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  • 文章チェックの実演への応援コメント

    句読点で、真っ先に太宰治を思い出しました。「ここの読点がいらない」と感じたことは、太宰の文章を読んで多々あります。ですが、あのリズム感が良いんですよねえ。彼の散文は目で捉えるよりも、耳に感じたほうが心地良いのですよ。

    ※web小説とはいえ、ろくに推敲しないで公開している自分には、グサグサと刺さって痛いです。しっかりとした文章を書けるように、今日からでも頑張ります!

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。
     たしかに句読点の打ち方はリズムに関わるので、好き嫌いの問題になるかもしれませんし、必ずそうしなければならないという一般論などないかもしれません。とはいえ、句読点の打ち方によっては、文章の読みやすさ・読みにくさが変わってきます。この小論を書いた理由の1つは、書き手の皆さんに、句読点のような細かい部分にもこだわる発想と他の書き方の選択肢を持っていただきたいと思ったからです。結局のところ、作品に責任を持つのはなんちゃって校閲者ではなくそれぞれの書き手さんですから、この小論が書き手さんの選択肢を減らすのではなく、増やすことに役立ってくれることを願っています。

  • 文章チェックの実演への応援コメント

    文章のリズムは難しいものがありますね。
    良い悪いは個人の感性によるものなので…。

    表記法の約束事の多くは、原稿用紙に文字が
    書かれていた時代のものなので、Webで読む事なんて、
    そもそも考えていませんから、必ずしも合理的とは言えない。

    出版社によって違いもあったりする。

    その細かい部分を【決まりだから!】と言っても、
    あくまで慣用としてそうなっているだけなので、
    本来良いも悪いもないですから…。

    作者からの返信

     コメントを下さり、ありがとうございます。

     おっしゃっていることは全くもってその通りだと思います。
     芥川先生と現在の我々では、そもそも文章のルールも小説に求める意味も違っているので、一方的に文句をつけるのはアンフェアです。また、僕が提示したルールにしても、日本全体で合意が取れているわけではないでしょう。
     僕としても、自分がたまたま知った特定界隈だけのルールを他人様に押しつけて回るようなことは控えねばと思っています。

     ただ、僕ごときが歴史的な文豪にケンカを売るようなアホなことをわざわざやったのには、本文中には書いていませんが、いくつかの理由があります。
     そのひとつは、仮に「Web小説でこんなミスを多く見かけます」という話にしてしまうと、素人の僕が素人相手にマウントを取るような話にしかならないからです。僕や僕のような「なんちゃって校閲者」がどなたのどんな文章にも文句をつけかねない人間であり、文句をつけられても落ち込む必要はないと読者の皆様に認識していただくためには、芥川先生のような明らかに格上の「書き手」にケンカを売る必要がありました。
     もうひとつは、Web小説は、実は純文学以上に文章のリズムや表記方法にこだわらないと損をする分野だ、というのが僕の持論だからです。芥川先生は文豪だと認められているので文章が読みにくくても大切に読んでもらえますが、Web小説では読者が書き手の技量を信用していないので、読みづらいと簡単に見限られてしまいます。もちろん、リズムの感性は人それぞれですし、表記方法は出版社ごとに違いますし、それぞれのルールに良いも悪いもないかもしれませんが、1つのWeb小説の中で文章の接合がちぐはぐだったり、明らかに分かりにくい表記・表現をしたりするのは非常にもったいないです。そういった諸点に注意を促すためには、『羅生門』のように明らかに中身が良い(とされている)小説であっても、もしWeb小説だったら読まれない可能性が高い、と示唆する必要がありました。Web小説を多くの人に読んでもらうためには、「文章の美しさ」のようなものに相当こだわらねばならないわけです、仮に統一的なルールやその正当性がはっきりしていないとしても。

     本作を通して僕が提示した美学が気に喰わない人がいるとしても、僕はそれで構いません。元々、なんちゃって校閲者だとか何とか言って他人様の文章を勝手に添削するときも、僕の指摘を活かすかスルーするかはご本人にお任せしています。ただ、せっかく良いものを書いているのに形式的な部分で評価されていない人がいるとしたら、僕としてはその状況を放置するのがどうにも気持ち悪いんですね。そのため、お節介ではあっても、何も言わないよりは言っておいた方が良いだろうと思うことにしています。

     長文失礼しました。
     この度は、読んでくださってありがとうございました。

  • 文章チェックの実演への応援コメント

    こんにちは。

    まず、偉大なる先輩の文章を料理してやろう、という目の付け所が面白いと思いました。
    まあ正直、筆者の権威うんぬんは作品の要素として評価に加味されるされるべきでないとはつねづね考えていますけれども。
    そしてその修正候補について、自分と感覚が似ているなという気がしました。
    基本、極力誤解を招かない記述のしかたに沿う、というのは誰もが同意するところでしょう。
    その観点での、漢字で表記するかかなで表記するか、というような選択は日頃から悩まされます。

    ただそれ以外にも、たとえば読点の打ち方など、リズムを重視するという観点が、ひと昔の文章では案外希薄だなあという感想を持っていたので、その指摘にはいたく共感しました。
    古来から短歌や長歌など、リズムを重視してものを述べるという概念がすでにあったわけでして。
    そういう体裁のほうが文章としても美しいし、頭にも入ってきやすいと思われるので、どうしてそういう部分があまり追究されなかったのかなあと、不思議に思う部分でもあります。

    余談になりますけれども、自分はほかに作曲などもしたりするのですが、このリズムの匙加減の感覚というやつがまあまあ、実は作文でも作曲でも共通するところでは、と思わないでもないです。

    作者からの返信

     コメントを下さり、過去の小説も読んでくださって、ありがとうございます。

     エッセイなんだか創作論なんだかよく分からないこの小論を書くきっかけは、他の読者さんとのおしゃべりでした。『カクヨムを始めました。』というエッセイの「文学理論って何だろう。」という記事とその応援コメントに対する返信の中で、僕は学校における国語教育の現状についてあーだこーだと文句を言ったのですが、そのときに「深夜アニメと同じように純文学にも『お約束』があるのに、学校の先生はそれを教えない上に、その『お約束』に乗るのが当たり前だという前提で話をしていてけしからん」というお話をさせていただきまして、次のように書いたんですね。
    「文学作品にもお約束があります。それはたとえば、文法や言い回しの分かりにくさは原則として気にせず、作品のテーマやメッセージに注目するというものです。この『お約束』を踏まえて読まないと『羅生門』でさえ素人っぽい駄文になってしまう訳ですが、先生方は時としてお約束の説明をすっ飛ばして『これは文句なく優れた詩なんだ』、『真面目な生徒ならこの物語を面白いと思うはずだ』というスタンスで授業を進めるので、それに共感できない一部の生徒の目には、先生が自身の主観的・感覚的な読み方を押し付けてくるように映ることでしょう」
     ただ、この文章の中では結局『羅生門』のどこがどう「素人っぽい駄文」なのか具体的に解説せずにいて、それがずっと僕の中で引っかかっていました。冷静になって思うとこの言い方はやはり強すぎたと思いますが、『羅生門』の文章には(現代的な観点から見ると)ツッコミどころが多いんだという話をやることに(自己満足としての)意味があったと思っています。

     リズムの感覚については、僕は純文学についてほぼ何も知らないのであまり知ったような口は利けませんが、現代人とはリズム感覚の根本が違っているような気はします。情報社会に生きる我々は様々な音楽に嫌でも触れてしまう生活を送っており、何なら音楽がない無音の状態では落ち着かないとさえ感じるわけですが、芥川先生が生きていた当時はおそらくそうではなかったでしょうし、当然ながらビートルズもいませんでしたし、もしかすると散文の小説を書くときまでリズムにこだわるという発想がなかったのかもしれません(失礼)。あるいは、広い意味では日本近代文学の黎明期の人でしょうから、漢詩や和歌と違い、あえてリズムを無視した文章を書くことで、「散文の小説はこんなふうに自由であるべきだ」ということを表現するような時代の風潮があったのかもしれません。
     分かりませんけれども、ひとつ言えるのは、現代的な観点から言えば少々古めかしい文章だということは否めないという点です。もちろん「だから『羅生門』なんて大したことないんだ」とは言いませんが、現代的な観点から言うと必ずしも「美しい文章」とは言えないということは、(学校現場も含めて)もう少し意識されてもいいんじゃないかと思いますし、文豪やその作品を過度に権威化しないためにはそれも案外大切なのではないかと思います。