宗教

 1:45:00


 頭の片隅に何かが入ってきて、彼女の意識は急速に芽生え始める。それが音であるという事に気付くのに、さほど時間は掛からなかった。頭がぼんやりしているが無理矢理覚醒させてアラームを止める。寝間着を脱いでスポーツウェアに着替えていく。彼女の頭はまだ少しぼんやりとしていた。床に座りストレッチを始めていく。身体を温めずにストレッチをするのは悪い事だと浦崎は理解していたが、両親を起こすわけには行かないので仕方なくそのまま続けた。五分ほどやった後静かに玄関に向かい、靴を持ってもう一度部屋に戻った。顔の傷はファンデーションテープで隠して、彼女はその時を待った

 バレていないかと緊張し、心臓が五月蝿く動く。時計を見ると、そこには1:59を刺し示す針があった。今日も針が動き出す。

 気配が変わった。気持ちとは正反対に、動いていた心臓が落ち着き、虫の音が聞こえなくなった。彼女は靴を履いて廊下を歩いていく。大きな音がするが、両親が起きてくる、いや、いる気配はない。

 そのまま外に出て、暗い街中を歩き、矛盾だらけの世界を進んでいく。

「止まりなさい」

 後ろから掛けられた声に、体が反射し、振り返る。そこには手に厚めの本を持ち、全身を黒い祭服で覆った男がいた。顔は色濃いヴェールで見えず、不気味な雰囲気が滲み出ていた。ジリジリと浦崎は後ろに下がった。それに対して祭服の男は動かず、じっと彼女を見つめるだけだ。浦崎は意を決して声を出す。

「誰ですか?」

「『聖書の会』」

 聞き覚えのないその言葉に、何かしらの宗教だと浦崎は認識した。その会が何にせよ、彼女は一刻も早くその場から逃げ出そうと考えていた。

「要件は何ですか?」

「貴方に主の救いの自覚を与えて差し上げます」

浦崎は目の前の男が何を言っているのかわからなかったが理解していようがしていまいが断る事は確定事項であった。

「お断りします」

「貴方はまだ無教徒です。異教徒や科学崇拝共と違い救いの可能性があります。『教会』へお入りなさい。さすれば主の救いを自覚し、満ち足りる事ができるでしょう」

本格的に意味がわからなくなってきた彼女は一歩後ろに下がるが、その瞬間に男は一歩目の前に踏み出してきた。

「お断りしたいんですが」

「恐れや臆病は悪い事ではありません。しかし時には当人に大きな災いをもたらす事もあります。その恐怖を克服し、『奇跡の理論』に従い、この世界を理解すれば、必ずや貴方も主の救いに気付けるでしょう。この世界の名は《隠され》などと言う名ではなく、麗しく主に祝福された《エデンの園》。さぁ、聖書の上に本を置き、主の奇跡を受け入れなさい」

 男は彼女の手の高さに聖書を掲げ、差し出してきた。

「何度も言っていますが、、」

「ごちゃごちゃ抜かすな。入れ。主に栄光を知れ。さもなくば異教徒と見做し攻撃する」

 急に男の態度が変わり浦崎は警戒する。

「(この人、本当に攻撃してくる気がする。一番の解決策は逃げる事。でも逃げれる?エドワードさん見たいな能力を持ってたら助からないかも知れないし...)」

「さぁ!早くしろ!」

色濃いヴェールの奥から出される威圧に浦崎の危機感は急激に上昇した。

「.....(ここは逃げるしかない!)」

 彼女は男に背を向けて全身全霊で走る。景色が流れている。男から見えない様に角を何回も曲がり駅の方まで走っていく。彼女が駅に着いて時間を確認すると、時刻は2:23:12を刺し示していた。浦崎は周りを見渡す。そこに男の姿はおろか、誰もいなかった。少し上がった息を整えながら、彼女は考えを巡らせる。

「(...逃げ切った?攻撃するって言うのは脅し?でもどこまでも追ってきそうな雰囲気があったし...)」

「この異端め。貴様に祝福を受ける資格はない」

 それは、偶然だった。頭で考えてはいない。ただ、反射的に、膝が曲がって、体が落ちていった。

 曲がった足でそのまま前に飛び込み、勢いを殺しながら振り返る。

 男がいた。手には聖書ではなく、包丁より長いナイフ、いや剣が握られていた。パラ、と結んでいた髪の毛が垂れてくる。地面を見ると、そこには付けていた筈の髪ゴムが切られた状態で転がっていた。浦崎は男が首を狙って剣を振り、自分がギリギリ避けたのだと理解した。

「避けたか。まあいい。次で仕留める」

 男の姿が書き消える。その瞬間浦崎は走った。止まったら殺される。彼女は必死にエドワードを探した。エドワードに助けてもらう。それぐらいしか彼女が思いつくことはなかった。しかし声を上げる余裕などなく、ただ流れていく背景の中から、一人の男を探すという作業が続く。

 走る。

 走る。

 そうして、彼女は近くにある公園へたどり着いた。目の前から剣が飛んでくる。反射的に首を逸らしてどうにか剣を避ける。甲高い金属音と共に後ろで何かが壊れる。金属製の物を壊すほどの威力。当たったら確実に死ぬ。目の前に男が現れ、そうしてまた消えた。どうすれば良いか分からず、浦崎は周囲を警戒する事しか出来なかった。

「(どうすればいい?この男の能力は自身を消す事。それはわかっている。でも見つけようがない。消えているのは何?痕跡?姿?姿が現れる条件は?何が...)」

 考えているうちに、彼女のその目には先程の攻撃で壊れた水飲み場が映っていた。何かを思いついた彼女は、そのまま水飲み場に急いだ。動き始めた丁度に男は剣を投げたが、避けられるというよりも外したに近かった。

 水道管が壊れ水が放射状に広がっている。土はぬかるみ彼女の靴は泥で汚れていた。ぐちゃ、という音が聞こえ、彼女はそちらに振り返る。

 男がいた。

「っち」

 男は再び姿を消すが、乾いた地面につく足跡と共に、再び姿を現した。

「(こいつの姿が現れる条件は『周囲に影響を及ぼすこと』?だから剣を放つと同時に姿が現れた)」

「まったく。これだから罪人どもは。毎回毎回反吐が出る。神より授かった我が祝福を見抜かなければ楽に審判を下されたものを。慈悲を受け取らないとはやはり貴様らに祝福を受ける価値などない。貴様は祝福されてから日が浅いのだろう。ならば奇跡を使わずともすぐさま処刑できる。さあ!消え失せろ!罪人!」

 男は姿を消さず、両手に剣を持ち、浦崎に向かって駆けていく。気付いた時には、目の前に刃先がと男があった。もう避けられなかった。しかし、その剣が届くことはなかった。

「お前話なげぇな」

 突如現れた、もう一人の男に防がれたのだ。ジュワァという音と共に剣が融解していく。溶解された鉄は地面に落ちて地面を溶かし、最後には冷え固まり鋼鉄の穴を作り出した。思考が停止していた浦崎の目の前に金髪なのか茶髪なのか微妙なラインの、だっさいくせ毛がある男がいた。

「エドワードさん!」

「よう災難だったな」

エドワードは宗教勧誘男から視線を逸らし、浦崎を見て場違いにもへらへらと笑い出した。

「ッチ!」

「んで?やんのか?」

 男は剣を振りかざし振り返ったエドワードに刃を振りおろす。剣は炎を纏った手に受け止められ、またもや鋼鉄の穴を作り出す。男は剣を手放し後退すた。そこは泥の外。男の姿が消え剣が飛んでくる。男が姿を表したのは一瞬。その瞬間には後方から剣が飛んできていた。エドワードは浦崎を抱き抱え、大きく飛んだ。それは姫を助ける勇者のような持ち方ではなく、どちらかと言うと米俵の方が近かった。

「え、ちょ…」

「いやしょうがねぇだろ」

 誰もいない公園から剣が射出される。

「空中でもよけれんだよなぁ」

 エドワードはうすら笑うと、彼の足元から炎が噴出される。その勢いは爆速。その音は爆音。音と共に二人は空中を横に吹き飛ばされる。そして持ち主を離れた哀れな剣は爆発の生贄となった。光の炸裂は浦崎の髪の毛を襲い、先端は焼け焦げ荒れ狂う昆布のようになり、これもまた生贄となる。二人はそのまま物理法則のもと地面に吸い寄せられ、しかし直前に光と音が起こり運動エネルギーは無散していった。

「クソがッ!次は逃がさんぞゴミ!」

 男は後ろに大きく飛んで後退し、そのまま町の中へと消えていった。二人は未だ男が消えていった町をみている。

「あの…」

「何?」

「降ろしてください…」

「あ、わり」

 微妙な空気が二人の頬を撫でる。お互いはお互いの目を見つめ、しかしその見方は「あなたどこかで会いましたっけ?」と言われ「いいえ会ってません」と即答された時のような、なんとも言えない見つめ方だった。数分の時が立って、ようやく浦崎はエドワードに対して頭を下げた。

「助けてくれてありがとうございます」

「ま、いいってことよ。それにしてもよ...」

 エドワードは不思議に思っていた。この歳になってこんな若い子と一緒にいるなど親子か危ない感じの活ぐらいなものだ。しかして、彼は気付く。なんか明るくね?と。確かに知り合って一週間もたっていない男が何を言っているんだという話であろう。しかし違和感を持ってしまったものはしょうがない。彼は意を決して口を開いた。

「どうしたんですか?」

「なんかいい事でもあったのか?」

「...別に」

 あ、なんかあったなと彼は思ったが、年頃のデリケートな女子の話を聞ける程、彼に父性があるわけでもなかった。

「ま、あんま立ち入ったことは聞く気はねぇけどよ。しっかし、『教会』の連中嗅ぎ付けんのが尋常じゃなく早えな」

「(この人、話の切り替え方が無理やりすぎる。なんかあったのかな?)」

 謎の勘違いが彼を突き刺すが、そんなこと彼にわかるわけはなかった。

「『教会』ってなんですか?」

「《隠され》できた、まあキリスト教系宗教団体だな。全体数自体は少ないが、まぁ割合が多い。《隠され》の4割はそいつらだ」

「でもさっきの男は『聖書の会』って言ってましたよ?」

「ああ、『聖書の会』ってのは『教会』の中で勧誘をしてるやつらだな。で、今の感じだと断ったんだろ?次からは殺しに来るぞ。問答無用でな」

「エドワードさんって欧州の方ですよね?キリスト教の方じゃないんですか?」

「俺はイギリス出身だからな。プロテスタントだよ。奴らはカトリック派生の、ていうかほぼ独自の宗教団体だ。別に仲間意識はねえ」

「そうなんですね」

「それで話を戻すが、こんだけ早く接触してきた理由が一つだけ思い当たる」

「なんですか?」

「お前、初めて隠された時何を見てた?」

「え?エドワードさんが変な氷男と戦って...」

「それだよ。奴らは俺と『砕氷の広場』の戦いを監視してたってわけだ」

「それはまた...どんな宗教団体ですか?」

「うーん、宗教団体というよりはこの世界でも平和に過ごしましょうっていう理念を持ってた団体だ。平和主義の集まりって感じかな」」

「“持ってた”ですか」

「ああ。内部分裂で闘争派が勝っちまってな。今じゃ手当たり次第に攻撃を仕掛けて来る野蛮な連中だよ。一応俺は『教会』と『砕氷の広場』の両方のブラックリストに載っちまってるからな。ま、命狙われるだろうけど頑張れって感じだ」

「私もですか?」

「当たり前だろ。『教会』は俺が関わってしかも異教徒認定。『砕氷の広場』はいずれだな。最初に出会ったのが俺だったっていうのが運の尽きだ」

「...はぁ。助けてもらったので文句は言いませんよ。あなたがいなかったら遅かれ早かれ『教会』って言うのに狙われて死んでましたでしょうし」

「…やっぱ機嫌良くないか?」

「良くないです」

「ま、んなことはいいけどよ。そんでその髪の毛だが…」

「あ、もう切るしかないので家で切るつもりですよ?」

「忘れたのか?ここはあくまで《隠され》。そんなもん戻った時には治ってるさ」

「そうですか」

 エドワードは近くにあるベンチに向かい腰を下ろし、足を組んで腕を背もたれに乗っけた。何度もやってきたであろうその洗練された動きは、もしベンチ腰下ろし大会なるものが存在していたとしたら優勝できるようなものであった。

「ま、隣座れや」

 エドワードは手でベンチをペシペシと叩き浦崎を誘った。彼としてはすぐに話題が終わる浦崎とちょいとした世間話でもしようと思っていただけなのだが、

「え、嫌です」

 世の中そう甘くないもんである。

「まったくもぉ、これだから日本人は。遠慮が過ぎるぜ嬢ちゃんよ」

「普通に警戒してるだけですよ」

「まあ、そんな怯えんなって。取って食うわけじゃねえんだ」

「取って食う可能性があるから警戒してるんですよ」

「散々いろいろ教えてもらっておいてそりゃねぇだろぉよ」

男は肩を下げてうなだれた後、今度は逆にせもたれに背中を預けて上を見た。

「感謝はしていますけど信頼はしていません」

「ま、だろぉな。まぁ、こんな俺でも分かることだ。言っておく」

浦崎は不思議だった。この男はまるで何かを見透かしたかのように彼女と接している。それが、不思議でならなかった。

「なんですか?」

何を言うのか浦崎はわからなかったが、それがあまり良くないことであるのは目の前の男の目を見れば明らかだった。

「嬢ちゃん、あんた誰も信用してないし誰にも期待していないだろ?」


 そこで、鈴の音が聞こえた。

 彼女は自分の部屋にいた。

 時刻は2:38:01秒。

 現実に戻された彼女は、自分の部屋など見ずに、敵か味方かわからない男の台詞を、咀嚼していた。



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