1話 入居


「やっと着いた…」


桜もちらちら咲いて生命の息吹を感じる、花粉症の人には地獄の始まりである三月の下旬、俺は入学予定の大学近くのマンションに引っ越した。

このマンションに引っ越したのは家が裕福だからではなく叔父が不動産を営んでおり、このマンションも管理しているからだ。

大学が近いし、叔父の厚意もあいまって、住まわせてもらうことになった。

「しかし、でかいな…このマンション」

入学まで日にちも無いので荷解きも急いでしなければならない。

「取り敢えずおじさんに会いに行くか」

そう考えながら俺は挨拶の為に叔父がいるであろう管理人室へと向かった。


「お、お邪魔します」

管理人室の戸を叩いて若干噛みながら挨拶をした。

「お!待ってたよ!神仁君」

「お久しぶりです。叔父さん。こんないいマンションに住まわせていただけるなんて光栄です」

「しばらく見ないうちにすっかり大人になっちまって、私からしたらまだまだ子供なんだから遠慮なんてするな。だが、その代わりと言ってはなんだが少し頼みたいことがあるんだ」

「頼みたいこと?」

そのあと彼の口から出た言葉は俺の人生を狂わせた。


「共同管理?」

「そうだ。玲も今年○○女子大に入学するんだが一人暮らしがしたい、の一点張りで、丁度、神仁君が近くの大学に入学すると聞いて二人でこのマンションの管理を行うなら、このマンションに住んでもいいという条件で許したんだ」

「管理といっても週一の通路掃除やこのマンション独自の回覧板を回したり、学業には支障が出ないと思うんだけどどうかな?」

「住民トラブルとかどうすればいいんですか?」

「今まで特になかったけど、手に負えないと思ったら連絡してもらえば私が対処するよ」

「分かりました。やります」

「ありがとう。神仁君、娘をよろしく頼むよ」

「はい」

「まあまずこのマンションの掃除個所とどのような周りで回覧板を回すのか説明するよ」

「よろしくお願いします」


一通りマンションの管理について説明された後、

「ほかの仕事があるからあとはよろしく!神仁君。何かあったら遠慮なく電話して」

とおじさんは俺の部屋の鍵を渡してマンションを離れた。

時刻は午後三時頃少し小腹が空いてきたので小腹満たしのついでにマンションの近くを散策することにした。


都会と言ってもここは東京の中心区より比較的空気が柔らかい。

田舎のものに言わせればここも十分大都会なのだが、道沿いに植えられた街路樹や、マンション近くには広めの公園など緑が多く空気もおいしく感じる。

少し歩くと駅前の商業区画がありそこにはスーパーをはじめ、服飾店、カラオケなどの娯楽施設に、居酒屋まで立ち並んでいた。

その中にあった喫茶店に足を踏み入れた。

この店は、大手チェーンでSNSでもサンドイッチなどが逆詐欺でよく炎上する優良店だ。

さっそく店内に入り、珈琲とパンケーキを頼んだ。

出来上がりを待ちながらふと窓の外を見ると今まで歩いていた街は空に朱を差し、俺たち人間に誰そ彼、逢魔が時を告げる。

「ふっ…ロマンチストかよ俺は…」

などと珈琲を嗜みながら言っていると噂通りのボリュームでパンケーキが届いた。

「これが夕飯かな…」

パンケーキと戦うこと数十分、どうにか食べきることが出来たものの、もう外は街灯の光に包まれていた。

会計を済ませ、もと来た道を戻る。

駅前は帰宅ラッシュなのかとても混みあっている。

「…っさむ…」

まだ春の夜は冷える。街灯の光は煌々と足元を照らしても現代社会のように温かみは無い。

地から生えるビル群は昼夜関係なく光を灯し続けている。

そのおかげで実家では毎日のように見えていた星の輝きは見えない。

「一人だと寂しいな…」

マンションに戻ると夕飯が近いのか料理の良い匂いがする。

自室の前まで戻り鍵を開けると、生活感のない部屋に無造作に段ボールが積み上げられた部屋が俺を出迎えた。

「ただいま」

(お兄ちゃん返して!)

誰かが出迎えてくれると思ってただいまと言ってみたものの部屋は静寂のままで、どこかの部屋の兄妹の言い争いが微かに聞こえる。

「家って静かだとこんなにも広く感じるのか」

部屋に入ると俺はそのまま眠りについた。


翌朝、俺は空腹とカーテンから差し込む光で目が覚めた。

「ふぁーあっ。何時だ今?」

時刻は七時半を過ぎたところだった。

昨日リビングのソファーで寝てしまい体の節という節が悲鳴を上げる寸前だった。

カーテンを開け朝日に向かいながら伸びをする。

腰や肘がポキポキと音を立てた。

悲鳴を上げそうだった体は少しマシになったのか、脳の覚醒とともに徐々に少しづつ動き始めた。

「口が気持ち悪いな…」

俺はある日テレビ番組で寝起きの口腔内はトイレの便器よりも菌がいるという話を聞いてから朝一番に歯を磨くようになった。

「あっ、歯ブラシねぇ…」

とにかく歯ブラシが欲しかったので取り敢えずうがいをして近くのコンビニに足を運んだ。

コンビニで歯ブラシを見つけるとダッシュでレジに並び会計を済ませ家に向かった。

少し挙動のおかしい人だと思われたかもしれないが今日はもう寄る予定もないのであまり気にしていなかった。

部屋に戻りすぐに歯を磨いた。口の中の汚れが剥がれ落ちる感覚は朝一番にしか味わえないし、磨いた後の爽快感もまたたまらなく好きだ。

「ぐぅぅ…」

歯を磨き終えるのを待つかのように俺の腹は音を立てて鳴った。

いつもの調子で小腹を満たせるものはないかと冷蔵庫を探してみるも、自分の荷物もばらしていなければ、買い出しにも行っていないのですっからかんだった。

こういう時の心強い味方と言えばコンビニである。

盛大にフラグを立てた俺は歯ブラシを購入してから僅か十数分でコンビニに再入店した。

惰性に作業をこなす店員は少し面倒そうに入店の挨拶をする。

サンドイッチやおにぎりなどの定期配達がまだなのか、チルドスペースには申し訳程度のおにぎりやらが置いてあった。

「どれにすっかな」

選択肢が少ないと、余計に迷ってしまう。

朝からしっかりカツサンドか、野菜たっぷりのミックスサンド。

はたまたコンビニおにぎりの王道ツナマヨ、紅鮭。

「決めた」

不毛な争いの勝者は予想外の肉まんだった。

悩みに悩んだ末、たまたまセールを実施していた肉まんにすることにした。

二つ肉まんを買った後、我慢出来ずに帰り道にアツアツのそれを頬張った。

家に着くとこれまで逃げてきた段ボールの山が部屋を埋め尽くしていた。

残りの肉まんを食べ終えると、覚悟を決めて記念すべき第一個目の段ボールを開封した。

作業を始めると一個目の段ボールはすぐに片付いた。

俺って結構手際良い?なんて考えながら二個目に取り掛かる。

何個か段ボールを片付けると部屋が広く感じた。

男の持っているものなんてたかが知れているし、多く感じたのは段ボールが内容量に対して大きいことにあった。

段ボールの数も残り半分というところで長めの休憩をとることにした。


休憩は、自分で思うように設定できる悪魔的堕落システムだと思う。

高校時代のテスト期間も幾度となくこの堕落システムの餌食になった記憶がありありと蘇る。

集中力が切れたから、少し喉が渇いたから。

誰に弁明するわけでもないのにそんな理由を自分に暗示をして休憩をとってしまう。

コンビニで買い冷蔵庫で冷やしておいた炭酸水を、音を鳴らして飲んだ。

炭酸水ののど越しは何とも言えない爽快感がある。ビール好きの人はよく、泡とのど越しがビールのいいところだと豪語していたがあながち間違いではないかもしれない。

炭酸水を飲み終わると急に眠気が襲ってきた。

そしてソファーに横たわる。

「知らない天井だ…」

引っ越したら行ってみたかったセリフ第一位を口にして瞼を落とす。

すると、知らぬ間に俺の意識は薄れていった。


これから住むべきマンションの一室を見上げる。

(はぁー。…チ○ルチョコよし。久しぶりだなぁ。)

目的の階に向け歩を進める。鍵についたタグと同じ番号の部屋の前まで来ると久しぶりの再会に対する嬉しさより、これから一つ屋根の下で二人だけで住むということに対してのドキドキ感とチクチク感やらが心を犯していた。


鍵穴に鍵を差しゆっくりと、部屋の鍵を開ける。鍵を開けようとしたがガチャリ、という開錠音がしなかった。

(あれ?鍵あいてる?不用心だなぁ。)

そう思いながら、ばれないように慎重に扉を開ける。玄関に入りリビングに入ると、彼の姿を見つけた。

すぅ、すぅ、とソファーで寝息を立てていた。

寝息を立てている彼の前にしゃがみこんで眺める。

小さいときは私の方が大きかったのに中学生になってからあっという間に抜かされていた。

けれど寝ている姿はまるで昔に戻ったかのように小さく見える。

(可愛いなぁ…いたずらしちゃおうかな…)

彼の瞼は優しく閉じられ、口元はいい夢でも見ているのだろうか、だらしなく緩んでいる。

そんな彼を見ていて私は一つの衝動に駆られる。

その衝動に突き動かされ、右サイドの髪の毛を耳にかけ舌で上唇を湿らせる。同様に下唇も…。


『起きないといたずらしちゃうぞ~』


『ほんとにしちゃうからな~』

そう小声で告げると十分に湿らせた唇を、従兄の唇にそっと押し当てた。


「ん…」


唇に違和感を覚えたのか、寝苦しそうに身じろぎをする彼の頬に手を添える。

そしてもう一度唇を重ねる。

彼の唇には微かに私の薄桃色の口紅の色が残っていた。


『っっッ~~~~』


身体を突き抜ける快感が玲を襲う。

あらためて気づいた。

なくなったと思い込んでいた初恋の感覚を。


初恋の味は甘酸っぱいとよく聞くけれど、それは違うと思う。

初恋の味はもっと刺激的な感覚で、ハッカの様な爽快感と氷砂糖の様なゴツゴツとした不器用で控えめな甘さだ。


「ふぁあー」

神仁は伸びをして大きなあくびをした。そして閉じていた瞼をゆっくりと開く。


『ちょっ!待って…』

神仁の突然の覚醒に驚くも、これまでのことが無かったかのように寝ぼけた彼の額にデコピンを当てる。

「いてっ」

『早く起きろーこのねぼすけ』

「ん?なんでお前がいるんだ?」

『サプラ~イズ!』

『鍵開いてたぞー』

「え?まじで?」

『そんなことより早く段ボール片付けないと』

「その前に叔父さんに感謝しないとな。こんな広い部屋に住まわせてくれるなんて」

『何言ってるの?私も同じ部屋だよ?』

「ん???」

神仁は数十秒間沈黙した。

「隣一つ部屋空いてるもんな…叔父さんも言ってたし……」

『だから、私も同じ部屋なの!』

「よく考えれば、この部屋一人で暮らすには広すぎるもんな…」

全てを悟った俺はその事実を受け止めることにした。

『はいこれ』

「チ○ルチョコか、少し甘いものを食べて頭の中整理したいと思ってたんだ。」

そう言うと包装紙から中身を取り出し一粒口に入れる。

唇にチョコが付いた気がして舌を回す。

こんなに甘かったっけ。

何故かこの一粒だけは凄く甘ったるかった。

「印象ずいぶん変わったな、髪とかいつの間に短くしたんだ?失恋?あ、チョコありがとな」

『失恋なわけないでしょ!こんなに綺麗な女の子、誰も断らないでしょ!気分だよ気分』


(男っていつも女子が髪切ったら「失恋?」って聞くよね、けど前髪とか気になったら切ったりするし、オシャレが大半なのに失礼だよね。ホントに失恋だったらどうするの?聞いた後めっちゃ気まずくなるじゃん!)


「自分で綺麗とかいうのかよ…まぁ前より綺麗になったと思うけど」

〈昔から活発な奴だったけどあんまり変わってなくて落ち着くな。〉

「ん?どうした?」

『なんでもないから!こっち見ないで!』

慌てて顔をそらしたが、ちらっと見えた彼女の耳は朱色に染まっていた。

そんな彼女の姿に少しどぎまぎしながらも、一つ疑問が頭に浮かんだ。

「そういえば、お前ひとり暮らししたかったんじゃないのか?」

『お父さんが許してくれなかったの。だから神仁とならっていう条件でここに住めることになったの』

「従兄とは言え、俺も一応男なんだが?」

叔父さん、娘一人暮らしさせるよりセキュリティーガバガバでは?

新しい段ボールを開けるために彼女に背中を見せると後ろから抱き着かれた。

『だって従兄だし?こんなことしたってただのじゃれ合いじゃん』

声の主のものであろう控えめだが堂々と存在を主張するそれは、俺の背中に押し付けられた。

「それは昔の話だろ!」

少し会話がヒートアップしたところで、(ピンポーン)とインターフォンが鳴った。

「ヤマネコ引越センターでーす。お荷物お届けに上がりました!」

『あっ!来た来た!』

段ボールの数があと二、三個ほどになり、気の遠くなるような作業が終わると思っていた。

そこに追い打ちをかける様に俺の荷物の倍以上の数の段ボールが届いた。

「荷物多くないか?」

『女の子は必要なものがいっぱいあるの!』

「お前女だったのか?」

『よく言うよ。さっきちょっとこーふんしてたくせに…』

「っなわけねーだろ!」

(俺と玲は従兄妹同士。これからはちゃんとしなくちゃ。)


黙々と作業をしていると、気づけば時計は午後七時を示していた。

『ねぇーおなかすいたー』

「そうだな、どこか食べに行くか」

『やったー神仁のおごりー』

「は?なんでそうなるんだよ」

『あー!今期間限定の三角チョコパイ出てるー』

(全然聞いてないし…)

渋々玲に連れられてファストフード店まで歩くことにした。

『あ~美味しかったごちそうさまー』

結局、夕飯は俺が支払うことになった。

「明日の朝はお前が作れよー」

『りょーかいっ!』

『じゃあスーパー寄ろー』

「わかった」

『どういうもの食べたい?』

「んー和食」

『オッケー』

そう言うとスーパーに着いた玲は慣れた手つきで食材を買い物かごへ入れていく。

『はい!これ持って!』

「俺が持つのかよ」

『女の子に荷物持たせる男は嫌われるよ!』

と会計を済ませた玲は冗談交じりに言う。

「はいはい」

ため息交じりに言うと神仁はそっと玲の荷物を持つ。

『うむ、くるしゅうない』

家に帰ると彼女はキッチンで明日の準備を始め、俺はというと、家に帰ると急な眠気に襲われそのまま寝てしまった。


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