友情

「(どうしてこうなった?)」

 浦崎の思考は今現在これだけに囚われていた。誰もいない教室で松蔦さんと二人っきり。目の前には歴史の教科書とノート。向かいあっている松蔦さんは満面の笑み。側から見れば放課後勉強しているカップルのような光景である。

「ねえ浦崎さん」

「何?」

「この島原・天草一揆ってなんか普通の一揆って感じしないね」

「どちらかと言うと宗教的反乱って言った方がいいかもしれない。でもテストでは一揆でも大丈夫だと思う」

「へー。じゃあさ、なんでオランダが幕府の味方なの?普通一揆軍に加勢してもいい気がするんだけど...」

「オランダはプロテスタントが独立してできた国だからカトリックを攻撃してもおかしくないよ。それにポルトガルを日本の貿易国から排除する狙いがあったって言う説があるよ。実際オランダは鎖国で排除されてないからね」

「よく勉強してるね…なんか自信なくしそう」

「松蔦さんの方が点上だと思うよ?」

「そんな事ない気がする…。ま、そんな事どうでもいっか。もう結構遅いから帰る?」

「そうする」

「じゃ一緒に帰ろ」

「え...うん」

「何その微妙な反応...」

「え...でも...」

「友達と帰るのがそんなにおかしいですか。へーんだ」

「いや...おかしくはないけど...」

「じゃあ一緒に帰ろ」

 いつの間にか荷物をまとめた松蔦さんに、彼女は引っ張られた。彼女は友達がいなかった。しかし、怖いを理由に断れるほど友達が要らないわけでもなかった。だがしかし、自分の傷を見た時にこの子は私を嫌うだろうか?気持ち悪いと跳ね除け、見下し、避けて、貶めるのではないか?そう言う不安が出るほど、彼女は恐怖していた。

 乾いている昇降口を通り、未だ降っている雨の中を進み、二人はバス停まで来ていた。

「浦崎さんどっち方面?」

「駅の方面。駅では降りないけど」

「じゃ一緒だね」

「え...うん」

「(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)」

 彼女の頭の中で『怖い』が反響する。雨の音はもはや聞こえず、ただ心臓の音だけが彼女の心を満たしていた。

 彼女は人間だ。後遺症なく治ったとして、壊れる事がなかったとしても、人並みに傷つく。それが深い傷であればある程、その傷が治るのは難しい。

 彼女の体には頬から胸、胸から脇腹を通り腰にかけて大きな古傷がある。5歳の事故は後遺症なく治ったが、代わりに大きな傷が残ってしまったのだ。医者曰く「奇跡に近い。」なのだが、彼女からすればどんな奇跡だろうと彼女が治る事がない傷を負ってしまったのは確かだ。それの傷を受け入れてくれたのはただ一人だけだった。ただその人はもういない。彼女は中学卒業と同時に肌を隠すことを決めた。顔の傷は化粧で隠し、露出を極力減らし、着替えの時は誰もいない時・場所で着替える事を徹底した。

 一度だけ教員に化粧がバレた事があった。指導室に呼ばれ化粧の是非を問われた時、彼女は嘘をつくことを決めた。それが最善だと思ったからだ。しかし、教員も言葉一つで騙されるほど甘くはない。彼女は執拗に質問してくる教員に折れ、教員に渡された化粧落としで顔の化粧を落とした。結局教員は彼女の化粧を認め、他教員に事情を説明し黙秘をお願いして回った。要はそれほど酷い傷なのだ。

 そんな、自分の弱さを見られるかもしれない恐怖を抱えている彼女を見て、松蔦さんが見かねて声をかけた。

「大丈夫?」

 掛けられた声に体が反応する。弾みに傘がずれ、雨でシャツが少し濡れる。

「うん、大丈夫」

「何かあったら言ってね。力になるから」

「ありがと」

 嘘だ。そう思ってしまう自分の心に、彼女は深く失望し、しかしながらこの思いを捨てることはできていなかった。捨てられる前に、置いていかれる前に、裏切られる前に、期待しないでおく。そんな彼女の潜在的な自己防衛思考が、彼女が彼女と仲良くなるのを彼女自身で拒ませていた。

 下を向いて、しゃがんで、濡れる服など気にせず、ただ恐怖と言う感情を消化していく。どんよりとした雲を映して揺れている水溜りが、彼女の視界を支配する。心音と水溜りで、彼女は、彼女だけがこの世界に居るような感覚を味わう。どうしようもなく一人だ。どうしようもなく、どこまでも、一人だった。

 視界の右側から光を感じ、慌てて見ると、一台の車が猛スピードで走ってきた。幼い頃の記憶が蘇り、全身を触られ撫でられるかのような感覚が生じて、過去の痛みと共に、体に力が入らなくなった。風に煽られ飛んでいく傘。力を失いへたり込む体。全身を打つ雨。真横を通り過ぎる車。飛び散る水溜り。濡れる顔。その全てが、彼女にとって畏怖すべき恐怖であった。

「ちょっと!?浦崎さん!危ないよ!」

 傘を拾った松蔦さんが傘を彼女に渡す。数秒の間、動かない浦崎を見て、彼女は傘を、自分の傘もおいて浦崎に手を貸した。

 屋根などないベンチに浦崎を座らせ、ビショビショになりながら彼女と浦崎に傘を掛けた。

 長い間、浦崎は喋らなかった。雨音だけが場を支配し、彼女が喋り出す頃には、雨は止んで日が差し込んでいた。

「......どうして?」

 不思議で仕方なかった。こんな状況で自分を助ける彼女が。 

 不可解で仕方なかった。この傷を見ても動じない彼女が。

 悔しくて仕方なかった。どこまでいっても醜い自分の心が。

 嬉しくて仕方なかった。この傷を見ても逃げず蔑まず一緒にいてくれる人がいた事が。

 全部の感情が入り混じった複雑な質問に対し、松蔦は、あまりにシンプルな答えを返した。

「友達だもん」

 思考に空白が生じ、力なく見たその人の顔は、まるであの人のようだった。

「確かに、私達は喋って一日も経ってないし、お互いの事を何も知らない。でもさ、友達になるってそういう事だよ。知らない事も知ってる事も、全部受け入れて、頼って頼られて、そう言うのが友達なんだよ。自分の知らない事を知って離れてく人なんて友達じゃないよ。貴女の傷がどう言うものか、なんでできたのか、過去に何があったのかなんて知らない。過去なんて関係ない。今私と貴女は友達だから。それだけだよ。私が貴女を助ける理由なんて」

 雨が降った。何年も降らず、ただ溜まっているだけの雨が、やっと、降った。

「...やっぱ、変だよ」

「バーカ。何度も言わせるんじゃありません!さ、行くよ!」

 遅く進んでいたバスが止まり、ドアが開く。もう一つの雨も止み、陽の光だけが、彼女達を美しく輝かせていた。


「一緒に帰ろ」

「うん」


 空気を読んで待っていた運転手の、早くしてくださいと言う声で、二人は慌ててバスに乗った。







19:23:34



 彼女は松蔦の家にいた。浦崎の家は学校からかなり遠い。松蔦の家はバスを少し乗った所にある為、風邪を引かないうちに服を乾かそうと言う事になったのだ。彼女の家はかなり大きく家と言うよりも、和風のお屋敷と言った方がしっくりくるものだった。浦崎は既に両親に連絡している。娘に友人が、しかも傷を受け入れてくれる本当の友人ができた事に両親はとても喜び、なんなら泊まってもいいと宿泊の許可も出していた。残念ながら浦崎は泊まるつもりはなかった。二時になったら隠される。そしてそれはバレてはいけない。だから泊まることはできなかった。

「山本さんタオルください」

「わかりました。お帰りなさいませお嬢様。そちらの方は?」

「説明は後!タオルが先」

「承知致しました」

 浴衣を着た初老の女性が奥へ消えていく。

「ねぇ」

「何?」

「もしかして大金持ち?」

「そんなんじゃないよ?ちょっと家事情が面倒臭いだけだから」

「嘘だぁ」

「嘘じゃないもん」

「普通家にお手伝いさんなんていないよ」

「あの人は分家の分家の人で別にあれが仕事じゃないもん。だからお手伝いさんと言うよりボランティアだもん」

「分家の分家なんて存在しないよ普通」

「御二方、こちらを」

 二人は女性にタオルを渡され髪の毛と体を拭いていく。暖かくふんわりとした触感が肌を包み浦崎としてはこのまま寝れる、と言った所だった。

「お風呂になさいますでしょうか?既に湯は張っております」

「うーん、どうする?」

「...私に聞かれても」

「じゃあ入ろ!」

 女性に案内され女と書かれた暖簾がある場所に到着する。もう温泉だ、と浦崎は思ったが口には出さなかった。

「え、ここなの!?」

「湯が張られている場所がここしかなく他は少し手狭かと思いまして」

「ま、いっか。入ろ」

「......う、うん」

 どうやらあまり使わない場所らしい。中に入ると唯の温泉の更衣室で彼女の幼い頃の記憶と完璧に一致していた。濡れタオルと化した制服を脱いで彼女達を中に入っていく。これまた風貌は温泉でまるで旅館にある様な大きなものだった。

「.....あのさ」

「何?」

「大金持ちでしょ」

「.....入ろっか」

「うん」

 背中を流す為に5個位あるシャワーに並ぶ。シャワーは特有の音を響かせ、彼女らの身体を温めていった。浦崎はちらっと松蔦を見た。ブロンドのショートヘアが妖しく輝く。その下には傷のない綺麗な肌があった。

「何かついてる?」

「え?いや何も」

「浦崎のえっちー」

「えぇ?」

 彼女の様な肌を、浦崎がどんなに望んだか、松蔦はわからないだろう。

 一通り身体を洗った二人は早速湯船に浸かる事にした。

「「あぁ〜」」

 思わず漏れ出た声が重なり、二人はお互いを見て笑い合った。




 22:30:00

 もう空に雲はなく、綺麗なのか綺麗でないのかわからない微妙な月が道路を照らしている。服が乾かなかったので服を借りようとした浦崎だったが、渡された服が浴衣だったので内心ちょっと引いている浦崎であった。

 黒い高級者に乗せられた彼女は、乾き始めている道路を眺めていた。車が赤信号で停まると、車の後ろから今日最後のバスが列んだので振り向くと、疲れた様子の運転手と塾帰りであろうぎゅうぎゅう詰めの学生達が見えた。

 前の方の殆どが日本西方教徒女学校の生徒で後ろで座っている殆どが浦崎と同じ学校の生徒だ。一番前に立っている女学校の生徒に覚えがあり、誰だったかなと考えていると朝に隣の席に座った人だという事を思い出す。しかしそれ以上の興味は湧かない為、浦崎はもう一度前を向いた。

 信号が青になり車が走り出す。車はどんどんバスを突き放し、最終的にバスは見えなくなっていった。その後十分程で浦崎は自分の家に着き、そこで車を降りた。大きく感情が動いた時特有の疲れが全身を襲う。扉を開けると彼女の母が待っていた。涙目になっている母は浦崎に飛び付き、良かったねと言い、まるで失恋映画でも見たかのように大泣きしていた。リビングには彼女の父もおり、興味がない様にしているが実際半泣きなのは丸わかりだった。

 母に脱ぐのを手伝ってもらい、浴衣を丁寧にしまう。びしょ濡れの制服も母に渡した浦崎は、寝間着に着替えて自身の部屋に行った。部屋に着いた彼女は携帯で1:45:00にアラームをし布団の中に潜った。彼女は天井を見ながら今日の出来事を振り返る。友達ができた。人生で二人目の友達。久しぶりに出来た友達。彼女の心の中で嬉しいが爆発する。溢れ出た感情は抑えきれず、笑いと、涙によって消化されていく。嬉し泣きってこういう事なのかと、今更ながらに浦崎は理解した。そうして嬉し泣き疲れた彼女は、いつの間にか、寝てしまっていた。



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