もしカクヨムのなんちゃって校閲者が芥川龍之介の『羅生門』をチェックしたら

あじさい

文章チェックの実演

 お世話になっております、あじさいです。


 小説投稿サイト「小説家になろう」やカクヨムには、自らもアマチュアなのに他人様ひとさまのWeb小説に口を出す「なんちゃって校閲者」が生息しています。

 自分で言うことでもないかもしれませんし、やってきたのは校閲より校正に近いですが、ともかく僕もそういう人間の一人です。


 

 今この文章を読んでくださっている方の中には、過去に僕から長々と文章チェックを送りつけられて落ち込まれた方もいらっしゃるかもしれません。

 ですが、そんな必要はありません。

 美しく読みやすい文章を書くのは意外と難しいもので、特に自分では間違いや不備に気付きにくいものです。

 他人様の文章に文句をつけてきた僕にしたところで、完璧な文章を書けているわけではありませんし、「正しい日本語」なるものを熟知しているわけでもありません。

 僕は僕の美学と偏見を頼りに「美しく読みやすい日本語」について語っているだけです。

 そのため、どなたでも僕(なんちゃって校閲者)から批判を受ける(受けてしまう)可能性があります。


 というわけで、今回は、「もし芥川龍之介の『羅生門』がWeb小説だったら、なんちゃって校閲者からこのようなツッコミを受けるに違いない」という想定で、文章チェックの実演デモンストレーションをしてみたいと思います。

 一般的に、『羅生門』は近代以降の日本で屈指の文豪が書いた、美しい文章とされています。

 本来は僕ごときが口を出して良いものではないのですが、この場では、これを小説投稿サイト向きの文章に近付けることを目指して添削をしていきます。


 一口ひとくちに「なんちゃって校閲者」と言っても人それぞれの流儀があるので、あくまで僕個人のやり方ですが、今回は以下の流れで文章チェックを書いていきます。


 まずは『羅生門』の冒頭部分を、青空文庫からのコピペで確認します。

 その後、Web小説的に改善点が含まれる1文あるいはその前後を抜き出し、→「 」で修正案を提示します。

 抜き出すと言っても、改善の余地がある箇所を分かりやすくするために、該当部分を【 】ではさみます(手間と時間がかかるので僕は過去の一時期しかやらなかったのですが、今回はやります)。

 修正案は修正した箇所の前後のみを書き出し、ルビは省略します。

 修正案の下には、修正案を提示した理由を解説します。

 『羅生門』は2020年代の小説投稿サイトに載せる文章としては難しい漢字や古い言葉が多く、改行も少ないのですが、そういった点を指摘するのはさすがにフェアではないので、問題視しないことにします。同じ理由で、送り仮名が現在と違うこともここでは無視します。

 解説の後の「※」は、書き手さん(この場合は芥川先生ご本人)に送る内容ではありませんが、僕なりの修正案の書き方について注釈を入れたいときに使います。


 この文章チェック自体に不備があったら、先にあやまっておきます、すみません。


 それでは、始めます。

 まずは『羅生門』の本文から。


――

 ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。

 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさ揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云うわざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、そのがついたり、金銀のはくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、たきぎしろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸こりむ。盗人ぬすびとが棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

(芥川龍之介『羅生門』、青空文庫より)

――


「羅生門が【、】朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさ揉烏帽子もえみぼしが【、】もう【二三人】はありそうなもの【である。それが、】この男のほかには誰もいない。」

→「羅生門は朱雀大路にあるのだから、雨やみをする市女笠や揉烏帽子がもう二、三人はありそうなものだが、この男のほかには誰もいない」

 「、」は文中を区切るものですが、打ちすぎるとかえって読みにくくなります。原文は1文が長いので、主語と述語がストレートにつながっている場合は「、」を打たない方が良いでしょう。

 また、原文「二三人」はパッと見ただけでは「二十三人」にも読めてしまうので、「、」を打って「二、三人」とした方が分かりやすいと思います。

 原文の該当箇所には「この男」が2回出てきます。間違いではありませんが、個人的には少ししつこい、あるいはもったいぶっている印象なので、2つの文をつなげた案を提示させていただいています。原文は80+18文字、修正案は83文字です。

※「、」は読点とうてん、「。」は句点くてんと言いますが、僕の文章チェックでは、一目で分かるように「、」「。」と書いています。


「何故かと云うと、この【二三年】、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉【とか云う】わざわいがつづいて【起った】」

→「何故かと云うと、この二、三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とかの災がつづいて起ったからだ」

 1文の中に「云う」という言葉(漢字)が2度あるのは、Web小説としてはややしつこい印象になるので、どちらかを削る工夫をした方が良いと思います。

 また、文の始まりが「なぜかというと」なら、文末は「~だからだ」とするのが適切だと思います。


「【そこで】洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない」

→「(そのため、)洛中の」

 そもそも接続詞を入れないというのもすっきりして良いと思いますが、もし入れるなら「そこで」ではなく「そのため」が適切だと思います。

※「一通りではない」は2020年代の日常会話ではあまり聞かない表現であり僕個人としては分かりにくいと感じますが、辞書に「一通り」には「普通。並」という意味が載っているので、添削の対象にするほどの分かりにくさではないと判断しています。


「【旧記によると、】仏像や仏具を打砕いて、そのがついたり、金銀のはくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、たきぎしろに売っていた【と云う事である】」

 文法的なことではありませんが、これまで断定的な書き方をしていたのに唐突に「旧記によると(略)と云う事である」と言われると、語り手(地の文)が当時の出来事を実際に見てきたていで語っているのか、それとも「史料によるとそういう下人がいたらしい」という推測あるいは仮説の話をしているのか分からなくなるので、そういうメタ的な記述は削った方が良いと思います。


「洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より【誰も捨てて顧る者がなかった】」

→「元より誰も捨てて、顧る者がなかった」あるいは「元より誰も(捨てて、)顧ることがなかった」

 「誰も」という主語には「捨てて」が対応し、「顧る者が」という新たな主語に「なかった」が対応していますが、「捨てる」と「顧る」という2つの動詞がつながることで読みにくくなってしまっているので、「、」で区切るのが良いでしょう。

 また、「誰も」、「顧る者」と2つの主語は意味的に重複しているので、ひとつにまとめてしまうのもよいと思います。その際、「捨てて」を削るとよりすっきりするはずです。


「とうとうしまいには、引取り手のない死人を【、】この門へ持って【来】て、棄てて【行】くと云う習慣さえ出来た」

→(a)「死人をこの門へ持ってきて、棄てていく」あるいは(b)「死人をこの門へ運び、棄てていく」あるいは(c)「死人をこの門に棄てていく」

 「食べてみる」の「みる」、「行ってくる」の「くる」などは補助動詞であり、漢字で書いても間違いではありませんが、一般的にはひらがなで書くようです(「持ってくる」は本当に「来て」いるので特にグレーゾーンな気もしますが、ひらがなで書くのが無難でしょう)。

 僕も迷っていますが、どちらかと言えば死人は「持つ」ものではない気がしたので、修正案(b)では「運ぶ」という語を使っています。また、単に「死体をこの門に棄てていく」と書けば「持ってくる」「運んでくる」という部分を書かなくても済んで文字数を削れそうなので、修正案(c)も用意しました。

※補助動詞を漢字にするのはWeb小説でかなり頻繁ひんぱんに見かけます。もちろん、『羅生門』などの近代文学では一般的な書き方ですし、「やって来た」や「~して下さい」などのように漢字でもしっくりくる例もあります。究極的には好き嫌いの問題かもしれません。ただ、「食べて見る」ではお行儀が悪い気もしますし、「行って来た」では「行った」と「来た」のどちらを強調したいのか分かりにくくなるように思います。Web小説では児童文学やライトノベル以上に、軽い読み心地が重要になってくるので、こだわりがないならひらがなにした方が良いと思います。


「そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは【足ぶみをしない】事になってしまったのである」

→「足を踏み入れない」

 おそらく芥川先生が『羅生門』を書いた当時は「足ぶみをする」という言葉が「足を踏み入れる」という意味で使われていたのだと思いますが、少なくとも僕の手元の辞書にはそのような用法は書かれていません。一種の死語でしょうから、2020年代の小説投稿サイトでは別の言い方を考えるのが得策かと思います。


 以上です。




 こうして見ると、我ながら「お節介なことを好き勝手に言わせてもらっているな」と思います。

 僕がなんちゃって校閲者をやっていられるのは、ひとえに皆さんのご厚意のおかげです。

 ありがとうございます。

 この試みが、皆さんの創作活動の一助になれば幸いです。


 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

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もしカクヨムのなんちゃって校閲者が芥川龍之介の『羅生門』をチェックしたら あじさい @shepherdtaro

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