、ただそれは男としての番長として正義だと思ってやってただけなんだ。

でもお前に言われて分かったんだよ。俺はただ番長であることにこだわってただけなんだって。喧嘩に負けちゃいけない、強くなきゃいけない、ってただそう思ってた。でもお前が喧嘩には勝っても負けても正々堂々としてなきゃいけないんだって言っただろ。お前からそれを教わった。それにあの長い線路を自転車で走る度胸・・・俺にはない。俺の負けだよ。」

「でも俺もあんな無茶な度胸試しは二度とするなって親父に言われたよ。」

「やっぱりそうか」

そう言ってお互いに笑いあった。


二人は今回の事件でともに成長したのかもしれない。男気や強さというのは喧嘩の強さでも度胸試しの強さでもないことを。命を大切にすること。そして真の友情を作ることの大切さを。そういうのが真の強さなのかもしれない、と。ガキ大将とはその後も友情が続いた。






  喫茶店で長い話を正太は話し終えた。しばらく沈黙があった。

「どうしたの?」

「いや・・・なんていったらいいか」

清子は言葉に詰まった。

「馬鹿げた話で笑えたでしょ。」

「そんなことない、別に。でも大変だったんだね、そんなことがあったなんて」

「そう大変だったよ。あのとき死んでたら今君に会えてなかったんだもの」

「もう・・・縁起でもないこと言わないでよ」

とくすっと笑った。

「でも・・・・」

「でも・・・・?」

「そういう経験って人間必要なんだと思う。必死に何か人とぶつかったり本音をさらけだしたり。それが正太君の場合はそのガキ大将との決闘だったのかも・・・。なんていうか・・・うまく言えないけど・・・私って都会育ちだからそういう人間関係とかドライな環境で育ったから。人と本音でぶつかりあったりそういう経験したことないかもしれない。だから私は大学でこの町に来ることにしたの。特に意味はないけど小さいときに旅行中に電車でこの町を通りすぎた時に何かを感じたの。だからこの町の大学に通うことにした。田舎町で本当の人間関係を学ぼうと思ったの。都会なんて社会人になればいくらでもいくチャンスがあるんだし。」

「そうだね・・・でもそんな風にいってもらえるとうれしいよ。地元の大半の人はあの事故を馬鹿げてるって笑うから。この田舎町が気に入ってくれたのもうれしいよ。そのおかげで君と出会えたんだし。」

「そうね・・・」といって清子はまた笑った。

「でもその長谷川って人今何してるんだろうね。」

「さあ、分からないな。でもあの事件をきっかけに反省して孤独と向き合っていたようだったよ。今頃大人になって心を開ける友達もたくさんできてるんじゃないかな。いじめられたら仕返しをするんじゃなくて、いじめられた経験をいい方向に持って行けてればきっといい人生を送っているはずだよ。」

「そうね、そうだといいね。」清子も賛同した。



喫茶店を出ると清子を駅まで送った。境町駅だ。昔と違って土砂の断崖絶壁ではなく、ちゃんと傾斜のあるコンクリートで周りは舗装されている。あの事件以来町長が真剣に駅の構造問題について検討したようだった。今では線路に落ちても登れるし線路と絶壁の幅も広がったので事故につながるようなことはなくなった。時代とともに田舎も進歩するものだ。

清子は隣の太田原町で一人暮らしをしている。改札で別れることにした。

「じゃあまた明日ね・・・明日は授業同じのなかったか・・・じゃあ明後日かな。」

「うん明後日ね。」

そう言って二人は別れた。


清子を自転車で送った後に自宅に正太は帰ろうとした。もう季節は春だった。あの頃と同じように。大学を出たら地元に就職するのか東京に出るのかはまだ決めていなかった。でもきっといくつになってもこの田舎町は正太にとっては思い出に残るだろう。そう思いながら家路に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

命の30分間疾走 片田真太 @uchiuchi116

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ